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母の形見を奪われたので、家を出ます~奪った庶子は、義母の娘でした  作者: さんけい


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33/58

33 ミルクと焼き菓子

 翌朝、マギーはいつもより早く目を覚ました。


 王都の朝は、屋敷の朝と音が違った。遠くで荷車が動く音がする。通りのどこかで、店の鎧戸を上げる音もした。鳥の声より先に人の声が聞こえる。

 寝台の上で少しだけ待った。

 誰も扉を開けない。鍵は、内側からかかったままだ。

 マギーは起き上がり、窓を少し開けた。冷たい空気が入ってくる。石畳の匂いと、どこかのパン屋の匂いが混ざっていた。

 支度をして食堂へ下りると、ヘインズ夫人がもういた。


「おはよう。眠れた?」

「はい。昨日よりは」

「それなら上出来。今朝は粥ではなく、卵にしましょう。食べられそう?」

「少しなら」

「少しから始めればいいわ」


 食卓には、サミュエルもいた。手元に昨夜の書付を広げている。けれど食事の皿からは離してあった。ヘインズ夫人に何か言われたのだろう。

 ルーカスはまだ来ていなかった。

 そう思ったところで、食堂の隣の廊下から声がした。


「その帳簿は午後まで触らないでください。王家の方に見せるなら、今の順番を崩さない方がいい」

「若旦那、こっちの写しは?」

「写しは二部。片方は封筒へ。片方は私の机へ。インクが乾くまで重ねないように」


 声だけで、何をしているのか少しわかる。

 ルーカスは食堂へ入ってきた時、片手に紙束を抱えていた。髪が少し乱れている。上着はきちんとしているが、袖口にインクがついていた。


「おはようございます」

「おはようございます。朝からお忙しいのですね」

「うちは朝が一番うるさいんです」


 ルーカスは紙束を卓の端へ置こうとして、ヘインズ夫人に見られた。


「ルーカス」

「置きません」


 すぐに引っ込める。サミュエルが少しだけ笑った。


「お前でも母上には勝てないんだな」

「勝とうと思ったことがありません。勝つと昼食が減ります」

「減らさないわよ」


 ヘインズ夫人はそう言いながら、ルーカスの前に卵を置いた。


「でも、紙は食卓に置かないの」

「はい」


 マギーはそのやり取りを聞きながら、卵を少しずつ食べた。柔らかく焼いてあって、塩は薄い。昨日より食べやすい。

 ルーカスは食べるのが早かった。けれど雑ではない。食べ終えると、皿を少し横へ寄せ、手を拭いてから紙束を開いた。

 ヘインズ夫人が目を細める。


「食後ならいいでしょう?」

「茶が出るまでは待ちなさい」

「はい」


 ルーカスは紙束をまた閉じた。マギーは少し笑ってしまった。

 こちらを見て、彼は真面目な声で言う。


「母は、商会の何より強い規則です」

「それは、よいことだと思います」

「時々、大変です」

「でも、守られている感じがします」


 言ってから、マギーは少しだけ目を伏せた。


 ――守られている。


 その言葉が、ウィリアムの言う()()とは違うもののような気がする。

 ルーカスは、すぐには返さなかった。ただ、自分の袖口についたインクを見て、布巾で少し拭いた。


「規則は、使い方を間違えなければ人を守ります。うちはたぶん、食卓の規則に助けられています」

「書類を置かないことが?」

「はい。置くと、父も私も食べながら仕事を始めるので」

「それは確かに、止めた方がいいです」

「でしょう」


 マギーはまた少し笑った。そこへ夫人が茶を置く。


「では、食後です」


 ルーカスは紙束を開いた。

 そこには、昨日までに集めた話が三つの欄に分けられていた。

 見たこと。聞いたこと。思ったこと。

 マギーはその見出しを見て、少しだけ首を傾げた。


「これは」

「王家の方に聞かれる前の練習です」


 ルーカスが言った。


「見たことと、聞いたことと、思ったことは、混ざりやすいので」


 サミュエルがうなずいた。


「特に、追い詰められている時はな」

「はい。だから先に分けておきます。マギー嬢が悪いという意味ではありません。誰でも混ざってしまうものです」


