48 マギーの手に返されるもの
返却の手続きは、ホルム家の王都屋敷で行われた。エレノアがそう決めた。
「マギーをもう一度あの屋敷へ呼ぶ必要はありません」
誰も反対しなかった。
*
その日の午前、王家法務局の馬車がホルム家の前に止まった。
続いて、バーレイ伯爵家の馬車も到着する。父はモリスを伴って来た。王家の書記官が、封じられた箱を一つずつ運び入れる。
応接室の中央には、大きな卓が用意されていた。
布が敷かれ、その上に品が並べられる。
真珠のブローチの小箱。マギーの小箱。銀の香水瓶。しおり。刺繍図案。幼い頃の練習紙。灰色の封筒。
どれも、王家の紙帯がかかったままだ。
マギーは椅子に座っていた。
隣にエレノア。向かいに父。少し離れてサミュエル。ルーカスは、ヘインズ家で作った写しを持ってきており、扉に近い席に座っている。
ハーグリーヴが最初の箱を手に取った。
「真珠のブローチです。バーレイ伯爵夫人の遺品。マギー・バーレイ嬢の所有物として返還します」
紙帯が切られる。蓋が開く。
白い布の上に、真珠のブローチがあった。
マギーは、しばらく見ていた。母の胸元にあった時より、小さく見える。
ロズリーがつけていた時は、何か違ったものに見えた。
今は、箱の中にある。
「受け取りますか」
ハーグリーヴが訊いた。
「はい」
マギーは両手で箱を受け取った。軽かった。
こんなに軽いものだったのかと思った。けれど、その軽さすら、ずっと返してもらえなかった。
箱の蓋は閉じなかった。少しだけ開けたまま、膝の上に置く。
次に、マギーの小箱が返された。
紙帯が外される。中身も、ひとつずつ確認される。
リボン。しおり。短い鉛筆。小さな紙片。戻ってきた香水瓶は、まだ別に置かれている。
ハーグリーヴが銀の瓶を持ち上げた。
「こちらも、マギー嬢へ返還します」
受け取るが、蓋を開けるか迷った。
エレノアは何も言わない。サミュエルも、父も、ルーカスも黙っている。
蓋を少しだけ回した。古い金具が、かすかに鳴る。
蓋が開く。香りは、ほとんど残っていなかった。
それでも、瓶の口に近づけると、乾いた花のような匂いが少しだけした。
母の部屋で嗅いだ匂いとは違う。でも、完全になくなってはいない。
マギーはすぐに蓋を閉じ、香水瓶を小箱へ戻す。
そこには、もともと入っていた場所がある。布のへこみが残っていた。
だがぴたりとは戻らなかった。少し斜めになった。
それでも、そこに入った。
「手紙は」
エレノアが言った。ハーグリーヴは灰色の封筒を手に取った。
「ホルム夫人からマギー嬢への私信です。調査に必要な部分は記録済みです。原本を返還します」
紙帯が切られる。灰色の封筒が、マギーの前に置かれた。
小さな梟の印がある。
マギーは手を伸ばし、指先で封筒の端に触れた。
「今、読まなくてもいいわ」
エレノアが言った。
「読める時に読みなさい」
マギーはうなずいた。
「でも、持っていたいです」
「もちろん」
封筒は小箱には入れなかった。別にして、自分の鞄へ入れる。鞄の内側の、布で仕切られたところへ。
そこなら折れない。
ルーカスが、少しだけ視線を下げた。封筒の収まった場所を確認しただけで、何も言わない。
すべての返還が終わると、ハーグリーヴは確認書を出した。
「こちらへ署名を」
マギーはペンを取った。
――マギー・バーレイ。
自分の名を書く。字は少し硬かったかもしれない。
エレノアが立会人として署名する。父も署名した。
――エドガー・バーレイ。
その字を、マギーは横から見た。父の字も硬かった。
ハーグリーヴは書類を確認し、深くはない礼をした。
「返還手続きは以上です。今後、追加で確認が必要な場合は、ホルム夫人およびマギー嬢へ正式に連絡します」
「わかりました」
エレノアが答える。
王家法務局の者たちが退室すると、応接室には身内だけが残った。
――身内。
その言葉を、マギーは少し変に思った。この部屋にいる全員が身内という訳ではない。
ルーカスは違う。ヘインズ家の人だ。それでも、彼がいても息苦しくない。
父は、卓の向こうで椅子に座ったままだった。膝の上の手を一度組み、それからほどく。
「マギー」
「はい」
「謝らせてほしい」
エレノアは何も言わなかった。サミュエルも止めない。
マギーは小箱の蓋を閉じた。ぱちん、と小さな音がした。
「私は、お前を見ていなかった」
父は言った。
「言ったことを、何度も聞き流した。少し譲れと言った。オードリーに任せればよいと思った。ウィリアムの言葉も、ロズリーの涙も、都合よく受け取った」
