43 母の部屋を開ける
翌朝、マギーはヘインズ家の馬車ではなく、王家法務局の馬車でバーレイ伯爵家へ向かった。
ひとりではない。隣にはエレノア伯母が座っている。
向かいにはサミュエル。その横にルーカス。ヘインズ氏が、記録を取った者もいた方がいい、と言ったためだった。
ルーカスは、膝の上に革の書類鞄を置いていた。揺れるたびに、鞄の金具が小さく鳴る。彼はそのたび、軽く手を添えて音を止めた。中には、マギーが話したことを分けた書付が入っている。
見たこと。聞いたこと。思ったこと。嫌だったこと。
マギーは窓の外を見た。屋敷へ戻る、とは思わなかった。
今日は、確認に行く。そう思うことにした。
「怖い?」
伯母が訊いた。
「怖いです」
「そう」
それだけだった。
怖がらなくていい、とは言わない。マギーはそれがありがたかった。
馬車が屋敷の門を入ると、胸の奥が少し痛む。
見慣れた玄関。見慣れた階段。見慣れた扉。
なのに、御者台の横に王家の護衛がいる。玄関にも、見知らぬ灰色の上着の男が立っている。
今までの屋敷ではない。……少なくとも今日は。
玄関広間で待っていたのは、父だった。
バーレイ伯爵は、マギーを見て一歩出かけた。だが、そこで止まった。
飛びついて抱きしめはしない。謝りもしない。ただ、礼をする。
「よく来てくれた」
マギーは礼を返した。
「お父様」
その一言だけで、父の手が少し動いた。エレノアが前へ出る。
「エドガー様」
「エレノア義姉上。ご足労を」
「妹の部屋を開けるのです。来ない理由がありません」
「はい」
「それから、今日は姪をこの家の娘として扱うのではなく、確認に来た者として扱ってください。連れ戻す話は、今ここではなさらないように」
伯爵は少しだけ頭を下げた。
「承知しています」
「ならよろしいです」
短いやり取りだった。
けれど、玄関広間にいた使用人たちは皆それを聞いている。
マギーはそのことに気づいた。伯母は、わざとここで言ったのだ。自分は連れ戻されに来たのではない、と。
ハーグリーヴが奥から出てきた。
「準備はできています。まずマギー嬢の部屋、その後に亡き奥方の部屋を開けます」
マギーはうなずいた。
「はい」
サミュエルが横に来る。
「無理なら止めろ」
「はい」
「すぐ止めろ」
「はい」
「返事が軽い」
「兄様が三回言うからです」
サミュエルは少し黙った。ルーカスが横で目を伏せている。笑いをこらえているのがわかった。
ほんの少しだけ、マギーは息をしやすくなった。
*
マギーの部屋の前には、封がされていた。
王家の印ではなく、伯爵家の封蝋だ。父が閉じたものだろう。その上から、昨日のうちに王家法務局の紙帯がかけられている。
誰も触れていない。そう見える。
ハーグリーヴが封を確認し、書記官に記録させた。
「封を切ります」
父が小さな鍵を出す。その手が、少し遅れる。
マギーは黙って見ていた。
鍵が差し込まれる。音がした。扉が開く。
部屋の中は、きちんとしていた。寝台も、机も、窓辺の花瓶も。
けれど花は少ししおれている。掃除が止まっていたせいで、棚の上には薄く埃が見えた。
マギーは入口で足を止めた。自分の部屋なのに、入るのに許しがいる気がした。
エレノアが隣に立つ。
「先に入る?」
「……一緒に」
「わかりました」
二人で入る。サミュエルは入口に残り、ハーグリーヴと書記官が続く。
ルーカスは扉のそばで止まった。室内へは踏み込まない。父も、少し遅れて入った。
「小箱はどこに?」
ハーグリーヴが訊く。
「机の引き出しです」
マギーは机へ向かった。
引き出しには鍵がかかっている。鍵はマギーが持ってきていた。ヘインズ家へ逃げる時、鞄に入れたものだ。
鍵を出すと、少し手が震えた。
ルーカスが近づくことはなかった。ただ、扉のそばの小机に水差しを置いた。
……いつの間に持ってきたのだろう。
マギーはそれを見てから、鍵を回した。引き出しが開く。
小箱はあった。古い木の小箱。母からもらったもの。蓋には、細い蔓の彫りがある。
マギーはそれを机の上へ出した。
「この箱です」
ハーグリーヴが近づく。
「ご自分で開けられますか」
「はい」
小箱の鍵も、別に持っていた。開けてみる。
中には、空いた場所があった。
ブローチのあった場所。小さな布を敷いていたところだけが、丸く押されている。
ほかには、リボンが二本。古いしおり。小さな紙片。母が使っていた短い鉛筆。
香水瓶はない。手紙もない。
「香水瓶は、ここに入れていました」
マギーは言った。
「銀の小さな瓶です。蓋に花の模様があります」
書記官が書く。
「伯母様の手紙も、ここへ」
「封筒の色は?」
ハーグリーヴが訊いた。
「薄い灰色です。端に、伯母様の家の印が押されていました」
エレノアがすぐに言った。
「ホルム家の小さな梟です。私は姪に宛てた私信に、それを使っています」
ハーグリーヴはうなずいた。
「確認します」
父は小箱を見ていた。中の空いた場所を。
それに気付いているのだと、マギーにはわかった。
「マギー」
