46 ウィリアムが守ろうとしたもの
ウィリアムが書斎へ入ってきた時、机の上にはまだ真珠のブローチの小箱が置かれていた。
王家の紙帯で封じられているそれを見て、ウィリアムの足が少し止まった。
「座ってください」
ハーグリーヴが言った。
父を見た。だがただ、立ったまま待っているだけだった。ウィリアムは椅子へ向かった。
マギーから少し離れた席だった。ロズリーが座っていた椅子とは違う。
そこに気づいたのか、ウィリアムは一度だけ椅子の背に手を置いたまま止まり、それから腰を下ろした。
「ウィリアム・バーレイ殿」
「はい」
「あなたは、バーレイ伯爵より口止めされていたにもかかわらず、ロズリー嬢へ調査中の情報を話しました。喪服、日付、ミルナーの名。相違ありませんか」
ウィリアムの手が膝の上で組まれる。
「相違ありません」
「理由は」
「ロズリーが不安がっていたからです」
ハーグリーヴはペンを持った書記官へ目を向けた。記録される。
ウィリアムはその音を聞いて、少し唇を噛んだ。
「あなたはその時、その情報をロズリー嬢が誰かへ伝える可能性を考えましたか」
「……いいえ」
「ロズリー嬢自身の発言が変わる可能性は」
「考えていませんでした」
「なぜですか」
ウィリアムは返事を探した。視線が一度、封じられた小箱へ落ちる。
「彼女は、何も知らないと思っていました」
「なぜ、そう思ったのですか」
「ロズリーは、いつも怯えていました。自分のせいだと気にしていて、私に、どうすればよかったのかと」
「それは、《《あなたがそう受け取った》》ということですね」
「はい」
「彼女が何を知っていたかは、確認していなかった」
ウィリアムは黙った。
「相違ありませんか」
「……ありません」
書記官のペンが動く。マギーはその音を聞いていた。
ウィリアムの声は、前より低い。けれど、まだ何かを手放しきれていないように聞こえた。
ハーグリーヴが続ける。
「あなたは、ロズリー嬢に複数回接触しようとしました。伯爵から止められた後もです」
「はい」
「それも、ロズリー嬢を心配したからですか」
「はい」
「マギー嬢については」
ウィリアムの手が止まった。
「あなたは、マギー嬢が家を出る前に、彼女を心配していましたか」
すぐに答えられなかった。
マギーは兄を見た。ウィリアムは、こちらを見ない。
「……していたつもりでした」
「何をしましたか」
「何を、とは」
「心配していたというなら、何をしたか伺っています」
ウィリアムは、椅子の肘に指を置いた。答えが出ない。
ハーグリーヴは待った。
「何も、できませんでした」
ウィリアムは言った。
「いいえ、できなかったのではなく、していなかったのでしょう」
エレノアが静かに言う。ウィリアムはそちらを見た。
「ホルム夫人……!」
「姪は居間の椅子を失い、布を失い、母の形見をつけられた娘の支度を命じられました。その場に、あなたはいたのでしょう」
ウィリアムは何も言えない。
「何もできなかった、ではありません。あなたはその時、ロズリー嬢を守る言葉を選んだ」
ウィリアムの手が、椅子の肘から離れた。
マギーは、その手の動きを見ていた。前なら、ここで兄はすぐに言い返したと思う。
ロズリーは知らなかった。ロズリーは悪くない。マギーにも言い方があった。
今日は、すぐには出てこない。
ハーグリーヴがマギーへ視線を移した。
「マギー嬢。ウィリアム殿へ確認したいことはありますか」
マギーは水の入ったグラスを見た。今は飲まない。
「あります」
ウィリアムが、ようやくこちらを見た。
「ウィリアム兄様」
「……マギー」
「私が返してほしいと言った時、兄様は、ロズリーは知らなかったのだと言いました」
「ああ」
「知らなければ、私が嫌だと言っても返さなくてよいと思いましたか」
ウィリアムは、口を開き、すぐ閉じる。
「そういうつもりでは」
そこで止まった。その言葉が、この部屋でどれほど使えないか、もうわかっているのだろう。
「……思っていなかった。だが、そういうことになった」
「兄様は、私に一度でも訊きましたか」
「何を」
「それがどれだけ嫌なのか。なぜ返してほしいのか。なぜ布を渡したくないのか。なぜ椅子を使われるのが嫌なのか」
