49 一年後、自分で返す手紙
それから一年後の初夏、ホルム家の王都屋敷では窓を開ける時間が増えていた。
午前の光が、応接室の床に細く伸びている。
庭の木々は葉を広げ、風が入るたび、窓辺の薄いカーテンがわずかに揺れた。マギーは窓辺の机で、父伯爵から届いた手紙を読んでいた。
手紙は毎月来る。
最初の頃は、封を切るだけで一日かかった。封蝋を見ただけで息がつかえ、紙を開く前に机の引き出しへ戻したこともある。読むのに二日かかり、返事は書けなかった。
今は、読める。返事を書く月もある。書かない月もある。
父は、それについて何も言ってこない。
この日の封筒には、父の手紙とは別に、王家法務局からの写しが一通入っていた。一年の観察期間のちの最終決定ということだった。
マギーは先に父の手紙を畳み、写しを開いた。
途中まで読んだところで、エレノアが茶を持って入ってきた。
「届いたのね。……ずいぶん長かったわね」
エレノアは盆を机の端へそっと置いた。
観察期間には、事件の検証もあった。王家法務局が改めて、事故の検分書類を見直したのだという。
馬車にどう手が入っていたか。子爵家の使用人への聞き取り。
子爵家の周辺で関係する家、オードリーの実家であるラングレー家にも調査が入った。
ラングレー家には、子爵家との関わり、ロズリーがどのように生まれ、どのように外へ出され、どのように子爵家へ移されたのか、改めて問われたらしい。
彼らは、ただ驚き、嘆き、そしてまるで予定外であったかのように娘を罵ったという。孫についても知らない、関わりはない、と言い張ったと書かれていた。
……入ってくる情報は、決して優しいものではなかった。
マギーは、人の悪意に無縁だったわけではない。だが、それが書類になり、証言になり、家の名と印で整えられて戻ってくることには、また別の重さがあった。
だからエレノアは、手紙によっては先に内容を確かめた。読むかどうかをマギーに選ばせ、読んだ後には必ず茶を出した。
何かを言う日もあれば、ただ同じ部屋にいるだけの日もあった。
「今日は、読める?」
「読みます」
「では読みなさい。読めなくなりそうなら言って。私が読むわ」
マギーは頷いた。
写しには、三人の最終的な処遇がはっきり書かれていた。
――オードリー・ラングレー。
そこには、もうバーレイの名はなかった。
――子爵家の馬車に細工をするようミルナーへ依頼したこと。
――事故前日に喪服を用意させたこと。
――事故後にロズリーをバーレイ家へ入れる文書へ関与したこと。
――マギー・バーレイの所有物と私信を移動させ、外部への連絡を妨げたこと。
殺意は結局、認定することができなかった。当人が一年間、決してそれを認めなかったのだという。
だがそれでも、人が死ぬ危険を承知でありながら馬車へ手を入れさせた責任は消えなかった。
事故に至るまでの手配、事故後の動き、ロズリーをバーレイ家へ入れるための文書の整え方。そのどれもが、偶然では済まされないと判断されていた。
その結果、オードリーは王家管理下の修道院へ送られ、終身そこで暮らすことになった。
外部への手紙は検閲を受け、ロズリーとの接触は認められない。バーレイ伯爵家との婚姻も、王家裁定で解かれた。
マギーはそこを二度読んだ。
――オードリー・ラングレー。
その名は、既にマギーの中では乾いた記憶の中にあった。
いつも低い声で名を呼んだ人。
食卓の花を選び、茶器の位置を直し、父の外套の季節を覚え、兄たちの手袋を揃え、マギーが熱を出した時には薬湯の苦みを少し薄めさせた人。
そして、ロズリーの胸元に母のブローチを留めた人。
父の妻だった人。母ではなかった人。それでも、マギーの暮らしの中にいた人。
その人は、もうこの家の名を持っていない。
マギーはこの一年、何度もオードリーのことを考えた。
怒りはある。今もある。
あの朝の居間で、母のブローチを「この家のあたたかさ」と呼ばれたことは忘れられない。自分の小箱を開けられたことも、父とウィリアムが自分ではなくロズリーの方を見たことも。
けれど、怒りだけで一日を終えるには難しかった。
オードリーはマギーの食べられないものを知っていた。夜会の前に似合わない色は決して選ばせなかった。亡き母の真珠をつける日には、ドレスの襟元を少し直させた。
――だからこそ、腹が立った。
何も知らない人なら、まだよかった。知らないからそんなことをしたのだと、そう思えた。
けれどオードリーは知っていた。知っていて、選んだ。
マギーに何が大事かを知った上で、そこからロズリーへ渡すものを選んだ。
……それが一番、許しがたかった。
それでも時々、思う。
――もしオードリーが、最初からただの悪い人だったなら、自分はもっと楽だったのではないか?