父が言いかける。エレノアが横から静かに言った。
「今は、確認を」
父は口を閉じた。
「ああ」
マギーは小箱を閉じた。ハーグリーヴが紙帯をかける。
「こちらは、調査品として一時封じます。所有者はマギー嬢のままです」
「はい」
小箱に紙帯がかかる。奪われるのではない。今は、封じる。
マギーはそう聞いて、手を離した。
*
次は、母の部屋だった。
廊下の奥。もう何度も前を通ったのに、最近は入っていなかった部屋。扉には、同じように封がされている。
父が鍵を出した。
「私が開ける」
そう言った声は小さい。誰も止めなかった。
鍵が回る。扉が開く。
中の空気は、少し乾いていた。昔は、もっとやわらかい匂いがした。母の香水、古い本、乾いた花。
今は、布を干したような匂いと、掃除用の香草の匂いが先に来る。
マギーは入口に立ったまま、部屋の中を見た。
――変わっている。
椅子の位置。小机の向き。カーテンの留め方。
どれも大きな違いではない。けれど、母の部屋ではなく、母の部屋を整理した誰かの部屋になっていた。
エレノアが小さく息を吸った。
「妹は、この椅子を窓に背を向けては置きません」
父がそちらを見た。
「そうでしたか」
「ええ。刺繍の時、左手側から光が入るようにしていました。昔からずっと」
父は椅子を見る。マギーも見た。
椅子は、窓に近いが向きが違う。そこに座っても、母の手元には光が落ちない。
「誰かが、見た目で置き直したのね」
エレノアの声は荒くなかった。それだけに、部屋の中へ冷たく通った。
ハーグリーヴが書記官へ目を向ける。また記録される。
父は何も言わなかった。
部屋の中央には、例の箱が置かれていた。
マギーへ渡す予定のもの。父が昨日確認した箱だ。
ハーグリーヴが箱を開ける。中には、扇、リボン、刺繍道具、古い手紙束、小さな銀の香水瓶があった。
マギーは香水瓶を見て、すぐにわかった。
「それです」
声が少し低くなった。
「私の小箱に入れていました……」
ハーグリーヴは手袋をしたまま、瓶を取り上げた。
「中身は?」
「前は、もう少し残っていました」
「今は――」
瓶を傾けると、ほとんど音がしない。ほんのわずかに、底で液が動いただけだった。
エレノアが瓶を見た。
「妹の香水です。マギーに残したもののはずです」
父が息を止めたように見えた。ハーグリーヴは瓶を布の上へ置き、記録させる。
次に、手紙束を確認した。古いリボンでまとめられている。
リボンは母のものではない。マギーはすぐにそう思った。母は手紙をまとめる時、細い緑の紐を使っていた。これは白いリボンだ。ロズリーの刺繍箱に入っていたような、柔らかいもの。
エレノアも気づいたのだろう。
「妹は、手紙をリボンではまとめません」
また一つ、記録される。
ハーグリーヴが束をほどく。手紙が順に出される。
母宛てのもの。父からのもの。昔の招待状。
その中に、灰色の封筒があった。端に小さな梟。
マギーは手を伸ばしかけ、止めた。
「これです」
エレノアが先に言った。
「私がマギーへ出した手紙です」
封は開いている。中の便箋も折り目がついていた。
ハーグリーヴが読み上げることはしなかった。
「内容を確認しても?」
エレノアへ訊く。
「構いません。ですが、姪への私信です。必要な部分だけにしてください」
「承知しました」
便箋が開かれる。ハーグリーヴは目を通し、書記官へ言った。
「ホルム夫人からマギー嬢宛て。困ったことがあれば、いつでも手紙を寄越すよう記載あり。日付は、ロズリー嬢が来る前」
書記官が書く。
マギーは手紙を見ていた。なくしたと思っていたもの。自分が置き忘れたのだと言われたもの。
ここにあった。母の手紙束の中に。
白いリボンでまとめられて。
「これを誰がここへ?」
ハーグリーヴが父へ訊いた。
「わかりません」
父は答えた。声は硬かった。
「この箱は、オードリーが整理していたものです。私は中身を確認していませんでした」
「確認していなかったのですね」
「はい」
今度はごまかさなかった。エレノアが父を見る。
「エドガー様」
「はい」
「妹が亡くなった後、私はマギーに手紙を出しました。何かあればこちらへ、と。返事が少なくなったのは、落ち着いてきたからだと思っていました」
父は何も言えなかった。
「姪が返事を書けないほど追い詰められていたとは思いませんでした。手紙が手元になかったのなら、なおさらです」
「申し訳ありません」
父は頭を下げる。エレノアはすぐには返さなかった。
「謝罪は、あとで姪に」
短く言う。父はさらに頭を下げた。
マギーは手紙を見ていた。読みたい。でも今読むと、たぶん動けなくなる。
「封じてもらえますか」
マギーは言った。
「今は、読まないでおきたいです」
「わかりました」
ハーグリーヴは手紙を丁寧に戻し、別の封筒に入れた。王家の紙帯をかける。
「所有者はマギー嬢。必要時まで保全します」
「はい」
エレノアが、そっとマギーの背に手を添えた。
無理に押したりせず、ただ、そこに置かれるだけ。




