番外編1 オードリー――馬車の窓には鉄格子がある
馬車の窓には、鉄の格子がはまっていた。
王家の護送馬車だから、内側の飾りは少ない。座席の革はよく磨かれているが、伯爵家の馬車のような柔らかさはない。窓掛けも厚く、外から中が見えにくい代わりに、中から外も見えにくかった。
向かいには王家の護衛が一人座っている。扉の外にも、たぶん一人。車輪の音に混じって、馬の蹄が石を打つ音が続いていた。
「寒くはありませんか」
護衛が訊ねた。
「平気です」
そう答えると、護衛はそれ以上続けなかった。
よく訓練された者の沈黙だった。伯爵家の若い従僕なら、ここで膝掛けを直しましょうか、暖炉のある部屋まではもう少しです、何かお飲み物を、と続けただろう。親切に。気遣うふりで。あるいは本当に気遣って。
伯爵家では、そういう言葉がよく使われた。
――奥様。
――お加減はいかがですか。
――お任せいたします。
――奥様のおっしゃる通りに。
私はその言葉を受け取り、食卓の花を替え、リネンの数を確認し、客間の暖炉へ火を入れさせた。砂糖壺の置き場所を変えれば、翌朝にはその通りになっている。鍵束を持てば、閉じている部屋と開けてよい部屋が、屋敷の中にきちんと分かれる。
整っている屋敷は、人を安心させる。
銀器は磨かれ、テーブルクロスには皺がなく、窓辺の花は朝のうちに新しいものへ替えられる。子供部屋の暖炉は冷えすぎる前に火を足し、季節の変わり目には衣装部屋の防虫香を替えた。誰かが熱を出せば、薬湯の濃さを医師に確かめる。誰かが喪に服せば、黒い布の質と袖丈を確かめる。
そういうことを続けていれば、屋敷は静かに見える。
馬車が大きく揺れ、窓枠の金具が鳴った。
道が少し悪くなったらしい。王都から離れるにつれて、石畳の継ぎ目が粗くなる。曇った窓の向こうに、灰色の空と、冬枯れの木立が細く流れていく。
――もう伯爵家の奥様ではない。
ハーグリーヴ氏は、あの時、そう読んだ。
――オードリー・ラングレー。
バーレイの名は、書面の上から外された。エドガーの妻という席も、伯爵家の家政を預かる席も、王家の裁定によって閉じられた。残ったのは、嫁ぐ前の名だった。
――オードリー・ラングレー。
……その名を最後に聞いたのは、ずいぶん昔のことだ。
男爵家の奥の部屋で、医師が母に向かって声をひそめていた時だった。
***
あの頃の私は、まだ子供と大人の間にいた。
髪は今より少し明るく、背だけが先に伸び、母はよく「もう少し柔らかい色のドレスを着なさい」と言った。
柔らかい色。淡い桃色、薄い水色、若草色。社交の場に出るなら、その方が若い娘らしいと。
そんな、若い娘らしい服を着ていた日だった。
……父男爵の書斎には、銀の燭台があった。
台座が重く、模様の溝に黒ずみが残っていた。磨き係の怠慢だと、母なら小言を言っただろう。蝋が一筋、台座の横を白く垂れていた。
そしてその時、その蝋を、私は横から見ていた。
子爵の声が間近にあった。
父の友人。家の恩人。将来こちらのためにもなる方。そういう紹介を、少し前に聞いた。
母はいつもより高い香水をつけていた。甘く、重く、花の名前より先に頭が痛くなる匂いだった。
その夜、書斎の扉は内側から閉まった。
燭台の重さを、その時の私は考えた。
――手に取れば、どのくらいの速さで振れるのか。
――あの台座がこめかみに当たれば、どんな音がするのか。
――蝋がついたままでも、人の頭は割れるのか。
だが燭台は机の上にあり、私はただ、絨毯の模様を覚えただけだった。
……赤い花と、青い蔓。
*
書斎の絨毯は父の祖父の代からあったものだ。
端の房が一本だけ切れかけてしまったので、後日、母が職人を呼んだ。
職人は跪いて房を直し、父はその仕上がりを見て満足した。絨毯は直った。
私のドレスも、あの翌朝には片付けられた。
母の侍女が湯を運び、古い布を何枚も持ってきた。
薬草を煮出した湯は、部屋の中に苦い匂いを満たした。
母は泣いていた。白粉の下の目元だけが赤く、時々、口元をハンカチで押さえた。
「オードリー」
母は私の名を呼んだ。
その声は、娘を呼ぶ声というより、壊れた花瓶の前で立ち尽くす人の声に近かった。まるで、どこから手をつければ元の形に見えるか、考えているかのように。
