番外編4 オードリー――伯爵家の奥様
ロズリーが子爵家へ移ってからも、手紙は月に一度届いた。
差出人はいつも子爵家の執事だった。
丁寧で、余白の取り方まで整った字を書く人だった。
季節の挨拶があり、子爵家の近況があり、最後にロズリーのことが少しだけ添えられる。
――ロズリーお嬢様は、お勉めに励んでおいでです。
――ロズリーお嬢様は、このごろ刺繍の稽古を始められました。
――ロズリーお嬢様は、奥向きで静かにお過ごしです。
――静かに。
その言葉は、どこの家でも便利に使われた。
私は母から渡された手紙を読み、内容を覚えた。
母は読み終えたかどうかを確かめると、手紙を父の書斎へ戻させた。
宛先は父だったから、それが自然な扱いだった。
教育係がよく尽くしていること、子爵家の奥向きが乱れぬよう努めていること、幼いお嬢様には覚えることが多いこと、子爵閣下はご多忙であることは書かれていた。
けどロズリーが子爵家で何を見ているのか、何を怖がっているのか、何を気に入っているのか。誰もそこへ筆を運ばなかった。
それでも、手紙は届いた。
子爵家は、あの子を家の中に入れた。お嬢様と呼び、教育係をつけ、奥向きに部屋を用意した。
父はそれで充分だと言った。
母は、これであの子の先も開けると言った。
そして私はただ、頷いた。
頷くという動作は、便利だった。相手の言葉を壊さず、こちらの内側も見せずに済む。
*
その頃から、私の縁談はまた動き始めた。
――若い頃に長く体調を崩した娘。
――しばらく社交を控えていた娘。
――月のものが安定せず、医師が無理をさせぬ方がよいと言った娘。
父と母は、そういう言葉を選んだ。
家格のよい相手からは、やわらかな断りが来た。
財産目当ての家からは、少し探るような使いが来た。
子を多く望む家には向かず、若い跡継ぎの妻にも向かず、老いた男の後添いには父が顔を曇らせた。
そんなある時、バーレイ伯爵家の話が来た。
伯爵は先妻を亡くし、すでに三人の子があるということだった。
長男のウィリアムはもう青年と言っていい年で、次男のサミュエルも王都の学校へ進む年頃。
末の娘マギーだけが、まだ母の必要な年齢だった。
格式がある伯爵家では、家政を切り回せる後妻を求めていた。伯爵自身は、それ以上のことは強く望んでいないということだった。
母はその話を聞いて、長く息を吐いた。
「よいお話だわ」
父も頷いた。
「伯爵家なら、不足はない」
私はその言葉を聞きながら、窓の外を見た。
男爵家の庭では、夏の花が終わりかけていた。古い石壁に絡む野薔薇は、枝ばかりが伸びている。
――不足はない。
その言葉の中には、私の体のことも、過去のことも、ロズリーのことも、全部が畳まれて入っていた。
体裁のよい箱に入れ、上から伯爵家の紋を押す。
そうすれば、父と母はようやく息がつけるかのように。
「伯爵家の、特に末のお嬢様は、まだ十歳ほどとか。お前なら、きっとよくしてあげられるわ」
母は、私が子供の扱いに慣れているなど、まるで知らない顔でそう言った。
私は頷いた。
「承知しました」
父はただ、満足そうだった。
*
その夜、私はロケットを開けた。
中の写真は少し擦れていた。
何度も開けるうちに、金具の内側もゆるくなっていた。
黄色いリボンのロズリーは、椅子の上で背を伸ばしていた。銀色の留め具の靴が、写真の下の方に小さく写っていた。
結婚を承諾した決め手は一つだった。
――伯爵家へ嫁げば、子爵家の近況はもっと入りやすくなるかもしれない。
父の家にいるより、伯爵家の奥様になった方が、使える名も、届く手紙も増える。
伯爵家は子爵家より上にあり、社交の席で耳に入ることも増える。
私が直接ロズリーに会える日は来ないとしても、あの子がどんな部屋にいるか、どんな扱いを受けているか、知る道は広がる。
父と母は、伯爵家に娘を出すことに満足していた。
だから、私はせいぜいその満足を使わせてもらうことにした。
*
バーレイ伯爵家は、男爵家よりずっと大きかった。
門から屋敷までの道が長く、両側にはよく刈られた芝と低い植え込みが続く。
玄関の石段は広く、上には伯爵家の紋章が彫られていた。
古い家だが、手入れは良かった。
先妻が亡くなってからも、家政が崩れきったわけではなかったらしい。