優しかったことがある。世話をされたことがある。感謝したことがある。それらは、後から全部黒く塗りつぶせるものではなかった。
マギーはそれを、少しずつ認めるようになった。
許すためではない。忘れないためだった。
次に、ロズリー。
――馬車への細工を知っていたとは認定されない。
――ただし、事故前日にミルナーから「お母上から」と外出を避けるよう伝えられたことを隠したこと。
――事故後、それをオードリーと結びつけていたこと。
――マギー・バーレイの所有物を得た経緯について、最初の聞き取りで十分に述べなかったこと。
ロズリーから新たな事実は出なかった。出すだけのものがなかった。
オードリーと違い、常に自分がどうなるか、というを心配していたという。
結局は、オードリーとは別の女子修道院に置かれることとなった。そして数年の監督期間を経るまで、社交界へ出ることも、婚姻を結ぶこともできない。
子爵家の爵位整理からは外され、生活費は王家預かりの子爵家資産から必要分だけ出される。
男爵家で引き取られることも案に上がったが、それに関しては、男爵家が拒否した。ロズリーは女子修道院を出る際に、その身分を自ら選ぶことになる。
そして、
――ウィリアム・バーレイへの接触は今後も認められない。
マギーは、その一文で少しだけ息を止めた。
ロズリーについても、この一年、何度も考えた。
最初は、考えたくなかった。思い出すのは彼女の、謝りながらも決して外さない手だった。そこにはどこか常にこちらを責めるような弱さが混じっていた。
――どうして、そう思えたのだろう?
――どうして、人のものを胸につけたまま「私が悪いんです」と言えたのだろう?
マギーには、わからなかった。
だが手紙や証言の写しを読むうち、少しだけ見えるものもあった。
ロズリーには、最初から「自分のもの」が少なかったのだろう。
外で育てられ、子爵家に入れられ、そこでまた作法と立場を覚えさせられた。
差し出されるものは、誰かの都合で来る。取り上げられるものも、誰かの都合で去る。欲しいと言う前に決められ、嫌だと言っても変わらない。
そういう場所に長くいれば、《《差し出されたものを掴むこと》》だけは覚えるのかもしれない。たとえ、それが誰かのものでも。返さなければならないものでも。
ロズリーは、たぶん知らなかったのだ。人の小箱には、人の時間が入っていることを。ブローチ一つに、母の膝や笑い声や、幼い手で触れた真珠の冷たさが残っていることを。
……そう思うことはできた。
けれど、思うのと、感じることは違う。
知らなかったからといって、奪われたものが戻るわけではない。ロズリーがそういう子になった理由と、マギーが傷つけられたことは、別の場所にある。それも、この一年で覚えたことだった。
ロズリーはバーレイ家でひたすら守られていた。オードリーが据えたそれは、常にマギーの上に置かれていた。
オードリーが置き、父が退けることなく、ウィリアムが喜んで支えた。
それをロズリーは、途中で知ったはずだった。少なくとも、何も知らないままではなかった。
だからマギーは、ロズリーを哀れだと思う日があっても、かわいそうだけでは終わらせなかった。
最後に、ウィリアム。彼は罪には問われなかった。
だが、その後の行動を鑑みても、家督継承者としての判断力には疑義がある、と書かれていた。
――最低三年間、バーレイ伯爵家の対外判断と家政実務から外すこと。
――南の管理地で、代官と王家の確認役のもと、帳簿、領民対応、報告書作成を学ばせること。
――復帰には、伯爵家だけでなく王家法務局の確認を必要とすること。
つまり、長男だからそのまま継ぐ、という道は消えた。
サミュエルが当面、父を補佐する。家督については、三年後に改めて判断する。と父も書いていた。
マギーは写しを畳み、机の上に置いた。
エレノアは茶を注いだ。カップは、マギーの手の届くところに置かれる。近すぎず、紙にかからない場所だった。
ウィリアムに関してはやや甘い裁定だ、とエレノアは当初思った。
だがすぐ、法務局は無理な年限をあえて置いたのかもしれない、と思い返した。
