42 エレノア伯母がやってきた
伯爵からの手紙は、昼過ぎに届いた。
サミュエルは封を開け、最初の一枚を読み終えるまで何も言わなかった。
二枚目、三枚目へ進むにつれて、指先だけが少し強く紙を押さえる。
マギーは食堂の椅子に座っていた。昼食の皿は、まだ少し残っている。鶏肉と野菜を煮たものだった。ヘインズ夫人は、今日は残してもいいわよ、と先に言ってくれていた。
「兄様」
「ミルナーが捕まった」
サミュエルは手紙から目を上げた。
「馬車の細工を認めた。割りピンを替えたそうだ」
マギーは膝の上で手を握った。
「では、事故では」
「少なくとも、ただの事故ではない」
ルーカスが卓の横に立ったまま、少しだけ息を吐く。ヘインズ氏は腕を組み、夫人は鍋の蓋を静かに置いた。
サミュエルは続けた。
「オードリー様は、坂の前で止めるよう指示したと言っていた。けれどミルナーは、場所の指定は聞いていないと答えた」
「食い違ったのですね」
ルーカスが言う。
「ああ。それと、ロズリー嬢についても」
マギーは顔を上げた。
「ロズリーが?」
「ミルナーは事故の前日、ロズリー嬢へ『お母上から』外出しないよう伝えたと言った。ロズリー嬢は、最初は覚えていないと言い、その後、そう言われたと認めた」
マギーは、卓の上の水差しを見る。手は伸ばさなかった。
「では、ロズリーは、お義母様が母親だと」
「事故前に知っていたか、少なくとも疑う材料を持っていた可能性が出た」
サミュエルは断定はしていない。けれど軽くもない。
「馬車に細工があることは知らないと言っている。そこはまだ確認中だ」
「はい」
マギーはうなずく。
知らなかったかもしれない。けれど、何も知らなかったわけではない。その差が、今は重かった。
サミュエルは最後の便箋を開いた。
「父上は、亡き母上の部屋を王家立会いのもとで開けるつもりだ。ただし」
そこで一度、言葉を切った。
「マギーが望むなら、立ち会わせたい。望まないなら、開けない。少なくとも今は、とある」
マギーはすぐには答えられなかった。
母の部屋。長く閉じられていた部屋。
そこに、伯母の手紙があるかもしれない。母の香水瓶も、ブローチが入っていたはずの箱も、ほかのものも。
見たい。怖い。どちらもあった。
「今すぐに決めなくていいぞ」
サミュエルが言った。
「いいえ」
マギーは首を横に振った。
「決めます。開けてください。私も立ち会います」
「本当に?」
「はい」
はっきりと答える。そして少しだけ喉が乾いたので、水を飲んだ。
「ただ、伯母様にも知らせたいです」
サミュエルの目が少し動く。
「エレノア伯母上に」
「はい。あの手紙は、伯母様が私にくださったものです。母の部屋に移っていたなら、伯母様にも知っていただきたいです」
「そうだな」
サミュエルはすぐにうなずいた。
「知らせよう。父上にも、その旨を書いておく」
ルーカスが便箋を用意し、それをマギーの前へ置く。
ペンは置かない。
「ご自分で書かれますか。それとも、サミュエルに代筆を?」
マギーは便箋を見た。真っ白な紙だった。
「自分で書きます」
ルーカスはうなずいて、今度はペンを置いた。インク壺は少し右へ。マギーの袖が触れない位置に。
それだけして、何も言わずに下がる。
マギーはペンを取った。最初の一文で少し止まる。
――伯母様。
そう書いただけで、胸の奥が詰まりかけた。けれど、そのまま続ける。
――伯母様。
――マギーです。
――突然のお手紙をお許しください。
――私は今、王都のヘインズ家におります。サミュエル兄様の友人の家です。
――体は無事です。
――けれど、伯母様からいただいた昔のお手紙が、私の部屋から母の部屋へ移されていたかもしれません。
――母の部屋を、王家の立会いで開けることになりました。
――できれば、伯母様にも来ていただきたいです。
――私が、伯母様にいただいたものを確認するところを、見ていていただきたいのです。
そこまで書いて、手が止まった。
――来てください。
そう書くのは、少し怖かった。
迷惑ではないか。大げさではないか。
そう思いかけた時、ルーカスが水差しを少しだけ近づけた。何も言わない。
マギーは水を一口飲んだ。それから、最後の一文を書いた。
――伯母様、来てください。
書いてしまうと、思ったより短かった。サミュエルは封筒を出す。
「ホルム夫人の王都屋敷でいいな」
「はい。伯母様は今の時期、王都にいらっしゃるはずです」
「では急ぎで送る」
ヘインズ氏がすぐに立ち上がった。
「うちの者を出そう。王都内なら早い」
「お願いします」
マギーは封をした。
自分の印は持ってきていない。サミュエルが、バーレイ家の封蝋ではなく、大学で使う簡素な封を貸してくれた。
「今はそれでいい」
そう言われて、マギーはうなずいた。
*
返事は、その日の夕方に来た。早すぎるほどだった。
ヘインズ家の玄関に馬車が止まり、家の者が応対する前に、黒い外套の女性が降りてきたという。
エレノア・ホルム夫人だった。
食堂でその知らせを聞いたマギーは、椅子から立ち上がった。
立ち上がってから、自分が何をすればいいのかわからなくなった。
迎えに出るべきか。座って待つべきか。
サミュエルが立った。
「私が先に行く」
「いいえ」
マギーは首を横に振った。
「私も行きます」
玄関広間へ向かうと、そこには伯母が立っていた。
背の高い人だ。亡き母より少し鋭い顔立ちで、髪はきっちりまとめている。黒い外套の襟元には、銀の小さな留め具が一つ。派手ではない。だが、誰も簡単には近づけない空気がある。
