40 再度のオードリーへの質問
役所を出た時、外は夕方に近かった。
伯爵は馬車へ戻る前に、石段の下で足を止めた。
街道の向こうに、宿場町の屋根が並んでいる。人は普通に歩いている。荷馬車も通る。店先では、野菜を並べている女がいる。
子爵家の馬車も、あの日、こういう道を通ったのだろう。
ただ出かけるだけだった。そして帰れなかった。
「バーレイ伯爵」
ハーグリーヴが声をかけた。伯爵は振り返る。
「ロズリー嬢に、再度聞く必要があります」
「はい」
「オードリー夫人もです。夫人の発言とミルナーの発言が食い違っています」
「坂の前で止めるように言ったかどうか」
「それも一つです。ロズリー嬢がいつ母親を知ったかも」
伯爵はうなずく。
「わかっています」
「ウィリアム様には、まだ伝えない方がよい」
「はい、伝えません」
「彼が偶然耳にすることも避けてください」
「護衛を増やします」
ハーグリーヴは短くうなずいた。
「それから、王都のサミュエル殿へはこちらからも知らせます。伯爵からも送られるとよいでしょう」
「すぐに」
伯爵は馬車へ乗った。扉が閉まる。馬車が動き出す。
膝の上で、手が動かない。
ロズリーは、この家へ来てから知ったと言った。
ミルナーは、事故の前に知っていたはずだと言った。
オードリーは、馬車を坂の前で止めるように頼んだと言った。
ミルナーは、場所など聞いていないと言った。
どちらかが嘘をついている。あるいは、どちらも自分に都合よく削っている。
伯爵は窓の外を見た。道の脇に、黒っぽい泥が残っている。
雨の後の道。坂。橋。車輪。
帰ったら、また聞かなければならない。妻だった女に。守るべきだと思っていた娘に。
そして、守れなかった娘へは、まだ知らせることが増える。
目を逸らしてる暇は、もうなかった。
*
屋敷へ戻ると、玄関広間の空気がすぐに変わった。
誰も何も訊かない。けれど、ミルナーが捕まったという知らせは、もう屋敷の端まで届いているらしかった。
メイドが花瓶を持ったまま廊下の脇へ下がる。従僕は扉を開けた姿勢のまま、伯爵の手元を一度だけ見た。
手紙も、箱も持っていない。それでも、伯爵が何かを持ち帰ったことだけは伝わる。
「ハーグリーヴ殿は」
「まもなく」
護衛の一人が答えた。伯爵はうなずき、書斎へ向かった。
「モリスを。あと、王家の護衛をロズリーとオードリーの部屋の前に増やしてくれ。ウィリアムの部屋もだ」
「かしこまりました」
「誰にも、ミルナーの話はするな」
従僕は深く頭を下げた。
書斎へ入ると、机の上には朝と同じ書類が並んでいた。けれど、もう同じには見えない。
オードリーの発言記録。ロズリーの発言記録。その横に、ミルナーの名前を書いた紙を置く。
しばらくそれらを見ていたら、やがてハーグリーヴが来た。
「まず夫人から確認します」
「はい」
「伯爵は同席を。ただし、こちらから求めるまで発言は控えてください」
「わかっています」
――わかっている。
そう答えたものの、伯爵は自分の手を一度握った。
ミルナーの言葉を聞いた後で、黙って座っていられるか。
それは、まだわからなかった。
*
オードリーは、いつものように歩いてきた。
扉の前で礼をし、椅子を示されると静かに座る。服は深い青の室内着だった。髪も乱れていない。
伯爵はその姿の整い方を見る。今はもう、それを見てほっとすることはない。
ハーグリーヴは、机の上に新しい記録を置く。
「ミルナーを確保しました」
オードリーの指が、膝の上で止まった。
「そうですか」
「発言を確認します。ミルナーは、子爵家の事故の前日に馬車小屋へ入り、左後輪の割りピンを替えたと認めました」
「……そうですか」
「あなたの指示で行ったとも述べています」
「馬車を止めるよう頼んだことは、昨日申し上げました」
「はい。ですが、あなたは坂の前で止まるように言ったと述べた。ミルナーは、場所の指定は受けていないと述べています」
