33 ミルクと焼き菓子
翌朝、マギーはいつもより早く目を覚ました。
王都の朝は、屋敷の朝と音が違った。遠くで荷車が動く音がする。通りのどこかで、店の鎧戸を上げる音もした。鳥の声より先に人の声が聞こえる。
寝台の上で少しだけ待った。
誰も扉を開けない。鍵は、内側からかかったままだ。
マギーは起き上がり、窓を少し開けた。冷たい空気が入ってくる。石畳の匂いと、どこかのパン屋の匂いが混ざっていた。
支度をして食堂へ下りると、ヘインズ夫人がもういた。
「おはよう。眠れた?」
「はい。昨日よりは」
「それなら上出来。今朝は粥ではなく、卵にしましょう。食べられそう?」
「少しなら」
「少しから始めればいいわ」
食卓には、サミュエルもいた。手元に昨夜の書付を広げている。けれど食事の皿からは離してあった。ヘインズ夫人に何か言われたのだろう。
ルーカスはまだ来ていなかった。
そう思ったところで、食堂の隣の廊下から声がした。
「その帳簿は午後まで触らないでください。王家の方に見せるなら、今の順番を崩さない方がいい」
「若旦那、こっちの写しは?」
「写しは二部。片方は封筒へ。片方は私の机へ。インクが乾くまで重ねないように」
声だけで、何をしているのか少しわかる。
ルーカスは食堂へ入ってきた時、片手に紙束を抱えていた。髪が少し乱れている。上着はきちんとしているが、袖口にインクがついていた。
「おはようございます」
「おはようございます。朝からお忙しいのですね」
「うちは朝が一番うるさいんです」
ルーカスは紙束を卓の端へ置こうとして、ヘインズ夫人に見られた。
「ルーカス」
「置きません」
すぐに引っ込める。サミュエルが少しだけ笑った。
「お前でも母上には勝てないんだな」
「勝とうと思ったことがありません。勝つと昼食が減ります」
「減らさないわよ」
ヘインズ夫人はそう言いながら、ルーカスの前に卵を置いた。
「でも、紙は食卓に置かないの」
「はい」
マギーはそのやり取りを聞きながら、卵を少しずつ食べた。柔らかく焼いてあって、塩は薄い。昨日より食べやすい。
ルーカスは食べるのが早かった。けれど雑ではない。食べ終えると、皿を少し横へ寄せ、手を拭いてから紙束を開いた。
ヘインズ夫人が目を細める。
「食後ならいいでしょう?」
「茶が出るまでは待ちなさい」
「はい」
ルーカスは紙束をまた閉じた。マギーは少し笑ってしまった。
こちらを見て、彼は真面目な声で言う。
「母は、商会の何より強い規則です」
「それは、よいことだと思います」
「時々、大変です」
「でも、守られている感じがします」
言ってから、マギーは少しだけ目を伏せた。
――守られている。
その言葉が、ウィリアムの言う守るとは違うもののような気がする。
ルーカスは、すぐには返さなかった。ただ、自分の袖口についたインクを見て、布巾で少し拭いた。
「規則は、使い方を間違えなければ人を守ります。うちはたぶん、食卓の規則に助けられています」
「書類を置かないことが?」
「はい。置くと、父も私も食べながら仕事を始めるので」
「それは確かに、止めた方がいいです」
「でしょう」
マギーはまた少し笑った。そこへ夫人が茶を置く。
「では、食後です」
ルーカスは紙束を開いた。
そこには、昨日までに集めた話が三つの欄に分けられていた。
見たこと。聞いたこと。思ったこと。
マギーはその見出しを見て、少しだけ首を傾げた。
「これは」
「王家の方に聞かれる前の練習です」
ルーカスが言った。
「見たことと、聞いたことと、思ったことは、混ざりやすいので」
サミュエルがうなずいた。
「特に、追い詰められている時はな」
「はい。だから先に分けておきます。マギー嬢が悪いという意味ではありません。誰でも混ざってしまうものです」
ルーカスは一枚をマギーの前へ置く。ただし、近すぎない場所に。
「たとえば、ロズリー嬢の喪服の袖口。これはマギー嬢が見たことです。袖が長く、手を出す時に布を押さえていた」
「はい」
「そこから、既製の喪服を急いで直したのではないか、というのは私たちの推測です」
「思ったこと、ですね」
「そうです。そして仕立屋の帳簿に、事故前日の既製喪服の直しがあった。これは聞いたこと、または記録で確認したことです」
ルーカスはペンで三つの欄を軽く叩いた。
「ここを分けると、聞かれた時に答えやすい」
マギーは紙を見た。
自分の記憶が、整えられている。けれど、勝手に作り替えられてはいない。
それがわかった。
「私が言った言葉、そのままなのですね」
「はい。変えると、あとで困ります」
「きれいに書き直さないのですか」
「しません」
ルーカスはすぐに答えた。
「きれいな文章より、元の言い方が大事な時があります。特に証言は」
マギーはペンの先を見る。
ルーカスの指には、さっき落ちなかったインクが少し残っていた。爪の横に黒い点がある。彼は気にしていないようだった。
貴族の若い男なら、たぶん気にする。少なくとも、マギーの知っている家ではそうだ。
「ルーカス様は、間違えないようにするのが得意なのですね」
「よく間違えるからです」
意外な返事だった。
「そうなのですか」
「はい。数字も、人の話も。だから、間違えない仕組みに頼るのです」
「仕組み」
「紙を分ける。日付を書く。誰が言ったかを残す。食卓に書類を置かない」
最後だけ少し声が軽くなった。サミュエルが横から言う。
「最後はお前の母上の仕組みだ」
「家族の知恵も仕組みですよ」
マギーは紙へ視線を戻した。
見たこと。聞いたこと。思ったこと。