 ルーカスは一枚をマギーの前へ置く。ただし、近すぎない場所に。


「たとえば、ロズリー嬢の喪服の袖口。これはマギー嬢が見たことです。袖が長く、手を出す時に布を押さえていた」

「はい」

「そこから、既製の喪服を急いで直したのではないか、というのは私たちの推測です」

「思ったこと、ですね」

「そうです。そして仕立屋の帳簿に、事故前日の既製喪服の直しがあった。これは聞いたこと、または記録で確認したことです」


 ルーカスはペンで三つの欄を軽く叩いた。


「ここを分けると、聞かれた時に答えやすい」


 マギーは紙を見た。

 自分の記憶が、整えられている。けれど、勝手に作り替えられてはいない。

 それがわかった。


「私が言った言葉、そのままなのですね」

「はい。変えると、あとで困ります」

「きれいに書き直さないのですか」

「しません」


 ルーカスはすぐに答えた。


「きれいな文章より、元の言い方が大事な時があります。特に証言は」


 マギーはペンの先を見る。

 ルーカスの指には、さっき落ちなかったインクが少し残っていた。爪の横に黒い点がある。彼は気にしていないようだった。

 貴族の若い男なら、たぶん気にする。少なくとも、マギーの知っている家ではそうだ。


「ルーカス様は、間違えないようにするのが得意なのですね」

「よく間違えるからです」


 意外な返事だった。


「そうなのですか」

「はい。数字も、人の話も。だから、間違えない仕組みに頼るのです」

「仕組み」

「紙を分ける。日付を書く。誰が言ったかを残す。食卓に書類を置かない」


 最後だけ少し声が軽くなった。サミュエルが横から言う。


「最後はお前の母上の仕組みだ」

「家族の知恵も仕組みですよ」


 マギーは紙へ視線を戻した。

 見たこと。聞いたこと。思ったこと。

 その三つに分けられるなら、王家の人に聞かれても少しは話せるかもしれない。


「では、私が嫌だったことは、どこに入りますか」


 訊いてから、少し不安になった。

 けれどルーカスは、迷わず別の紙を出した。


「ここです」


 見出しには、短くこう書いてあった。


 ――嫌だったこと。


 マギーは黙った。

 ルーカスはその紙を、他の紙と同じように置いている。特別に隠すでもなく、飾るでもない。


「これも分けておきます。見たことや聞いたことと同じではありません。でも、必要です」

「必要」

「はい。なぜ家を出たのかを説明する時に、ここを抜くと話が変になります」


 サミュエルが言った。


「お前が勝手に出ていった話に戻されるということだ」

「それは困ります」


 マギーは小さく言った。


「では、困らないようにしましょう」


 ルーカスはペンを取った。


「昨日の続きです。居間の椅子がロズリー嬢の場所になっていったこと。青い布がロズリー嬢のドレスになったこと。小箱の鍵。ブローチ。ほかに、思い出したことはありますか」


 マギーはしばらく考えた。


「香水瓶」

「はい」

「母の小さな香水瓶が、一度なくなりました。お義母様が、別の引き出しにあったわ、と持ってきました。でも、私は小箱に入れていたはずでした」


 ルーカスが書く。


「中身は残っていましたか」

「少し減っていたような気がします。でも、古いものなので、揮発したのだと思っていました」

「瓶の形は?」

「銀の、小さなものです。蓋に花の模様が」


 ルーカスのペンが止まった。


「伯爵の手紙に、亡き奥様の部屋の箱の中身が少し書かれていました。銀の小さな香水瓶があったと」


 マギーは顔を上げた。


「同じものかもしれません」

「確認しましょう。まだ決めません」

「はい」


 この、まだ決めない、という言葉を、マギーは少し好きになってきていた。

 決めつけられない。でも、流されもしない。

 宙ぶらりんで怖い時もある。けれど、誰かの都合のよい話に押し込まれるよりは、ずっと息ができる。

 ルーカスは次の行へ移る。


「ほかには」

「手紙です」

「誰からの?」

「母の姉、伯母様からの古い手紙です。母が亡くなった後に、私へくださったものです。何度か読み返していたのに、ある日なくなって。後で、母の部屋の整理箱に入っていました」