伯母はマギーを見ると、すぐに歩み寄った。
「マギー!」
「伯母様……」
礼をしようとしたが、その前に両手を取られた。
強く握られたわけではない。でも、しっかりと離さない力があった。
「よく王都まで来ました」
伯母は言った。
「怖かったでしょう。でも、来たのは正しかった」
マギーは目を伏せ、ただ、頷いた。
「はい」
「体は?」
「無事です」
「食べていますか」
――なぜ皆そこを訊くのだろう。
マギーが少しだけ困ると、後ろからヘインズ夫人の声がした。
「昨日よりは食べています」
伯母はそちらを見た。ヘインズ夫人も、まっすぐ礼をした。
「ヘインズ夫人でいらっしゃいますね。姪がお世話になっています」
「こちらこそ、お預かりしております」
「ありがとうございます」
エレノアは深く礼をした。形だけではなかった。ヘインズ夫人も同じように返す。
玄関広間の空気が、少しだけ締まった。
「サミュエル」
伯母は次に、甥を見た。
「あなたが連れ戻させなかったと聞いて、少し見直しました」
「少しですか」
「かなりと言うには、まだ若いわ」
「肝に銘じます」
サミュエルは真面目に答える。伯母はそれから、ルーカスを見た。
「あなたが、ヘインズ家のご子息?」
「ルーカス・ヘインズです」
「マギーの話を聞いてくださったとか」
「聞き間違えないように努めています」
エレノアは少しだけ目を細めた。
「聞き間違えないように」
「商売では、聞き間違いが一番高くつきますので」
ルーカスはいつもの調子で答えた。伯母は軽く首を傾け、ほんの少しだけ口元を動かした。
「なるほど。よい心がけね」
マギーはそのやり取りを見ていた。
伯母が、ルーカスを嫌ってはいない。それがなぜか、少し嬉しかった。
*
応接室へ移ると、エレノアは外套を脱ぐ前に言った。
「まず、何があったのかを順に聞かせてください。急がなくていいわ。でも、ごまかしはなしで」
「はい」
マギーが答えると、サミュエルがこれまでの書付を出し、ルーカスがそれを卓の上に並べた。
見たこと。聞いたこと。思ったこと。嫌だったこと。
エレノアはその見出しを見た。
「これは?」
「マギー嬢が話しやすいように分けたものです」
ルーカスが答える。
「見たことと、聞いたことと、推測を混ぜないために」
「嫌だったこと、も分けてあるのね」
「はい。そこを抜くと、マギー嬢がなぜ家を出たのかが変わってしまいます」
エレノアはしばらく紙を見ていたが、やがて椅子に座った。
「よろしい」
短い言葉だった。
ルーカスは軽く礼をして、紙から手を離す。エレノアはマギーへ向き直った。
「では、あなたの口から聞きます。途中で疲れたら止めなさい。止めるのは逃げではありません」
「はい」
「ただし、言うと決めたところは言いなさい。あなたが黙ると、別の誰かが都合よく話を作ります」
その言い方は厳しかった。でも、マギーは嫌ではなかった。
「はい」
マギーは話し始めた。
ロズリーが来た日。雨。大きすぎる喪服の袖。居間の椅子。青い布。小箱。真珠のブローチ。
伯母の手紙。
エレノアは、途中で一度も「かわいそうに」と言わなかった。ただ、何度か短く訊いた。
「その時、誰が部屋にいたの」
「その手紙を最後に見たのはいつ」
「ブローチの小箱の鍵はどこに置いていたの」
「あなたは、それを嫌だと言ったのね」
マギーは答えながら、伯母は怒っているのだとわかった。
声は荒くない。けれど、怒っている。自分のために。
それがわかると、マギーは少しだけ背筋がしゃんとする思いだった。
話し終える頃には、外は暗くなっていた。ヘインズ夫人が茶を入れ直す。
エレノアは茶碗を持ち、ひと口飲んだ。
「エドガー様には、私からも書きます」
「お父様に」
「ええ」
茶碗を置く音は小さかった。
「亡き妹の娘に宛てた手紙が、なぜ妹の遺品箱に入っているのかしら。そこは、私にも確かめる権利があります」
サミュエルがうなずいた。
「父上も、伯母上の同席を望むと思います」
「望むかどうかではありません。同席します」
きっぱりしていた。サミュエルは返事に少し詰まる。
「はい」
「それから、マギー」
「はい」
「あなたが母の部屋を開ける時、私は隣にいます。必要なら、あなたより先に入ります。必要ないなら、後ろにいます。あなたが決めなさい」
マギーは、しばらく考えた。
「隣にいてください」
「わかりました」
即答だった。
マギーの手元に、ヘインズ夫人が小さな皿を置いた。薄く切った梨だった。
エレノアはそれを見て、少しだけ眉を上げる。
「食べられる?」
「はい」
「なら食べなさい。話はまだ長くなるわ」
言い方がヘインズ夫人とは違う。でも、皿を押しつけるわけではない。
マギーは梨を一切れ取る。甘く、少し冷たかった。
伯母はそれを見てから、ルーカスへ目を向けた。
「ルーカス様」
「はい」
「この家では、姪はきちんと食べて眠れていますか」
「少しずつですが」
ルーカスは答えた。
「食べられるものを出して、話す時は水を置くようにしています」
「水を」
「はい。話すと喉が乾きますので」
エレノアは、今度ははっきりルーカスを見た。
「そう」
短い返事だった。けれど、その声は先ほどより少しやわらかかった。
マギーは梨をもう一切れ食べた。
母の部屋を開けることは、まだ怖い。でも、隣には伯母がいる。
卓には、書付がある。水差しもある。
それから、聞き間違えないようにしてくれる人も。




