45 「少しくらい、いいと思いました」
「ロズリー嬢。昨日までの確認で、あなたは青い布がマギー嬢のために選ばれたものだと知っていた、と答えました」
「はい」
「それでも返そうとはしなかった。理由は、綺麗な布だったので、ということでしたね」
ロズリーの指がハンカチの端をつまんだ。
「はい」
「今日は、その件についてマギー嬢も同席しています。マギー嬢へ、あなた自身の言葉で説明できますか」
ロズリーはすぐには顔を上げなかった。
「説明、ですか」
「はい」
「私は…… マギー様に、悪いことをしたと思っています」
マギーは黙って聞いていた。ロズリーは続ける。
「でも、あの時は、私も新しい服が必要でした。初めてのお茶会で、何もわからなくて。奥様が選んでくださって、ウィリアム様も似合うと」
「ロズリー嬢」
ハーグリーヴが止めた。
「あなたがどう思ったかを伺っています。オードリー夫人やウィリアム様がどう言ったかではありません」
ロズリーは口を閉じた。ハンカチの端に、細い皺が寄る。
「……欲しかったです」
小さな声だった。
「青い布が?」
「はい」
「マギー嬢のものだと知っていても?」
「はい」
書記官のペンが動く。
マギーは机の上の注文控えを見た。母の肖像に似た色。伯母の茶会に着るつもりだった布。
紙の上では、ただの色名になっている。
「ブローチについても確認します」
ハーグリーヴは小箱を示した。
「あなたは、真珠のブローチがマギー嬢のものだと、茶会の前に知りました」
「はい」
「返してほしいと言われた」
「はい」
「しかし外さなかった」
「はい」
「理由は、外すと自分が悪いことをしたように見えると思ったから」
ロズリーは黙った。
「相違ありますか」
「ありません」
マギーは、そこで初めて口を開いた。
「ロズリー」
ロズリーが顔を上げる。
以前なら、ここでロズリーはすぐに目を潤ませたかもしれない。今はただ、ハンカチを膝の上で握るだけだ。
「はい」
「私が返してほしいと言った時、あなたは何も知らなかったわけではなかったのですね」
ロズリーは返事をしなかった。
「知っていて、外さなかったのですね」
「……はい」
「私が嫌がっていたことも、わかっていましたか?」
ロズリーの指が止まる。
「少しは」
「少しは」
マギーは短く繰り返した。
「はい」
「では、なぜ外さなかったのですか」
「先ほども」
「悪く見えるから、ですね」
ロズリーは唇を噛む。マギーは続けた。
「私が嫌な思いをすることより、あなたが悪く見えないことの方が大事だったのですね」
ロズリーの視線が揺れる。
ハーグリーヴは止めない。エレノアも黙っている。父は、机の端に置いた手を動かさなかった。
「そんなつもりでは」
ロズリーは言いかけて、止まった。その言葉がここでは使えないことを、もう知っているのだろう。
「……はい」
ようやく出た返事は細かった。書記官が記録する。
「居間の椅子のことも、聞いていいですか」
ハーグリーヴが頷いた。
「どうぞ」
「あなたは、あの椅子が母の椅子だったことを知っていましたか」
「最初は知りませんでした」
「途中で知りましたか」
「はい」
「誰に」
「メイドが、昔の奥様がお好きだった場所だと」
「私がそこで本を読んだり、刺繍をしたりしていたことは」
「はい、見ていました」
「それでも、刺繍箱を置きましたね」
「明るかったので」
「私に許可を取りましたか?」
ロズリーはハンカチを見た。
「取っていません」
「なぜ?」
「奥様が、使ってよいと」
「私には訊いてないのですよね」
マギーの声は大きくならなかった。
「椅子も、布も、ブローチも。あなたは、私に訊きませんでした」
ロズリーは何も言わない。マギーは、少しだけ息を吸った。
「私は、あなたに優しくしたかったのだと思います。最初は」
ロズリーの顔が上がる。
「廊下や庭のこと、使用人の名前、お茶の時間。わからないことを教えました。あなたが困っていると思ったからです」
「はい」
「でも、私に訊かなくなりましたね」
「それは」
「お義母様に訊くようになった。ウィリアム兄様に頼るようになった。父に許されるようになった」
父の手が、机の上で少しだけ動いた。マギーはそちらを見ない。