「それは、誰が戻しましたか」

「お義母様です。亡き母のものと混ざっていたから、と」


 サミュエルが少しだけ眉を寄せた。


「伯母上の手紙か」

「はい」

「内容は」

「困ったことがあれば、いつでも手紙を寄越しなさい、と」


 サミュエルは短く息を吐いた。


「それを持っていかれたのか」

「たぶん、偶然だと思っていました」


 今言うと、偶然とは思えない。だが、マギーはそうは言わなかった。

 ルーカスが紙に書き足す。


「伯母様の名は」

「エレノア・ホルムです」

「では、その手紙も確認した方がいいですね。今も亡き奥様の部屋の箱に?」

「たぶん」

「伯爵に確認を頼みましょう」

「そんなことまで」

「はい」


 ルーカスは当然のように答えた。


「外へ助けを求める線が、どこかで細くされていたかもしれないので」


 マギーはそこで、ペン先の動きを見つめた。


 ――困ったことがあれば、いつでも手紙を寄越しなさい。


 あの手紙を読み返していた頃、まだ自分は家を出るつもりなどなかった。ただ、読むと少し落ち着いた。

 伯母は遠くにいる。けれど、どこかに自分を気にしてくれる人がいる。

 それがなくなった時、仕方ないと思った。……思わされた。


「……そういうことも、あるのですね」

「まだ、あると決まったわけではありません」


 ルーカスは言った。


「でも、確認する価値はあります」


 マギーはうなずいた。


「はい」


 そこへ、ヘインズ夫人が入ってきた。

 盆の上には、小さなカップが三つと、細長い焼き菓子が乗っている。


「午前の休憩」

「母上、今は」

「今だからよ」


 ルーカスは口を閉じた。

 ヘインズ夫人はマギーの前にカップを置いた。


「温かいミルクです。お茶ばかりでは胃が疲れるでしょう」

「ありがとうございます」

「焼き菓子は一本だけ。これは甘いけれど、軽いわ」


 マギーは受け取った。ルーカスの前にも同じものが置かれる。

 サミュエルの前には、なぜか二本置かれた。


「私は二本ですか」

「朝から顔が険しいから」

「焼き菓子で直るものですか」

「試してみましょう」


 ルーカスが下を向いて笑いをこらえる。

 マギーも、カップを持ったまま少し笑った。サミュエルは一本を取って、黙って食べた。


「どう?」


 ヘインズ夫人が訊く。


「おいしいです」

「顔は?」

「自分ではわかりません」

「なら、もう一本」


 サミュエルは少し困った顔で二本目を見た。

 ルーカスが小さく言う。


「兄上としての責務ですよ」

「お前は黙っていろ」


 そのやり取りで、マギーは焼き菓子をかじった。

 軽くてほろほろ崩れる。ミルクを飲むと、口の中でちょうどよく溶けた。

 ヘインズ夫人はそれを見て、何も言わずに盆を持って出ていった。

 ルーカスは、マギーが食べ終えるまでペンを置いていた。


 ――急かさない。


 そのことに、マギーはふと気づいた。

 サミュエルは話を止める。必要なら、強く止める。ヘインズ夫人は食べ物で止める。ルーカスは、ペンを止める。

 自分の言葉を待つ人。しかも、待っている間に勝手な答えを作らない人。

 マギーはカップを置いた。


「続けられます」

「はい」


 ルーカスはペンを取った。


「では、伯母様の手紙のところから」


 言い方が、ちょうどよかった。

 何でもないように続く。だからマギーも、続けられた。


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