39 ミルナーへの質問
ウィリアムの部屋では、保全命令の読み上げが終わったあとも、彼はしばらく立ったままだった。
ハーグリーヴは書面を畳み、書記官へ渡す。
「内容は理解しましたか」
「理解はしました」
「では署名を」
「私は罪を犯したわけではありません」
「あなたは、調査に関わる情報をロズリー嬢へ漏らしています」
ウィリアムは口を閉じた。
「また、複数回にわたり、バーレイ伯爵の制止を受けながらロズリー嬢へ接触しようとしています」
「……彼女が心配だったからです」
「理由は記録します。ただし、命令は変わりません」
ウィリアムの手は机の上のペンへ伸びない。
護衛が扉の前に立っている。逃げられるわけではない。そもそも逃げるつもりもない。
だが、ここで署名をすれば、自分が本当に何もできなくなる気がした。
「ロズリーは、今ひとりです」
言ってから、自分でもまた同じことを言っているとわかった。ハーグリーヴは、ただそれを見ている。
「マギー嬢も、屋敷内で長く孤立していたと証言しています」
ウィリアムの手が止まった。
「今、その比較をされるのですか」
「必要ならします」
ハーグリーヴの声は変わらない。
「あなたはロズリー嬢の孤立には強く反応する。一方で、マギー嬢の孤立には反応していなかった可能性がある。あなたの証言や行動を見る上で、重要です」
ウィリアムは言い返せなかった。昨日、父にも同じことを言われたばかりだ。
――マギーは、ずっと一人だった。
そんなはずはない、と思いたかった。
けれど、王都のヘインズ家で見たマギーは、家族の前で話すために紙を握っていた。サミュエルに守られる位置に座っていた。ウィリアムが少し口を挟むだけで、肩が固くなっていた。
あの姿を、自分は何だと思っていたのか。
「署名を」
ハーグリーヴはもう一度言う。ウィリアムはペンを取った。
――ウィリアム・バーレイ。
名前を書いた。字が少し乱れた。
「当面、部屋で待機してください。外部への手紙は認めません。必要があれば、王家側または伯爵を通じて申し出ること」
「ロズリーへは」
「認めません」
返事は同じだった。ウィリアムは目を伏せる。
扉が閉まる。護衛が外に立つ。
部屋の中は静かだった。窓の外には庭が見える。
マギーが昔使っていた窓辺の椅子は、この部屋からは見えない。それでも、なぜかその椅子のことを思い出した。
母の椅子だった。マギーの椅子だった。
ロズリーの刺繍箱が置かれていた椅子。
ウィリアムは、今になって初めて、その椅子がどこにあったかを思い出そうとした。
*
ミルナーが見つかったのは、保全命令が出た翌々日の朝だった。
捕らえたのは、バーレイ伯爵家の者ではない。王家法務局の使いと、街道沿いの役人だった。
王都へ向かう宿場町で、古い外套を売ろうとしていたところを、宿の主人が気づいたという。
右頬に古い傷。痩せた体。茶色の外套。その三つで、十分だった。
伯爵に知らせが来たのは昼前だった。
「ミルナーを確保しました」
ハーグリーヴは書斎でそう告げた。伯爵は、手元の鍵台帳から目を上げた。
「どこに」
「街道沿いの役所です。こちらへは連れてきません」
「その方がいい」
「伯爵にも来ていただきたい。立ち会いではなく、確認者としてです。発言は控えてください」
「わかりました」
伯爵は立ち上がった。すぐにモリスを呼ぶ。
「屋敷は今のまま。オードリー、ロズリー、ウィリアム、いずれも部屋から出すな。王家の護衛に従え」
「かしこまりました」
「何かあれば、すぐ知らせろ」
「はい」
伯爵は外套を取った。
その時、廊下の向こうから、かすかに扉を叩く音がした。ウィリアムの部屋の方だった。
声は聞こえない。だが、何かを察したのかもしれない。
伯爵は一瞬だけそちらを見た。それから、何も言わずに書斎を出た。
*
ミルナーは、街道沿いの小さな役所の一室にいた。
部屋は狭い。卓と椅子が三つ。壁際に書記官の机。窓はあるが、外側に鉄格子が入っている。
ミルナーは椅子に座らされていた。
右頬の傷は、思ったより深かった。古い切り傷らしく、頬から顎にかけて白く残っている。茶色の外套は脱がされ、椅子の背に掛けられていた。中の上着は擦り切れている。
伯爵が部屋へ入ると、ミルナーはすぐに顔を上げた。
そして、目を伏せた。
「バーレイ伯爵」
声はかすれていた。
伯爵は返事をしなかった。ハーグリーヴから、発言は控えるよう言われている。
部屋の端に立つ。
ハーグリーヴが卓の向こうに座った。書記官がペンを取る。
「名を」
「トマス・ミルナーです」
「ラングレー男爵家に仕えていた」
「昔は」
「今もオードリー・バーレイ夫人と連絡を取っていたか」
ミルナーは唇をなめた。
「時々です」
「子爵家の事故の前日、喪服を注文したか」
「……はい」
「誰のために」
「ロズリー様のためです」
「誰に頼まれた」
ミルナーの視線が一瞬だけ伯爵へ向き、すぐに戻る。
「オードリー様です」
書記官のペンが走る。
「事故の前日、子爵家の馬車小屋へ行ったか」
「行きました」
「何をした」
「馬車を見ました」
「見るだけか」
ミルナーは黙る。ハーグリーヴは待った。
沈黙が少し長くなったところで、書記官のペンが止まる。
「何をした」
もう一度、同じ声で訊かれた。
「割りピンを替えました」