マギーは父を見る。父は、こちらから目を逸らさない。
「お前の母の部屋も、お前の部屋も、物も、私が守るべきだった。だが私は守らなかった」
父はそこで一度、息を吸った。
「すまなかった」
頭を下げた。伯爵としてではなく、父として。
けれど、マギーはすぐには何も言えなかった。
謝ってほしかった。けれど、謝られたら何かが戻るわけではない。
真珠のブローチは戻った。手紙も、香水瓶も、小箱も戻った。
でも、あの家で黙っていた時間は戻らない。
青い布も、茶会の日も、居間の椅子で本を閉じた時の胸の詰まりも。
父は頭を上げない。
マギーは小箱の上に手を置いた。
「謝っていただけたことは、受け取りました」
そう言った。父の肩が、ほんの少し動く。
「はい」
「でも、今はそれ以上は言えません」
「わかっている」
父は頭を上げた。
「許してほしいとは言わない」
「はい」
「戻ってほしいとも、今は言わない」
「はい」
「戻りたいと思った時だけ、戻りなさい。思わないなら、戻らなくていい」
エレノアが、ティーカップを卓へ置いた。
小さな音がした。
「エドガー様」
「はい」
「それは、今後も書面で確認させていただきます」
父は、少しだけ目を瞬いた。それから頷いた。
「もちろんです」
「姪は、私の王都屋敷とヘインズ家を行き来させます。必要なら、別に住まいも用意します。あなたの許可を待つ形にはしません」
「はい」
「そのうえで、マギーがあなたへ手紙を書きたい時は書くでしょう。書きたくない時は、書きません」
「はい」
父は同じように答えた。
マギーは伯母を見た。エレノアは父を見たままだ。怖いくらいきっぱりしている。
でも、自分の代わりに全部決めているわけではない。
道を塞がれないように、先に石を置いている。そういう人なのだと思った。
サミュエルが口を開く。
「父上。家務の件ですが、来週から一度戻ります」
「大学は」
「調整します。ですが長くは無理です。家令と領地代官の記録を見直すところまでです」
「それでいい」
「兄上には?」
「南の管理地へ送る。出立前に、記録を一部読ませる」
「全部ではなく?」
「王家の許可がいるものは除く。まず、マギーの証言と、自分の発言記録からだ」
サミュエルは頷いた。
「その方がいいでしょう」
父とサミュエルの話を聞きながら、マギーは小箱を膝の上で抱え直した。
重いわけではない。でも、両手で持っていたかった。
ルーカスが、そこへ少し身を乗り出した。
「マギー嬢」
「はい」
「その小箱、鞄に入れると少し傾くかもしれません」
マギーは自分の鞄を見た。確かに、底が少し柔らかい。
「こちらを使いますか」
ルーカスは、書類鞄の中から薄い布を出した。書類を包むための、生成りの布だった。
「箱の下に敷くと、動きにくくなります」
「よろしいのですか」
「はい。帳簿より大事です」
「商会の方が聞いたら怒りませんか」
「父は怒らないと思います。帳簿は写しが取れますが、小箱はこれ一つですので」
マギーは少し笑って、布を受け取り、小箱を包む。
角が布に収まる。鞄に入れても、今度は傾かなかった。
「ありがとうございます」
「いえ」
ルーカスは短く答え、席へ戻った。
父がそのやり取りを見ていた。何か言うかと思ったが、言わなかった。
エレノアも見ていた。こちらは、少しだけ目元を細めた。
けれど何も言わなかった。
*
父が帰る時、マギーは玄関まで見送った。
エレノアは少し離れている。サミュエルは父と小声で家務の話をしていた。ルーカスは、外で馬車の位置を見ている。
父は外套を受け取り、袖を通した。
「マギー」
「はい」
「手紙を書いてもいいか」
マギーはすぐには答えられなかった。父は急がなかった。
「返事は、書ける時だけでいい。読まずに置いてもいい」
「……はい」
「では、書く」
「はい」
父は頷くと、少し迷って言った。
「ブローチは、今は無理に使わなくていい」
「はい」
「箱に入れておきなさい」
「そうします」
それ以上は言わず、馬車へ乗る。扉が閉まる。
動き出した馬車を、マギーは玄関の内側から見ていた。
父の馬車が角を曲がる前に、ルーカスが戻ってきた。
「寒くありませんか」
「少し」
「では中へ」
マギーは頷く。
ホルム家の玄関広間へ戻る。鞄の中には、小箱がある。灰色の封筒もある。
ブローチはまだ開いた箱の中ではなく、小箱とは別の小さな包みに入っている。
全部、戻ってきた。
けれど、すぐ元通りにはならない。
マギーは階段の手すりに手を置いた。木はよく磨かれていた。
指先が、滑らずに止まった。




