35 マギーの望み
聞き取りは、途中で一度休憩になった。
ハーグリーヴがそう決めた。マギーが頼む前だった。
「少し休みましょう。書記官の手も休ませたい」
若い書記官は、はい、と答えた。手首を小さく回している。ずっと書いていたのだから、たしかに疲れるのだろう。
ヘインズ夫人が、まるで待っていたように入ってきた。
盆には、薄い茶と、細く切ったパンが乗っている。甘いものではない。上に少しだけ溶かしたチーズが塗られていた。
「休憩と聞きましたので」
「ありがとうございます」
ハーグリーヴも礼を言った。夫人は、王家の役人にも遠慮しなかった。
「お仕事の途中でも、少しは召し上がった方がよろしいです。空腹で書いた記録は、字が荒くなります」
書記官が少しだけ笑いそうになり、咳払いした。ハーグリーヴは真面目な顔のまま、パンを一つ取った。
「それは困りますね」
「でしょう」
夫人はマギーの前にも皿を置いた。
「半分でもいいわ」
「はい」
マギーはパンを持った。
温かい。チーズの塩気がある。噛むと、少しだけ元気が戻る気がする。
ルーカスはその間、書付を触らなかった。ペンも置いたままにしている。手の甲に、またインクの点がついていた。マギーはそれに気づき、少しだけ目を止める。
ルーカスも気づいたのか、自分の手を見る。
「またついていますか」
「はい。少し」
「今日はもう諦めます」
「落ちないのですか」
「落ちますが、またつきます」
マギーは笑った。
ハーグリーヴは二人を見たが、何も言わなかった。
休憩が終わると、夫人は皿を下げた。マギーの皿には、パンが少し残っていた。
「残していいと言ったでしょう」
「でも」
「いいのよ。残せるのも、安心している時のことです」
そう言って、夫人は出ていった。
マギーは少しだけ、その言葉を考えた。
――残せるのも。
屋敷では、出されたものを残すと、体調を心配されるか、わがままだと思われるか、そのどちらかだった。
ここでは、《《ただ》》皿が下げられる。
そのことを考えている間に、ルーカスが次の紙を用意していた。
見たこと。聞いたこと。思ったこと。嫌だったこと。
順番は崩れていない。
*
後半は、ロズリーが来た日のことを詳しく訊かれた。
「天気は雨だったと」
「はい」
「ロズリー嬢の服装は?」
「黒い喪服でした。少し大きかったです。袖が指の付け根までかかっていて、何度か手で押さえていました」
「それを見て、当時どう思いましたか」
「急いで用意したのだと思いました。でも、事故の後なら当然だと思っていました」
「今は?」
「事故の前日に用意されていたと聞いたので、気になっています」
「事故の前日に用意されていたと、あなたは誰から聞きましたか」
「ヘインズ家で、仕立屋の記録を調べていただきました。ルーカス様から聞きました」
「あなた自身が仕立屋へ確認したわけではない」
「はい」
「では、それは聞いたことですね」
マギーはうなずいた。
「はい。私が見たのは、袖が合っていなかったことです」
ハーグリーヴは、また一度うなずいた。
「よろしい」
書記官のペンが進む。
「ロズリー嬢について、あなたは当時どう感じていましたか」
「気の毒だと思いました」
「今は?」
マギーは少し迷った。これは難しい。
気の毒だった。今も、気の毒なところはある。
けれど、それだけではない。
「気の毒だと思うところはあります。でも、それで私のものを取られていいとは思いません」
ハーグリーヴはすぐには次の質問へ行かなかった。
書記官がその文を書き終えるまで待つ。ペンが止まる。
「それも記録します」
「はい」
「あなたは、ロズリー嬢を罰したいですか」
サミュエルの目が少し動いた。ルーカスは紙に触れない。
マギーは、自分の膝の上の指を見た。
――罰したい?