ただ、あちこちで少しずつ、糸がほつれてかけていた。
花を替える日が決まっていない。
客間の火入れが遅い。
厨房と家令室の連絡がほんの少しずれる。
子供部屋のリネンの数は足りているが、季節ごとの入れ替えが遅い。
衣装部屋の香は強すぎる。
銀器は磨かれているが、普段使いと客用の境が曖昧だ。
大きな屋敷ほど、ほつれは見えにくい。
私は嫁いだ翌朝から、屋敷の鍵束を預らせてもらうように頼んだ。
夫となった伯爵は、少し驚いた顔をした。
「早いな」
「できるだけ早く、家の中を覚えたいのです」
「無理はしなくていい」
「無理ではありません」
伯爵はそれ以上言わなかった。
彼は穏やかな人だった。
先妻を深く愛していたのだろうという影が屋敷のあちこちに残っていた。
肖像、部屋、庭の小さなベンチ、子供たちの呼び方。
けれど伯爵は、亡くした妻の影で新しい妻を押し潰すような人ではなかった。
その点では、私は幸運だったのだろう。
長男のウィリアムは、すでに背の高い青年だった。
私を母と呼ぶ年ではなく、呼ぶつもりもなかったらしい。
初めて挨拶した時、彼は礼儀正しく頭を下げた。
「奥様」
そう呼んだ。父の妻。私はそれでよいと思った。
次男のサミュエルは、もうすぐ王都へ進む支度で忙しかった。
兄より少し柔らかく、しかし家に長くいる気配はなかった。
荷物、書物、家庭教師からの報告、王都の寮に送る衣類。
私が確認すると、彼は少し困ったように笑った。
「ありがとうございます。母上…… と呼ぶのは、まだ、少し変ですね」
「今、あなたが呼びたいように」
「では、奥様」
サミュエルはそう言って、すぐ書物の話に戻った。
あの子は、遠くへ出ていく子だった。屋敷の中にいながら、すでに王都の道を見ていた。そんな境目の時期だった。
マギーは十歳だった。
黒に近い茶色の髪で、母親に似た目をしていた。
初めて会った時、礼はきちんとしていたが、顔に緊張があった。
新しい母を迎える娘なら当然だろう。
伯爵は私を穏やかな人だと紹介した。そしてウィリアムは妹の横に立っていた。
「マギーです」
少女はそう名乗った。
「よろしくお願いいたします、奥様」
「こちらこそ、よろしくね」
私はそう答えた。
*
マギーの部屋は、亡くなった母の好みが色濃く残っていた。
淡い青の天蓋、白いレースのカーテン、小さな本棚、刺繍途中の布、窓辺の椅子。
手入れはされていたが、誰かが毎日細かく見ている様子はなかった。
乳母はもう下がり、侍女が一人ついていた。よい娘だったが、まだ若かった。
そしてマギーは手のかからない子で、侍女もそれに慣れていた。
手のかからない子供は、よく放っておかれる。私はそれを知っていた。
だから、まず部屋の火の具合を変えた。
冬はまだ先だったが、朝晩の冷え込みは早く来る。寝具を確認し、天蓋の布を少し軽いものへ替えさせた。
読書灯の位置も変えた。マギーは夜に本を読む癖があり、灯りが遠いと目に悪い。
マギーは最初、その一つ一つに礼を言った。
「ありがとうございます、奥様」
よくできた子だった。
薬を飲む時も、眉を寄せるだけで最後まで飲む。
食事で苦手なものが出ても、皿の端に追いやるようなことはしない。
針仕事はまだ少し遅かったが、糸の始末は丁寧だった。
客の前では父の横に立ち、兄たちの会話には割り込まず、求められればきちんと答える。
よくできた子だった。だから、困った。
マギーの部屋には、季節ごとのドレスが揃っていた。
髪飾りも、手袋も、靴も、年齢に合わせて用意されていた。
家庭教師は週に四日来て、刺繍と音楽の教師も別にいた。
朝には温めた牛乳が運ばれ、午後には小さな菓子が出た。
体調を崩せば医師が呼ばれ、枕元には新しい水が置かれる。
……当たり前のことだった。
伯爵家の娘としては当たり前のものを、マギーは持っていた。
それを見るたびに、私は子爵家からの手紙を思い出した。
――ロズリーお嬢様は、お勉めに励んでおいでです。
その一文の中に、温めた牛乳はない。
昼寝の毛布もない。黄色いリボンもない。靴の留め具を自分で触りたがる癖もない。
あるのは、お勉め。
家に入れられた子供が、家に合うように努めている、と。
――その違いは?