ウィリアムは、机の上を見た。
青い布の注文控えがある。居間の椅子についての証言書がある。灰色の封筒もある。
「訊いていない」
「そうですね」
マギーはうなずいた。
「でも、ロズリーには、どうしたのかと訊いたのですね」
ウィリアムの肩が、少し動いた。
「訊いた」
「私には、訊かなかった」
「……ああ」
その返事は、小さかった。書記官が記録する。ウィリアムはその音を聞いて、指を握った。
「マギー」
ハーグリーヴが、すぐに手を上げた。
「発言は、質問への回答としてお願いします」
ウィリアムは口を閉じた。ハーグリーヴが言う。
「ウィリアム殿。今、マギー嬢へ何を言おうとしましたか」
「謝ろうと」
「何について」
また止まる。
謝ろうとした。だが、何について。
その問いで、ウィリアムの言葉は形になった。
「見ていなかったことです」
ようやく言った。
「マギーが嫌だと言っていたのに、聞かなかったこと。ロズリーのことばかり見ていたこと。父上に止められても、ロズリーへ話したこと」
そこで息を吸う。
「それから、マギーが家にいるのがつらいと思うほどだったことに、気づかなかったことです」
マギーは、膝の上で指を組んだ。
謝罪の形にはなっている。でも、それを今すぐ受け取れるかは別だった。
「兄様」
「はい」
「今は、その謝罪は受け取れません」
ウィリアムの目が動く。
先ほどロズリーへ言ったのと同じ言葉だ。けれど、同じものではない。
「謝られたことは聞きました。でも、今は受け取れません」
「……わかった」
ウィリアムはそれ以上言わなかった。
ハーグリーヴが書記官へ示す。また記録される。
父が口を開いた。
「ウィリアム」
「はい」
「お前は、当面、家の実務から外す」
ウィリアムは父を見た。
「実務、ですか」
「ああ。領地の報告、家政、対外の返書。今までお前に回していたものは、私が見る。必要なものはサミュエルに回す」
「サミュエルに」
サミュエルは動かなかった。
「お前を罰するためだけではない」
父は言った。
「今のお前には、情報を持たせられない」
ウィリアムの唇が白くなった。
「父上」
「ロズリーへ漏らした。止めても会いに行こうとした。誰かを守るつもりで、話を壊す。家を継ぐ者として、今のお前を信じることはできない」
部屋の中で、椅子の木が小さく鳴った。ウィリアムが、肘掛けを握った音だった。
「私は、廃嫡されるのですか」
「今は決めない」
父は短く返した。
「だが、今まで通りではない」
「では私は」
「まず黙って記録を読め」
父の声は荒くない。
「マギーが何を話したか。ロズリーが何を答えたか。オードリーが何を認めたか。お前は、自分が見たいものだけを見る癖がある。読むところから始めなさい」
ウィリアムは黙ってうなずく。
「ウィリアム殿については、王家法務局としても、調査終了まで接触制限を継続します。また、バーレイ家の対外判断に関わる場合、当面は記録の確認者を置くことを勧めます」
「承知しました」
父が答えた。ウィリアムは、今度は何も言わない。
マギーは兄を見た。
兄は、今も苦しそうだった。だが、その苦しさは、これまでロズリーが見せていたものとは違った。
誰かに庇ってもらうためのものではない。
自分が持っていて当然だったものが、そうではなかったことに、ようやく気づいた人のように見えた。
マギーはそう思って、すぐにその考えを止めた。
兄が何を思っているかは、兄が言うことだ。こちらで作ることではない。
机の上の書面に目を戻し、記録されている言葉だけを見る。
「本日の確認はここまでです」
ハーグリーヴが言った。
「ウィリアム殿、部屋へ戻ってください。接触制限は継続します」
「はい」
ウィリアムは立ち上がり、礼をする。
扉へ向かいかけて、足を止めた。
机の上の居間の椅子についての証言書を見ている。手は伸ばさない。
ただ、見た。
「父上」
「何だ」
「あの椅子は、まだ居間にありますか」
父は少しだけ眉を動かした。
「ああ」
「……そうですか」
それだけだった。
ウィリアムは書斎を出ていった。扉が閉まる。
マギーは水を一口飲んだ。グラスを置くと、底が机に触れて小さな音がした。
誰もすぐには話さなかった。