父は昼近くに部屋へ来た。
書斎ではなく、私の寝室だった。母の選んだ厚いカーテンが閉められて、昼なのに部屋は暗かった。
医師の鞄が椅子の上に置かれていて、革の匂いと薬草の匂いと母の香水が混ざり、寝台の天蓋の中まで入ってきた。
「……子爵家へは、こちらから話をする」
父はそう言った。
――話をする。
その言葉は便利だった。抗議する、とも、責める、とも、償わせる、とも違う。
――話をする。
すると、声を荒げず、書面にも残さず、男同士で扉を閉めて扱える程度のものになる。
父は椅子に座らず、寝台の横に立ったまま続けた。
「お前は、当分外へ出ない方がいい。体調を崩したことにする」
「……はい」
「使用人も少し替える。余計なことを口にする者が出れば、この先、結婚にも響く」
その時点で、父はもう次を見ていた。
娘の《《今》》ではなく、娘の先にある使い道を、手続きを見ていた。
どこの家へ出せるか。どの程度までなら隠せるか。子爵家とどう折り合うか。
母は父の横で泣いていた。
「あなた、この子は……!」
「わかっている」
父は母にそう言った。
何がわかっていたというのだろう。私の何が。あなたがこの家に連れ込んだ者の何が。
*
私の部屋には鍵が増えた。
医師は数日通い、侍女は二人替わった。
湯を運ぶ時間も、食事を持ってくる者も、母が決めた。
廊下の向こうで使用人たちの足音が減り、代わりに母の侍女の靴音だけが増えた。
子爵家の馬車が男爵家の門前に来ることはなかった。
父は何度か書斎へ人を呼んだ。
封書は届いた。母は封を切るたび、香水をつけ直して書斎へ行った。
そして夕方になると戻ってきて、私の寝台の横に座った。
今日はよく休めたか、食事は入ったか、医師は何と言ったか。そういう言葉だけが並んだ。
そして私はただ食べた。薬も飲んだ。髪も梳かせた。
柔らかい色のドレスは衣装部屋の奥へ移され、代わりに部屋着ばかりが増えた。
薄い生成り、灰色、地味な青。洗いやすく、目立たず、誰の記憶にも残りにくい色。
男爵家は忙しかった。
父は子爵家との関係を切らずに済む形を探し、母は使用人の口を塞ぎ、医師は診療記録の言葉を選んだ。
侍女は汚れた布を焼き、家令は出入りの記録を改めた。
庭師だけが、いつも通り朝に水を撒いていた。
窓の外で、水が土に落ちる音がした。
その音を聞きながら、私は父の書斎の燭台を思い出していた。銀の台座。白い蝋。赤い花と青い蔓の絨毯。
壊れたものは、たいてい先に隠される。
修理できるかどうかは、そのあとで決まる。
***
馬車の中で、護衛が少し身じろぎした。外の道がまた荒れたらしい。車輪が穴を拾い、座席の革が軋む。
「もう少しで、休憩所です」
護衛が言った。
「そうですか」
窓の向こうには、低い石塀が見え始めていた。その先に、王家の管理する施設がある。
今日はそこで一晩を過ごし、明日、さらに北の修道院へ移されると聞いている。
――修道院。
子供の頃、一度だけ母に連れられて女子修道院へ寄付を届けたことがある。
白い壁、よく磨かれた床、乾いた薬草の匂い。年老いた修道女が母に礼を言い、母は穏やかな顔で頷いた。
あの時、母は言った。
「女はね、行くところを間違えなければ、静かに暮らせるものよ」
――静かに。
母はその言葉が好きだった。
――静かに。穏やかに。慎ましく。家に迷惑をかけず。恥を増やさず。
馬車が止まった。
外で蹄の音が乱れ、すぐ整う。扉の向こうで護衛が何か短く告げた。向かいの男が立ち、先に降りる。冷たい空気が馬車の中へ入ってきた。
「ラングレー様」
そう呼ばれて、私は顔を上げた。
ラングレー。その名は、父の家の名だった。
私を閉じ込め、隠し、医者と侍女を入れ替え、子爵家への馬車を出そうとしなかった家の名だった。
「足元にお気をつけください」
「ええ」
踏み台が置かれていた。黒い木製で、端が少し欠けている。そこへ靴を下ろすと、土の湿り気が裾の内側へ上がってきた。
石塀の向こうで、鐘が鳴った。
――一つ。
――二つ。
その音は、伯爵家の食堂の銀器よりずっと鈍く聞こえた。




