5 兄の友人
「こちらはルーカス・ヘインズ。大学の友人だ」
サミュエルが隣の青年を示した。
ルーカスは軽く頭を下げた。貴族の礼ではない。けれど雑ではない。
背はサミュエルより少し高く、外套も仕立ては良いが、紋章や余計な飾りはない。
「はじめまして、マギー嬢。お疲れでしょう」
「……はじめまして。突然、ご迷惑を」
「迷惑ではありません。少なくとも、うちの母は大喜びしています」
マギーは思わずルーカスを見た。彼は少し困ったように笑った。
「母は、息子ばかりで育ったせいか、若いご令嬢が家に来ると聞いて、客間のカーテンを替え始めました。止める方が大変でした」
「ルーカス」
サミュエルが低く言う。
「すまない。今それを言う場面じゃない」
「そうか? 少しは安心してもらう場面だと思ったんだが」
そのやり取りが、妙におかしい。マギーは、そこで初めて息を吸えた気がした。
サミュエルはマギーの鞄へ手を伸ばした。
「持つ」
「重くありません」
「軽いならなおさら持つ。お前、握りしめすぎだ」
言われて見れば、鞄の持ち手に指が食い込んでいた。手を離すと、指の跡がしばらく残った。
サミュエルはそれを見たが、何も言わない。それもありがたかった。
「寮には泊められない。女子学生でもないし、まして伯爵令嬢を男子寮へ入れたら、明日の昼には大学中の噂になる。だからルーカスの家に頼んだ」
「そちらのお宅に?」
「ああ。ヘインズ家は貴族ではないが、王都で長く商会をしている。父親も母親も信用できる人だ。妹君もいる」
「姉だ」
ルーカスが訂正した。
「姉が二人だ。しかも片方は結婚しているのに、ほとんど毎日実家へ来る。なので女性の目はある。妙な心配はしなくていい」
「それを言うと、余計に妙だろう」
「そうか」
ルーカスは少し考えてから、マギーへ向き直った。
「とにかく、うちで一晩休んでください。明日の朝、落ち着いてから話を聞きます。サミュエルも来ます」
「今ではなくて、よろしいのですか」
マギーは訊いた。
ここまで来たのだから、すぐに話さなければならない気がしていた。話せなければ、また全部、間違いだったことにされるような気もした。
けれどサミュエルは首を横に振った。
「今のお前は、たぶん順番に話せない」
「話せます」
「じゃあ、なぜ一人で来た?」
マギーは口を開きかけた。
けれど、言葉がすぐに出てこない。
――なぜ。
――父が。ウィリアムが。オードリーが。ロズリーが。ブローチが。居間が。ドレスが。
全部が、頭の中で一度に動き出す。サミュエルはその返事を待たなかった。
「ほらな。今は無理だ」
責める言い方ではない。ただ、事実であると告げてきた。
マギーは少しうつむく。
「……すみません」
「謝るところじゃない。腹が減っているなら何か食べる。眠いなら寝る。話はその後だ」
「お腹は」
減っていない、と言おうとした瞬間、腹が小さく鳴った。
マギーは固まった。
サミュエルも固まった。
ルーカスだけが、すばやく視線を横へ逃がした。
「では、まず食事ですね」
「聞こえたのか」
サミュエルが言う。
「聞こえなかったことにするには、私の育ちがよすぎた」
「お前のどこがだ」
「食事の手配はできている。母がスープを温めて待っているはずだ」
マギーは、ありがとう、と言おうとした。けれど今度も声が少し詰まった。
誰かが待っている。
それが、こんなに怖くて、ありがたいものだとは知らなかった。
*
駅の外へ出ると、王都の空気は冷たかった。
馬車が並び、灯りが濡れた石畳に映っている。雨はもう上がっているらしい。ルーカスが先に立ち、御者に短く行き先を告げた。
サミュエルはマギーを馬車に乗せる前に、小さな声で言った。
「ひとつだけ確認する」
「はい」
「怪我はないな」
「ありません」
「誰かに追われているわけでもないな」
「たぶん」
「たぶん?」
サミュエルの眉が寄る。
マギーは鞄の留め具に指を置いた。
「家を出たことには、まだ気づかれていないと思います。でも、お茶会の支度を手伝うように言われていましたから。もう、気づいているかもしれません」
「そうか」
サミュエルは短く答え、自分も馬車へ乗り込む。
「なら、父上から大学へ連絡が来る前に、こちらから手を打つ」
「手を?」
「お前が王都にいることを隠すか、知らせるか。それを決める。だが今夜は決めない」
「どうして」
「腹が減っている人間は、だいたい判断を間違える」
ルーカスが向かいの席でうなずいた。
「それは本当です。うちの父は大きな契約の前には、必ず相手に菓子を出します。怒っている人間も、甘いものを食べると少し遅くなる」
「遅くなる?」
「怒鳴り出すまでの時間が」
マギーは思わず、少しだけ笑った。
本当に少しだった。
けれどサミュエルがそれを見て、ああ、と小さく息を吐いた。
「笑えるなら、まだ大丈夫だ」
その言葉に、マギーは返事をしなかった。
大丈夫かどうかは、わからない。
ただ、王都の駅にはサミュエルが来てくれた。隣には、初対面なのに食事の心配をする友人がいる。これから行く家には、スープを温めている人がいる。
それだけで今は、座っていられる。
馬車が動き出した。
窓の外で、王都の灯りがひとつずつ後ろへ流れていく。




