38 伯爵邸に保全命令が出る
翌朝、ロズリーの部屋には、いつもの薬湯が運ばれてきた。
盆を持ってきたのは、昨日までと違うメイドだった。若く、口数が少ない。杯を卓に置くと、礼をしてすぐ下がろうとする。
「待って」
ロズリーは椅子から立ち上がった。
メイドは扉の前で足を止める。
「奥様は…… いえ、オードリー様はどうしていらっしゃるの」
「存じません」
「ウィリアム様は」
「存じません」
「旦那様は?」
「書斎にいらっしゃいます」
答えは短い。
責めているわけではない。ただ、余計な言葉を足さないよう言われているのだろう。
「では、旦那様にお伝えして。私、いつまでここにいればよいのかと」
「かしこまりました」
メイドは礼をして出ていった。
扉が閉まる。廊下には、まだ人の気配がある。従僕か、王家の護衛か。足音が違うので、ロズリーにも少しずつわかってきた。
屋敷の人間は、立っていても空気が柔らかい。王家の人間は、立っている場所が動かない。
ロズリーは薬湯を見た。湯気は立っている。いつもなら少し蜂蜜が入っているのに、今日は香りが薄い。
オードリーが見ていないと、こうなるのだと思い、杯には手をつけなかった。
窓の外は晴れていた。庭に出たいと思ったが、たぶん許されない。
昨日、部屋へ戻ってから一度も外へは出ていない。刺繍箱も机の上にあるが、蓋を開ける気にならなかった。
薄青の糸は、少し色が変わっていた。オードリーが入れ替えたのだと、すぐわかった。
けれど、そのことも誰にも言えない。言えば、何のために糸が入れ替わったのかを聞かれる。
ロズリーは窓辺の椅子に座った。
あの屋敷で初めてこの椅子に座った時、自分のための場所ができたと思った。明るい場所ですね、と言っただけだった。
けれど、マギーはそのあと本を持って自室へ戻った。
知っていた。気づかなかったわけではない。
ただ、戻っていくマギーの背中を見ながらも、ロズリーは刺繍箱を膝に置いたままだった。返そうとはしなかった。
そのことを、昨日、言葉にされてしまった。
――綺麗な布だったので。
――外したら、私が悪いことをしたみたいになると思いました。
――私も、どこかにいたかったので。
どれも自分の言葉には違いない。
でも、紙に書かれると別のものに見えた。嫌な娘の言葉に見えた。
ロズリーは膝の上で手を握った。
――違う。
違う、と言いたい。けれど、何が違うのかはうまく言えなかった。
*
昼前に、伯爵が来た。
ひとりではなかった。王家法務局のハーグリーヴと、書記官が一人。護衛が扉の外に立つ。モリスもいる。
部屋の中が、急に狭くなった。
ロズリーは立ち上がり、礼をした。
「座りなさい」
伯爵の声は低かった。
怒ってはいない。けれど、前のような困ったような優しさもない。
ロズリーは椅子に座る。ハーグリーヴが書面を広げる。厚い紙だった。下の方には王家の印がある。
「本日より、正式な保全命令が出ます」
聞き慣れない言葉だった。
「ほぜん、ですか」
「証言、証拠、関係者の状態を保つための命令です。あなたは当面、この屋敷内で監督下に置かれます。許可なく外出することはできません」
「屋敷の中は」
「部屋の外へ出る場合も許可が必要です」
ロズリーは手元を見た。
「オードリー様とは」
「接触できません」
「ウィリアム様とは」
「接触できません」
即答。ロズリーは息を止めた。
「お手紙も?」
「認めません。口頭の伝言、刺繍箱や本などを使った伝言も同じです」
刺繍箱。その言葉で、ロズリーは顔を上げかけた。
ハーグリーヴは、こちらを見ている。ロズリーはすぐに視線を落とした。
「私、あの」
「必要なものはメイドを通じて申し出てください。内容は確認されます。医師が必要な場合も同じです」
「私は、罪人なのですか」
聞いてから、声が少し震えたことに気づく。ハーグリーヴは、すぐには答えなかった。
「現時点では、重要な関係者です」
「罪人ではないのですね」
「判断はこれからです」
慰めはない。ロズリーは膝の布をつかんだ。
「私は、馬車のことは知りませんでした」
「その発言は記録されています」
「本当です」
「それも記録されています」