その三つに分けられるなら、王家の人に聞かれても少しは話せるかもしれない。
「では、私が嫌だったことは、どこに入りますか」
訊いてから、少し不安になった。
けれどルーカスは、迷わず別の紙を出した。
「ここです」
見出しには、短くこう書いてあった。
――嫌だったこと。
マギーは黙った。
ルーカスはその紙を、他の紙と同じように置いている。特別に隠すでもなく、飾るでもない。
「これも分けておきます。見たことや聞いたことと同じではありません。でも、必要です」
「必要」
「はい。なぜ家を出たのかを説明する時に、ここを抜くと話が変になります」
サミュエルが言った。
「お前が勝手に出ていった話に戻されるということだ」
「それは困ります」
マギーは小さく言った。
「では、困らないようにしましょう」
ルーカスはペンを取った。
「昨日の続きです。居間の椅子がロズリー嬢の場所になっていったこと。青い布がロズリー嬢のドレスになったこと。小箱の鍵。ブローチ。ほかに、思い出したことはありますか」
マギーはしばらく考えた。
「香水瓶」
「はい」
「母の小さな香水瓶が、一度なくなりました。お義母様が、別の引き出しにあったわ、と持ってきました。でも、私は小箱に入れていたはずでした」
ルーカスが書く。
「中身は残っていましたか」
「少し減っていたような気がします。でも、古いものなので、揮発したのだと思っていました」
「瓶の形は?」
「銀の、小さなものです。蓋に花の模様が」
ルーカスのペンが止まった。
「伯爵の手紙に、亡き奥様の部屋の箱の中身が少し書かれていました。銀の小さな香水瓶があったと」
マギーは顔を上げた。
「同じものかもしれません」
「確認しましょう。まだ決めません」
「はい」
この、まだ決めない、という言葉を、マギーは少し好きになってきていた。
決めつけられない。でも、流されもしない。
宙ぶらりんで怖い時もある。けれど、誰かの都合のよい話に押し込まれるよりは、ずっと息ができる。
ルーカスは次の行へ移る。
「ほかには」
「手紙です」
「誰からの?」
「母の姉、伯母様からの古い手紙です。母が亡くなった後に、私へくださったものです。何度か読み返していたのに、ある日なくなって。後で、母の部屋の整理箱に入っていました」
「それは、誰が戻しましたか」
「お義母様です。亡き母のものと混ざっていたから、と」
サミュエルが少しだけ眉を寄せた。
「伯母上の手紙か」
「はい」
「内容は」
「困ったことがあれば、いつでも手紙を寄越しなさい、と」
サミュエルは短く息を吐いた。
「それを持っていかれたのか」
「たぶん、偶然だと思っていました」
今言うと、偶然とは思えない。だが、マギーはそうは言わなかった。
ルーカスが紙に書き足す。
「伯母様の名は」
「エレノア・ホルムです」
「では、その手紙も確認した方がいいですね。今も亡き奥様の部屋の箱に?」
「たぶん」
「伯爵に確認を頼みましょう」
「そんなことまで」
「はい」
ルーカスは当然のように答えた。
「外へ助けを求める線が、どこかで細くされていたかもしれないので」
マギーはそこで、ペン先の動きを見つめた。
――困ったことがあれば、いつでも手紙を寄越しなさい。
あの手紙を読み返していた頃、まだ自分は家を出るつもりなどなかった。ただ、読むと少し落ち着いた。
伯母は遠くにいる。けれど、どこかに自分を気にしてくれる人がいる。
それがなくなった時、仕方ないと思った。……思わされた。
「……そういうことも、あるのですね」
「まだ、あると決まったわけではありません」
ルーカスは言った。
「でも、確認する価値はあります」
マギーはうなずいた。
「はい」
そこへ、ヘインズ夫人が入ってきた。
盆の上には、小さなカップが三つと、細長い焼き菓子が乗っている。
「午前の休憩」
「母上、今は」
「今だからよ」
ルーカスは口を閉じた。
ヘインズ夫人はマギーの前にカップを置いた。
「温かいミルクです。お茶ばかりでは胃が疲れるでしょう」
「ありがとうございます」
「焼き菓子は一本だけ。これは甘いけれど、軽いわ」
マギーは受け取った。ルーカスの前にも同じものが置かれる。
サミュエルの前には、なぜか二本置かれた。
「私は二本ですか」
「朝から顔が険しいから」
「焼き菓子で直るものですか」
「試してみましょう」
ルーカスが下を向いて笑いをこらえる。
マギーも、カップを持ったまま少し笑った。サミュエルは一本を取って、黙って食べた。
「どう?」
ヘインズ夫人が訊く。
「おいしいです」
「顔は?」
「自分ではわかりません」
「なら、もう一本」
サミュエルは少し困った顔で二本目を見た。
ルーカスが小さく言う。
「兄上としての責務ですよ」
「お前は黙っていろ」
そのやり取りで、マギーは焼き菓子をかじった。
軽くてほろほろ崩れる。ミルクを飲むと、口の中でちょうどよく溶けた。
ヘインズ夫人はそれを見て、何も言わずに盆を持って出ていった。
ルーカスは、マギーが食べ終えるまでペンを置いていた。
――急かさない。
そのことに、マギーはふと気づいた。
サミュエルは話を止める。必要なら、強く止める。ヘインズ夫人は食べ物で止める。ルーカスは、ペンを止める。
自分の言葉を待つ人。しかも、待っている間に勝手な答えを作らない人。
マギーはカップを置いた。
「続けられます」
「はい」
ルーカスはペンを取った。
「では、伯母様の手紙のところから」
言い方が、ちょうどよかった。
何でもないように続く。だからマギーも、続けられた。