具体的に何をしたわけでもない、と見なされかねない者を廃嫡するには、手順がいる。本人に学ばせ、周囲に見せ、復帰の条件を王家が握る。その形にしたのだろう。
あのウィリアムが、そう簡単に考え方を、いや考える能力を身につけることはできない。彼は物事を点で見て、気分で動く。全体を線で追うことができない。
エレノアは今までそういう人間を見てきた。学校で、勉学のみで判断できるうちはいい。
だが人と人の関わる場面で、ましてや伯爵家を支える者としては、明らかに無理がある――。
マギーは全部を読み終えると、ふう、と息をついた。
「どう?」
「終わった感じは、しません」
「でしょうね」
「でも、私を含めた皆が、今どこにいるのかは、わかりました」
「それは大事よ」
エレノアは自分のカップを持った。
「行方がわからないまま、噂だけ残るのが一番悪いわ」
マギーは頷いた。
オードリーは、もう伯爵家にはいない。ロズリーは、どこへ送られたかがわかる。ウィリアムは、家を継ぐ椅子に座っていない。
それだけは、紙の上で確かめられた。
「お父様は」
マギーは父の手紙を見た。
「居間の椅子を、色々悩みあぐねた末、お母様の部屋へ戻したそうです」
「そう」
「そして緑の紐で、手紙をまとめ直した、と」
「それは、エドガー様が?」
「はい。サミュエル兄様が見ていたそうです」
エレノアは、少しだけ鼻で息をした。
「見張り付きの反省ね」
「伯母様」
「悪くないわ。見張りは大事よ」
マギーは少し笑った。
父の手紙には、余計な言葉が少なくなった。
謝罪は最初の数通で終わった。今は、何を直したか、何をまだ直せていないかが書かれている。
今日は椅子のこと。先月は、母の小箱を衣装部屋から元の部屋へ戻したこと。その前は、マギー宛の手紙をすべて家令室でなく、父の書斎も経由せず届けるようにしたこと。
マギーは全部には返事をしていない。
けれど、あの審議の終わりにこう言ったことがあった。
――椅子のことは、戻したら知らせてください。
父は、知らせてきた。そのくらいで、今はよかった。
ふと、扉が叩かれた。入ってきた侍女が、銀の盆に一通の封書を乗せている。
「ヘインズ家より、お届けです」
封蝋はヘインズ家のものだった。表には、丁寧な字で宛名がある。
――マギー・バーレイ様。
ルーカスの字だと、すぐにわかった。エレノアがカップを置く。
「読みなさい」
「今ですか」
「今届いたのだから、今でいいでしょう」
マギーは封を切る。中には、手紙が一枚。それから、もう一枚、少し厚い書面が入っていた。
手紙の方から読む。ルーカスらしい、整った文だった。
近況から始まっていた。商会の新しい帳簿の形式。サミュエルが寄った時、茶を三杯飲んだこと。ヘインズ夫人が、マギーの好きだった焼き林檎の作り方を少し変えたこと。
――焼き林檎。
その言葉だけで、マギーは少し目を留めた。
ヘインズ家の食堂の窓。甘い香り。ルーカスが、熱いのでお気をつけください、と皿を少し遠ざけたこと。あの頃の自分は、何もかも借りていた。部屋も、服も、食卓の時間も。
けれど、誰もそれを急いで返せとは言わなかった。
ルーカスは、この一年、何度も手紙をくれた。サミュエルが王都に来た時は共に会いもした。
手紙の多くは近況だった。商会の帳簿の形式が変わったこと。新しい倉庫番が字を間違えやすいこと。雨続きで荷の乾きが悪かったこと。ヘインズ夫人が庭の林檎を今年は少し多めに残すと言っていること。
返事を求める言葉は少なかった。
ただ最後に、いつも一つだけ、マギーが答えても答えなくてもいい問いがあった。
――王都の夏は、少し慣れましたか。
――焼き林檎は、まだお好きですか。
――この前お話ししていた本は、続きを読まれましたか。
そういう問いだった。
マギーは、それに返事を書ける月もあった。書けない月もあった。
書けない月にも、次の手紙は来た。それが嬉しかった。
ただし、その嬉しさをすぐに信じることはできなかった。
マギーは以前、手紙を奪われた。返事を待つことも、届くことも、誰かの手の中へ入るものだと知ってしまった。だから最初のうち、ルーカスの封書を見るたび、胸より先に指が固くなった。