同じ調子だった。信じるとも、疑うとも言わない。
ロズリーにとっては、その方が怖い。
ウィリアムなら、すぐに言ってくれた。君は悪くない、と。
オードリーなら、目元をやわらげてくれた。大丈夫、と。
でも、この部屋にいる誰も、そのようなことは言わない。
「では、私はいつまで」
「調査が進むまでです」
「調査が終われば、私はここにいられるのですか」
言ってから、伯爵の顔を見てしまった。
伯爵はすぐには答えなかった。ハーグリーヴが先に言う。
「それも、後の判断になります」
「修道院へ行かされるのでしょうか」
部屋の空気が少し動く。伯爵の手が、椅子の肘に触れる。
「今は決めない」
ロズリーは伯爵を見た。
「旦那様は、私を追い出したいのですか」
「今は決めないと言った」
「マギー様は戻られるのですか」
「マギーは王都にいる」
「戻られたら、私は」
「ロズリー」
伯爵の声が、少しだけ強くなった。
「マギーのことを、君の今後を推し量るために使うんじゃない」
ロズリーは言葉を止めた。頬が熱くなる。
――そんなつもりではなかった。
そう言いかけて、やめた。その言葉は、昨日から何度も使えなくなっている。
「保全命令は以上です」
ハーグリーヴが書面を畳まないまま言った。
「この内容を理解しましたか」
「……はい」
「署名を」
書面の下に空欄がある。ロズリーはペンを持った。
昨日と同じように、家名で迷った。子爵家の姓を書くべきなのか。母の姓なのか。バーレイではない。少なくとも今は。
結局、またロズリーとだけ書いた。
インクが少し滲む。ハーグリーヴは、それを見ても何も言わなかった。
*
同じ頃、オードリーの部屋でも同じ命令が読み上げられていた。
伯爵は同席していない。ロズリーの部屋で読まれたあと、書斎へ戻った。机の上には、王家へ渡した書類の控えが残っている。
真珠のブローチは、王家の封をされた小箱の中だ。
開けられない。今は、それでいい。
やがて、モリスが入ってきた。
「奥様の署名も済みました」
「何か言ったか」
「ロズリー様の体調を気にしておられました」
「ほかには」
「特には」
伯爵はうなずいた。
「ウィリアムは」
「お部屋に。保全命令は、ハーグリーヴ殿が直接読み上げております」
「荒れたか」
「お声は大きくなったようですが、護衛がいるため、それ以上は」
「そうか」
伯爵は椅子に座る。ウィリアムにも命令が出た。
オードリー、ロズリーとの接触禁止。外部連絡の制限。王家の調査に関する口外禁止。
息子にまで、王家の命令が必要になってしまった。
伯爵は指で眉間を押さえる。
「旦那様」
モリスが静かに言った。
「王家の命令になったことで、屋敷の者も動きやすくなりました」
「ああ」
「旦那様お一人のご命令より、迷う者は減ります」
「私の命令では足りなかったか」
「足りないというより」
モリスは少しだけ言葉を選んだ。
「皆、長く奥様の差配に慣れておりました」
伯爵は返事をしなかった。
その通りだった。家はオードリーの手で整えられていた。だから使用人たちは、伯爵が急に命じても、どこまで従えばいいのか迷ったのだろう。
オードリーに逆らってよいのか。ロズリーを止めてよいのか。ウィリアムを制してよいのか。
王家の印があれば、迷いは減る。
「マギーの部屋は」
「封じたままです」
「亡き妻の部屋も」
「はい」
「義姉上…… マギーの伯母からの手紙を探す必要がある」
「ホルム夫人からの?」
「マギーがそう話したらしい。困ったことがあれば手紙を寄越せという内容だった。それがマギーの部屋から、亡き妻の整理箱へ移っていた可能性がある」
モリスの眉が、ほんの少し動いた。
「それは」
「ああ。気になる」
「王家の立会いを求めますか」
「そうする」
伯爵はすぐに答えた。今はもう、自分だけで開けるべきではない。
「ハーグリーヴ殿に伝えてくれ。マギーの部屋と亡き妻の部屋を開ける時は、王家側の立会いを願いたいと」
「かしこまりました」
「開けるのは、マギーがいる時が望ましい」
「王都からお戻りいただくことになりますが」
「すぐではない」
伯爵は机の上の控えへ目を落とした。
「まだ戻さない」




