34 王家法務局のハーグリーヴ氏
昼前、王家からの使いがヘインズ家を訪ねてきた。
正式な調査官ではなく、まずは連絡役だった。
サミュエル宛に、午後遅くに王家側の担当者がヘインズ家へ来ると告げる。バーレイ家からの届けが届き、関係する記録が王都にもあるため、最初の確認をこちらで行いたいということだった。
ヘインズ氏は応接室を用意させた。ルーカスは書付を束ね直す。
サミュエルはマギーを見た。
「午後、聞かれるかもしれないが、無理なら、無理と言えばいい。返事ができなければ、黙っていい」
「はい」
「水は――」
そこまで言ったところで、ルーカスが小さな水差しを持ってきた。
「置いておきます」
サミュエルは一瞬止まった。
「用意がいい」
「間違えない仕組みです」
ルーカスはそう言って、水差しをマギーの手が届く場所に置いた。近すぎない。倒しにくい位置だった。
マギーはそれを見ていた。
「ありがとうございます」
「はい」
ルーカスは短く答える。その短さが、マギーにはありがたかった。
午後に何が起きるかは、まだわからない。
けれど、卓の上には、見たこと、聞いたこと、思ったことが分けて置かれている。
嫌だったことも。
水差しもある。そして、ペンを止めて待ってくれる人がいる。
マギーは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
まだ怖い。
けれど、何を怖がっているのかは、昨日より少しわかっていた。
*
王家の使いが来たのは、午後の鐘が二つ鳴ったあとだった。
馬車は一台だけだった。派手な紋章馬車ではない。けれど、扉に小さな王冠の印が入っている。御者の動きも、護衛の立ち方も、ヘインズ商会へ来る客とは少し違った。
ヘインズ氏が玄関で迎えた。
サミュエルとルーカスもその後ろに立つ。マギーは応接室で待つように言われていた。待つ、と言われたのに、膝の上の指はさっきから何度も組み直している。
卓には水差しがある。その横に、書付。
見たこと。聞いたこと。思ったこと。嫌だったこと。
ルーカスの字は読みやすい。大きすぎず、小さすぎない。余白もある。余白があるだけで、なぜか息がしやすい。
扉の向こうから、足音が近づいた。
マギーは水差しを見た。倒れない位置にある。手を伸ばせば届く。確かめてから、顔を上げる。
入ってきたのは、四十代半ばほどの男だった。
灰色の上着に、黒い手袋。腰には細い剣を帯びているが、飾りではないらしい。動きに余計な音がない。
後ろには若い書記官が一人、革の書類鞄を持って続いていた。
「王家法務局のハーグリーヴです」
男はそう名乗った。サミュエルが礼をする。
「サミュエル・バーレイです。妹のマギー・バーレイです」
マギーも礼をした。
ハーグリーヴは深くも浅くもない礼を返す。貴族の娘に対する礼というより、話を聞く相手に対する礼だった。
「お疲れでしょう。座ったままで構いません」
「はい」
マギーは座る。
ハーグリーヴは向かいの椅子へ腰を下ろした。若い書記官は少し離れた小机に座り、紙とペンを出す。
ルーカスは、マギーの斜め後ろではなく、卓の横に立った。
近すぎない。紙に手が届く場所。けれど、マギーの代わりに答える位置ではない。
「まず確認します」
ハーグリーヴが言った。
「バーレイ伯爵から、子爵家の事故に関する届けが出ています。オードリー・バーレイ夫人の発言記録、ロズリー嬢の発言記録、ロズリー嬢の洗礼記録写し、馬車事故に関する商会側の聞き取り。これらを受け取りました」
「はい」
サミュエルが答える。
「本日は、マギー嬢から直接お話を伺います。ただし、無理にすべてを今日話す必要はありません。途中で休んでも構いません。質問に答えられない場合は、答えられないと言ってください」
マギーはうなずいた。
「わかりました」
「では、最初に。あなたは現在、自分の意思でヘインズ家に滞在していますか」
「はい」
「誰かに強制されていることは?」
「ありません」
「バーレイ伯爵家へ戻る意思は、今ありますか」
マギーは膝の上の指に力が入るのを感じた。
すぐ答えられると思っていた。けれど、問いにされると、思ったより重い。
サミュエルは何も言わない。ルーカスもペンを持っていない。ただ、卓の端にある水差しの向きをほんの少しだけ直した。
注ぎ口が、マギーの方へ向く。
「今は、ありません」
声は出た。
ハーグリーヴはうなずき、書記官のペンが動いた。