けれど、ヘインズ家の封蝋は毎回同じ形で届いた。ホルム家の侍女は盆に乗せて運び、エレノアは読みなさいとも、後でいいとも言った。読みたくなければ引き出しに入れてもよかった。
その繰り返しで、手紙は少しずつ怖いものではなくなった。
ルーカスへの気持ちは、急に形を持ったわけではない。助けてもらったから好きになった、というものでもなかった。
ただ、彼の前では急がなくてよかった。話したくないことを話さずにいても、次の日の茶が出た。笑えない日に笑わなくても、誰も困った顔をしなかった。答えられない問いは、そのまま机の上に置いておけた。
それが、マギーには大きかった。
最後に、短く書かれていた。
――同封の書面は、父と母、そして私の名で整えたものです。
――すぐに返事をいただくつもりはありません。
――マギー嬢ご自身の時で、お読みください。
――読まないまま置いておかれても構いません。
マギーは、厚い書面を見た。
エレノアが訊く。
「読める?」
「読めます」
封を開く。それは、婚約の申し入れだった。
ヘインズ家から、ホルム夫人を通じて、マギーへ。
バーレイ伯爵家にも後日正式に伝えるが、最初の返事はマギー本人に委ねる、と書かれている。
家格のこと。今後の住まいのこと。マギーが希望すれば、婚約前に一定期間、ホルム家の後見のもとで交流を続けること。ヘインズ家へ入る場合も、マギーが母の形見や手元に残したいものをそのまま持っていけること。
そして最後に、ルーカスの名で添えられていた。
――返事は、どのような形でも受け取ります。
――ただし、誰かの代筆ではなく、マギー嬢ご自身のお返事をいただければ幸いです。
マギーは、書面を膝の上に置いた。
窓の外で、馬車の音がする。遠い。この部屋の中には入ってこない。
エレノアは何も言わなかった。急がせない。許すとも、断れとも言わない。家格についても、父の顔色についても、今後の暮らしについても。
マギーは机の引き出しを開けた。そこには、小箱がある。
真珠のブローチは、その中ではなく、別の小さな包みに入れてある。まだつけていない。つける日が来るかもしれない。来ないかもしれない。
ロズリーがつけていた時のことは、今も思い出せる。思い出すと、胸が締め付けられることもある。
それでも、もうあの朝に戻りはしない。
ブローチは戻ってきた。母の記憶も、自分のものとしてここにある。
誰かが胸につけた日があっても、それで全部奪われたわけではない。
そう思える日が、少しずつ増えた。
灰色の封筒も、そこにある。伯母から届いた最初の手紙だった。何度も読んだので、折り目は少し弱くなっている。
あの時、自分は手紙を書いた。届くかどうかもわからない手紙だった。誰かに止められるかもしれない手紙だった。
けれど、それでも書いた。自分の言葉で、助けてほしいと書いた。
今、机の上には白い便箋がある。
ペンも、インクも、水差しもある。扉の外には、手紙を取り上げる者はいない。返事を急かす声も、泣きながら先に読む者もいない。
そして、書かれていた。
――誰かの代筆ではなく、マギー嬢ご自身のお返事を。
マギーはその一文を、もう一度見た。ルーカスらしいと思った。
彼はきっと、助けに来る人だ。だが、自分の代わりに答えを書く人ではない。
そこが、たぶん好きだった。
好き、という言葉を心の中に置くと、少しくすぐったく、落ち着かない。けれど、嫌ではなかった。
マギーは便箋を取り出した。エレノアは立ち上がり、部屋を出ようとした。
「伯母様」
「なに?」
「いてください」
「わかったわ」
伯母は戻り、窓辺の椅子に座った。茶を持ち直し、ただそこにいることを決めた。。
マギーはペンを取り、最初の一文を、少し考えた。
すぐに返事を決める必要はない。受けるか、断るか、その中間にどんな言葉を置くか。それはまだ、これから考えてよかった。
それでも、返事を書くのは自分だ。
マギーは便箋にペンを置いた。
――ルーカス様。
インクがにじむこともなく、手も震えなかった。
マギーは次の行へ進んだ。
END