そう言われると、よくわからない。
怒っていないわけではない。でも、何を望むかと訊かれると、すぐには出てこない。
「わかりません」
正直に言った。
「ただ、私のものは返してほしいです。私の部屋には勝手に入らないでほしいです。母の部屋を、私に黙って整理しないでほしいです。あと、ロズリーが私より少ないものしか持っていなかったからといって、私のものを渡されるのは嫌です」
言ってから、喉が少し乾いた。水を飲む。今度は自分で注いだ。
ハーグリーヴは、マギーが飲み終えるまで待った。
「わかりました」
それだけだった。けれど、軽く扱われた感じはなかった。
質問は、そこで一区切りになった。
ハーグリーヴは書記官の紙を確認し、数箇所だけ言い方を直させた。直すといっても、意味を変えるのではなく、誰から聞いたか、何を見たかを分けるためだった。
ルーカスはその様子をよく見ていた。
途中で一度、書記官が「馬車の細工を知った」と書きかけた時、ルーカスが控えめに口を挟んだ。
「マギー嬢が知ったのは、細工の可能性です。細工があったと確定したわけではありません」
ハーグリーヴは書記官を見た。
「直しなさい」
「はい」
書記官が書き直す。ルーカスはそれ以上、何も言わなかった。
マギーはその横顔を見た。
言うべきところだけ言う。それから黙る。
ウィリアムなら、きっともっと大きな声で庇っただろう。自分が守っているとわかるように。
ルーカスは、誰が見ていなくても紙の言葉を直した。
マギーは手元のグラスへ視線を戻した。
水が半分残っている。
*
聞き取りが終わったのは、夕方近くだった。
ハーグリーヴは立ち上がり、マギーへ向き直った。
「本日はここまでです。後日、改めて確認することがあります。ですが、当面あなたがバーレイ伯爵家へ戻る必要はありません」
マギーは顔を上げた。
「よろしいのですか」
「よろしい、ではなく、戻さない方がよいと判断します」
ハーグリーヴは言った。
「少なくとも、証言が混ざる恐れがなくなるまでは」
「はい」
「ヘインズ家に滞在することについては、伯爵からも異議は出ていません。王家側からも、当面はそのままとします」
サミュエルが小さく息を吐く。マギーはその音に気付いた。
兄も、ずっと気を張っていたのだと。
「ありがとうございます」
マギーが礼をすると、ハーグリーヴは、また最初と同じ礼を返した。
「あなたが見たことは、役に立ちます。覚えていることが後から出てきた場合は、サミュエル殿かヘインズ家を通じて知らせてください」
「はい」
「ただし、無理に思い出そうとしなくてよい。記憶は、急かすと余計なものを連れてきます」
妙な言い方だった。
けれど、マギーは少しだけわかる気がした。
「はい」
ハーグリーヴたちが帰ると、応接室は急に広くなった。
書類はまだ卓にある。水差しもある。グラスには、少しだけ水が残っていた。
マギーは椅子から立とうとして、足に力が入らないことに気づいた。
サミュエルがすぐに動く。だが、その前にルーカスが椅子の背を押さえた。マギーに触れない。ただ、椅子が動かないようにする。
「ゆっくりで」
「ありがとうございます」
マギーは立ち上がった。少しふらついたが、すぐに戻る。
サミュエルが眉を寄せた。
「今日はもう寝ろ」
「まだ夕方です」
「横になれ」
「それなら」
言い合いになる前に、ヘインズ夫人が入ってきた。
「まず夕食です」
「母上」
「寝るのはその後。空の胃で寝ると、夜中に起きる羽目になります」
サミュエルは反論を飲み込んだ。ルーカスが小さく言う。
「今日も母が勝ちました」
「毎日勝っているわよ」
夫人は当然のように言い、マギーの前に小さな籠を差し出した。
中には、小ぶりの焼き林檎が一個入っている。
「夕食までのつなぎ。半分でいいわ」
マギーはそれを受け取った。
温かい。砂糖は少なめで、皮のところが少し焦げている。
一口かじると、酸味が先に来て、その後から、甘みが来る。
マギーはもう一口食べた。
ルーカスが卓の上の紙を静かにまとめている。ペンを置き、インク壺に蓋をし、マギーの書付だけ別の封筒へ戻す。手順は変わらない。
マギーは焼き林檎を持ったまま、その手元を見ていた。
今日は、何度も答えた。
見たこと。聞いたこと。思ったこと。嫌だったこと。
それらは、まだ卓の上にある。
けれど、もう散らばってはいなかった。