「理由を、あなたの言葉でお願いします」
マギーは書付を見た。どこから話せばいいのか。
見たこと。聞いたこと。思ったこと。嫌だったこと。
ルーカスが、何も言わずに一番上の紙を少しだけ手前へ動かした。
――見たこと。
マギーはそこを見る。
「ロズリーが来てから、私の部屋や母のものが、少しずつ動かされるようになりました」
「少しずつ、とは」
「最初は居間の椅子でした。亡くなった実の母が使っていた窓辺の椅子です。母が亡くなってからは、私がそこで本を読んだり、刺繍をしたりしていました。ロズリーが明るい場所でないと針目が見えにくいと言って、その椅子に刺繍箱を置くようになりました」
「それは、誰の指示でしたか」
「はっきりと命じられたわけではありません。けれど、お義母様がロズリーに使わせてあげるようにと言いました。父も、少しくらい譲りなさいと」
ハーグリーヴは途中で止めなかった。書記官のペンの音だけが続く。
「次に、青い布です。母の肖像に似た色の布で、私が選んだものでした。伯母の茶会に着るつもりでした。でも、ロズリーのドレスになりました」
「あなたは、その時に断りましたか」
「断りかけました」
「かけた」
「はい。ロズリーが、もったいないと言いました。でも布から手は離しませんでした。父は、私にはほかにもあると言いました」
ハーグリーヴはそこで、初めて少し顔を上げた。
「ほかにもある」
「はい」
「あなたは、それをどう受け取りましたか」
マギーは、今度は別の紙を見た。
――嫌だったこと。
そこには、そのままの言葉が書いてある。
――私に他のものがあることと、その布を失っていいことは別。
マギーはそれを見てから言った。
「私に他のものがあるからといって、その布を失っていいわけではないと思いました。でも、その場では言えませんでした」
書記官のペンが走る。ハーグリーヴはうなずいた。
「続けてください」
「あとは、真珠のブローチのことです」
その言葉を出すと、指先が少し冷えた。けれど、水差しには手を伸ばさなかった。
「母の形見です。母が生きていた頃、いつか私にくれると言っていました。私は、自分の小箱に入れて鍵をかけていました。けれどロズリーがそれをつけていました。お義母様が選んだと聞きました」
「あなたは返還を求めましたか」
「はい」
「その場で返されましたか」
「いいえ」
「理由は」
「今日のお茶会には必要だと。ロズリーにとって初めての茶会だからと。あとで返すような話になりました。でも、その後、私は家を出ました」
「ブローチが返されなかったことが、家を出る直接の理由ですか」
マギーは一度、答えを止めた。
――直接。
それは少し違う。でも、違わない。
卓の上の紙を見る。ルーカスの字で、端に小さく書いてあった。
――最後の一つではなく、《《積み重なったもの》》。
「直接のきっかけではあります。でも、それだけではありません。居間の椅子、布、母の部屋、私の小箱、伯母からの手紙。少しずつ、私のものが別の場所へ動きました。言っても、ロズリーが可哀想だから、私にはほかにもあるから、少しくらい譲りなさいと言われました」
「伯母からの手紙?」
ハーグリーヴは訊いた。マギーはうなずく。
「母の姉のエレノア・ホルム伯母様からの手紙です。困ったことがあれば、いつでも手紙を寄越しなさいと書かれていました。私の部屋に置いていたのに、一度なくなり、母の部屋の整理箱に入っていました。お義母様が、亡き母のものと混ざっていたから、と」
「その手紙は今どこに?」
「確認中です。たぶん、まだ母の部屋に」
ハーグリーヴは書記官へ短く目を向けた。書記官が別の欄に何かを書く。
「その手紙が移動したことを、当時あなたはどう受け取りましたか」
「自分の置き忘れかと思いました」
「今は?」
マギーはすぐには答えなかった。
――思ったこと。
そこに書いてある。でも、これはまだ決めない話だ。
「今は、確認したいです」
ハーグリーヴは手を止め、マギーを見た。
「確認したい?」
「はい。わざとだったのか、偶然だったのか。私の記憶違いだったのか。まだわかりません。ただ、同じようなことがいくつもあったので、確認したいです」
ハーグリーヴは少しだけうなずいた。
「よい答えです」
褒める声ではなかった。
ただ、記録に耐える答えだと言われたような気がした。
マギーは肩から少し力を抜き、そこで初めて、水を飲んだ。
グラスは軽い。
水は少し冷たかった。