伯爵は指を動かさなかった。動かすと、拳になる。
「どの部分の」
「左の後輪です。軸を留めるところを」
「なぜ替えた」
「途中で車輪が使えなくなれば、馬車は止まります」
「止めるためか」
「はい」
「誰の指示で」
「オードリー様です」
ミルナーはそこまで言って、肩を丸めた。
「殺すつもりはなかったんです」
その言葉が出た瞬間、伯爵は奥歯を噛んだ。
オードリーと同じ言葉。まるで、用意されていたかのような言葉だった。
「誰が殺すつもりはなかったと言ったのか」
「私は」
「質問に答えなさい。あなたがそう思ったのか。オードリー夫人がそう言ったのか」
ミルナーは口を閉じる。それから、小さく言った。
「奥様《《も》》、そうおっしゃいました」
「奥様とは、オードリー・バーレイ夫人か」
「はい」
「夫人は、どこで車輪が外れるようにしろと言った」
「そこまでは」
ハーグリーヴの手が止まる。
「そこまでは?」
「場所までは聞いていません。出発して、途中で止まればいいと」
「坂の前で止まるように、とは」
「聞いていません」
伯爵は、そこで初めて息を吸った。
オードリーは言った。坂の前で止めるように、と。
ミルナーは、聞いていないと言った。
「割りピンを替えれば、どこで壊れるかわからないのでは」
ハーグリーヴが訊く。
「道が悪ければ、早く」
「事故の日は雨の後だった」
「はい」
「橋の手前には坂がある」
「知っていました」
「では、そこで壊れる可能性も知っていた」
ミルナーは黙る。ハーグリーヴは書記官へ目を向ける。
「返答なし」
ペンが動く。ミルナーの肩が小さく縮んだ。
「事故の日、ロズリー嬢を外出させないよう伝えたか」
「伝えました」
「何と言った」
「明日は出かけない方がいい。具合が悪いと言いなさい、と」
「誰からの伝言として」
ミルナーはそこで、明らかに迷った。ハーグリーヴの声は変わらない。
「誰からの伝言として」
「……《《お母上から》》、と」
部屋の空気が止まる。伯爵は、壁際で指先が冷えるのを感じた。
「お母上とは」
「オードリー様です」
「ロズリー嬢は、その時点でオードリー夫人が母親だと知っていたのか」
「私は、そう聞いていました」
「誰から」
「オードリー様からです。あの子にはもう話した、と」
伯爵は目を見はる。
ロズリーは言った。この家へ来てから知った、と。
ミルナーは言った。事故の前に、もう知っていた、と。
「ロズリー嬢は、あなたの伝言にどう答えた」
「最初は驚いていました。でも、お母上から、と言うと、わかりました、と」
「馬車に細工をするとは伝えたか」
「伝えていません」
「本当に」
「はい。そこまでは」
「喪服のことは」
「知りません」
「あなたが喪服を用意したことを?」
「知りません」
ハーグリーヴは書記官の手が追いつくまで待った。
伯爵はミルナーを見ていた。
怯えている。だが、すべて怯えから出ているとは限らない。
どこまでが自分を守るための言葉か。どこまでがオードリーを庇うためか。どこまでがロズリーを守るためか。
まだわからない。
だが一つだけ、はっきりした。ロズリーの答えは崩れた。
「喪服を前日に用意した理由を、夫人は何と」
ハーグリーヴが続けた。
「必要になるかもしれないと」
「何に」
「葬儀に」
「誰の葬儀か」
ミルナーは唇を噛んだ。
「……そこまでは」
「そこまでは聞いていない?」
「はい」
「では、なぜ若い娘の喪服を急ぎで用意した」
「ロズリー様が困らないように、と」
「事故が起きる前に」
「はい」
「馬車は止めるだけの予定だったのに」
ミルナーは答えなかった。また、書記官が返答なしと記録する。
伯爵は、小さな部屋の空気がだんだん重くなるのを感じていた。
喪服。外出を避ける伝言。割りピン。お母上から。
それぞれが、ばらばらではなくなっていく。
「ミルナー」
ハーグリーヴは初めて少しだけ声を低くした。
「あなたは、夫人から報酬を受け取ったか」
「少し」
「いくら」
ミルナーは答えた。
額は、安くはなかった。だが人を殺す報酬としては、むしろ少ない。
馬車を壊す。予定を潰す。ロズリーを残す。その程度の仕事としては、多い。
伯爵は、そう思った自分が嫌になった。
「支払いはどこで」
「ラングレー家の古い倉庫で」
「誰から」
「オードリー様から預かった、と、男爵家の下男が」
「名は」
ミルナーは答えた。書記官がそれを書き取る。
ハーグリーヴはさらにいくつか確認を続けた。馬車小屋へ入った時刻。厩係を馬の方へ呼んだのは誰か。暴れた馬に何かしたのか。
ミルナーは、そこでも言葉を詰まらせた。
「馬に、少し強い匂いの油を」
「誰が」
「私です」
「それで馬が暴れると知っていた」
「驚かせるだけのつもりでした」
また、その言葉。
だけのつもり。止めるだけ。驚かせるだけ。殺すつもりではない。
伯爵は、もう聞き飽きていた。だが、飽きたところで終わらない。
ハーグリーヴは最後に、紙を一枚ミルナーの前へ出した。
「ここまでの発言を清書します。確認の上、署名を」
「私は」
ミルナーは顔を上げた。
「私は、殺すつもりでは」
「それも記録します」
ハーグリーヴは言った。
「ただし、あなたのしたことも記録します」
ミルナーはそれ以上言わなかった。