オードリーはすぐには答えなかった。
「……聞き落としたのでは?」
「その可能性はあります。もう一度伺います。あなたは本当に、坂の前で止めるよう指示しましたか」
「しました」
「いつ、どこで」
「手紙で」
「その手紙は」
「燃やしました」
ハーグリーヴは書記官へ目を向けた。ペンが動く。
伯爵は、机の端を見たまま動かなかった。
「なぜ燃やしたのですか」
「残しておくものではないと思ったからです」
「馬車を止めるだけの依頼だったのに?」
オードリーは少しだけ唇を閉じた。
「人に知られれば、誤解されます」
「誤解」
「はい」
「実際には三人が亡くなっていますね」
ハーグリーヴの声は変わらない。
「それは、私も承知しています」
「それでは、喪服についても確認します。ミルナーは、あなたからロズリー嬢の喪服を用意するよう言われたと述べています。葬儀に必要になるかもしれない、と」
「万が一のためです」
「馬車は止めるだけの予定だった。なのに、事故前日に喪服を用意した」
「ロズリーを外へ出さずに済めば、子爵家で騒ぎになると思いました。何が起きるかわかりませんでした」
「葬儀が起きる可能性も考えた」
オードリーは答えなかった。
「返答なし、と」
書記官が記す。
伯爵は、そこでようやくオードリーの手を見た。膝の布をつまむわけでもない。ただ重ねられている。ロズリーとは違う。
「次に、ロズリー嬢への伝言です」
ハーグリーヴは別の紙へ移った。
「ミルナーは事故の前日、ロズリー嬢へ『お母上から』外出しないよう伝えたと述べています」
オードリーの指が、ほんの少し離れた。
「ミルナーが、勝手にそう言ったのでしょう」
「あなたはロズリー嬢に、事故前に母親であることを知らせていないと述べています」
「はい」
「しかしミルナーは、あなたから『あの子にはもう話した』と聞いたと述べています」
「言っていません」
今度は即答だった。ハーグリーヴは少し間を空ける。
「では、ミルナーが嘘をついていると?」
「はい」
「何のために」
「自分の罪を軽くするためではないでしょうか」
「あなたが母親だとロズリー嬢が知っていたことにすれば、ミルナーの罪は軽くなりますか」
オードリーは黙った。
伯爵は、ハーグリーヴの問いかけ方を見る。急がない。声を荒げない。けれど、逃げ道を一本ずつ塞いでいる。
「もう一度伺います」
ハーグリーヴが言った。
「ロズリー嬢は、事故前にあなたが母親だと知っていましたか」
「いいえ」
「ミルナーが『お母上から』と伝えたことも、あなたは知らなかった」
「はい」
「では、ロズリー嬢がそこで何を理解したかも知らない」
「そうです」
「記録しました」
書記官のペンが止まる。オードリーは何も言わない。
「最後に、暴れた馬について。ミルナーは、馬車小屋を空けるために別の馬へ強い匂いの油を使ったと述べています。あなたはそれを知っていましたか」
「知りません」
「ミルナーに、馬車小屋へ入る方法を任せた?」
「はい」
「人に気づかれないよう、何かしらの手を使うことは承知していた」
「そこまでは」
「では、どうやって馬車小屋へ入ると思っていたのですか」
オードリーは、また答えなかった。
「返答なし」
書記官が記録する。
伯爵は息を吸った。喉の奥が冷たい。
止めるだけ。万が一。誤解。知らなかった。
同じような言葉が、少しずつ形を変えて並ぶ。
「本日の追加確認はここまでです」
ハーグリーヴが言った。
「今後、ミルナーとの対面確認を行う可能性があります」
オードリーは初めて、少しだけ目を見開いた。
「私とミルナーを?」
「必要であれば」
「ロズリーには」
「ロズリー嬢にも、別途確認します」
「私のいないところで」
「はい」
オードリーは何か言いかける。けれど口を閉じた。
伯爵は、その沈黙をも聞いていた。