「私にだけ、何も訊かなくなりました」
ロズリーは口を開け、すぐ閉じた。ハーグリーヴが訊く。
「ロズリー嬢。マギー嬢の許可を得る必要があると、当時考えましたか」
しばらくロズリーは黙る。
「いいえ」
「なぜ」
「マギー様は、この家の娘でしたから」
「それは、どういう意味ですか?」
ロズリーはハンカチを握った。
「私より、ずっと居場所があって、持ち物もあって、家族もいて」
「だから、許可は必要ないと思った?」
「そういうわけでは」
「では、どういうわけですか」
ロズリーの返事は遅れた。
「少しくらい、いいと思いました」
書記官のペンが進む。マギーは、その音を聞いていた。
――少しくらい。
何度も使われた言葉だった。父からも。お義母様からも。ウィリアム兄様からも。
そして、ロズリーの中にもあった。
「その少しが、いくつもありました」
マギーは言った。
「私には、少しではありませんでした」
ロズリーは目を伏せた。
「……すみません」
その言葉は、小さかった。
マギーはすぐには返事をしなかった。
謝ってほしかったのかもしれない。でも、いざ言われると、それだけでは何も戻らないとわかった。
机の上には、封じられた小箱がある。
戻るものもある。戻らないものもある。
「謝罪は記録しますか」
書記官がハーグリーヴへ小さく訊いた。
「記録してください。返答の一部です」
ペンが動く。ロズリーの謝罪も、紙に残る。
マギーはグラスへ手を伸ばす。水を飲む。置く。それだけしてから言った。
「今は、その謝罪は受け取れません」
ロズリーが顔を上げた。
「マギー様」
「謝られたこと自体は聞きました。でも、今は受け取ることはできません」
ロズリーの唇が少し開き、何か言いかけて、やめる。ハーグリーヴが静かに言った。
「その返答も記録します」
書記官が書く。父は、机の横で目を伏せかける。
エレノアがマギーの隣で、手袋の指を一度だけ組み直した。
「ロズリー嬢」
今度はエレノアが言った。
「あなたが居場所を欲しがったことは、わかります」
ロズリーは伯母を見る。
「けれど、姪の居場所を削ってよい理由にはなりません。あなたはそれを、少しくらいと言った。姪は、その少しを毎日失っていたのです」
ロズリーは返事をしなかった。
「あなたが何も持っていなかったことと、姪から取ってよいことは別です」
エレノアはそこで言葉を切った。
ハーグリーヴが書記官へ視線を向ける。記録される。
ロズリーは膝の上のハンカチを見ていた。皺が深くなっている。
「では私は」
ロズリーが言った。
「どこへ行けばよかったのですか?」
誰もすぐには答えなかった。
「子爵家にはいられなくなるところでした。男爵家も私を子爵家に出しっぱなしでした。それに、母に、母だと言えませんでした。ここへ来て、やっと」
声はそこで切れ、ただ、ハンカチを握る指が白くなった。
「やっと、誰かが私を見てくれたのです」
ウィリアムの名は出なかった。でも、その場にいる全員が誰のことかわかった。
マギーはロズリーを見た。
「それなら、見てくれた人に、私のものではなく、あなた自身を見てもらえばよかったのだと思います」
ロズリーは顔を上げた。
「あなた自身を見てもらうのに、私の椅子も、布も、ブローチもいらなかったはずです」
ロズリーは何も言えなかった。
書記官のペン先が、紙の上で止まる。ハーグリーヴは少し待つ。
それから言った。
「返答なし、と」
ペンが動いた。ロズリーは、その音を聞いた。
ハンカチを握る手が、少し緩む。
ハーグリーヴは記録を確認し、書面をまとめた。
「本日の確認はここまでです。ロズリー嬢、あなたは部屋へ戻ってください。マギー嬢への接触は、引き続き認めません」
「はい」
ロズリーは立ち上がり、礼をした。扉へ向かう途中、小箱の前で一度足を止めた。
真珠のブローチは中にある。封じられている。
そして、護衛に伴われて書斎を出た。
扉が閉まる。
マギーは椅子に座ったまま、少しだけ息を吐く。
ルーカスが水差しを持ち上げた。今度はグラスへは注がない。ただ、足りるかどうかを見ただけだった。
マギーはそれを見て、小さく首を横に振った。
――もう大丈夫。
声には出さなかった。
ルーカスも何も言わず、水差しを戻した。




