32 おやすみなさい
食後、サミュエルとルーカスは応接室へ移った。
マギーも行くと言ったが、サミュエルに、眠くなったら途中で抜けること、と先に言われた。
「はい」
「返事はいい。抜ける時に言えばいい」
「はい」
「だから返事は」
「兄様、もう遅いです」
ルーカスが横から言う。サミュエルは少しむっとした顔をしたが、言い返さなかった。
応接室の卓には、伯爵からの手紙、洗礼記録の写し、これまでの書付が並べられた。ヘインズ氏も同席している。
夫人は茶を置くと、今日は同席しないわ、と言った。
「台所で明日の仕込みをしています。呼べば来ます」
「母上も聞いていた方が」
ルーカスが言うと、夫人は首を横に振った。
「今日は、マギー嬢が座る場所を一つ空けておいた方がいいの」
そう言って出ていった。マギーは少し遅れて、その意味に気づく。
この部屋にいる大人が増えすぎないようにしてくれたのだ。
マギーは椅子に座る。
卓の上の書類は見える。けれど、近すぎない。
「父上の動きは正しい」
サミュエルが言った。
「遅いが」
「そこはもう何度も言っていますね」
ルーカスが書付を揃える。
「王家へ出したなら、こちらも聞かれる準備をしておくべきです。マギー嬢の証言、ヘインズ家が集めた喪服と馬車の記録、教会の写し。順番に整理します」
「王家の人が、ここへ来るのでしょうか」
マギーが訊くと、ヘインズ氏が答えた。
「来るかもしれない。あるいは、呼び出されるかもしれない」
「私も?」
「おそらく」
ヘインズ氏はすぐに言った。
「ただし、いきなり一人で行かせることはしない。サミュエル様が付き添う。必要なら、うちからも誰か行く」
「商家の方が、貴族の調査に?」
「記録を出した家だからな」
ヘインズ氏は当然のように答えた。
「それに、喪服の仕立屋も馬車職人も、うちの使いが聞いている。説明は必要だろう」
ルーカスが父を見る。
「父上、私が行きます」
「そうだな。お前が一番話を追っている」
その場で決まった。
マギーはルーカスを見た。
「ルーカス様まで」
「私も関わっていますから」
「でも」
「それに、商売人の息子がいると、帳簿の話が早いです」
軽く言われる。けれど、マギーにはわかった。
ひとりで行かなくていい、と言われているのだ。
「ありがとうございます」
「礼は、王家の人に怒られず帰ってからでいいです」
「怒られるのですか」
「何かは怒られるでしょう。役所の人は、書式が少し違うだけでも怒ります」
ヘインズ氏が咳払いした。
「全部がそうではない」
「父上は、商業許可の更新で三度怒られました」
「それは相手の書式が悪かった」
「そういうところです」
サミュエルが手紙を見ながら言う。
「話がそれている」
「少しはそれた方が、息ができます」
ルーカスが返した。
マギーは、そのやり取りを聞きながら、茶を一口飲む。薄い。夜だから、夫人が薄くしたのだろう。
「マギー」
サミュエルが呼んだ。
「はい」
「王家の人に聞かれた時、お前は自分が見たことだけを言えばいい」
「はい」
「推測はしなくていい。ロズリー嬢が何を考えていたか、オードリー様が何を考えていたか、それはお前が答えることではない」
「はい」
「ただし、お前が嫌だったことは言っていい」
マギーは茶碗を持ったまま、少し止まった。
「それも、必要ですか」
「必要だ」
サミュエルは言った。
「この件は馬車事故だけではない。ロズリー嬢がどういう形でバーレイ家に入り、その後どう扱われたかも関係する。お前の部屋、鍵、小箱、ブローチ、青い布。その話は全部必要だ」
「私の嫌だったことも」
「ああ」
「でも、王家の方には、そんな小さなことは」
「小さくないです」
ルーカスが横から言った。
「小箱を開けられたことは、鍵の問題です。ブローチは所有物の問題です。布は、誰のために何が動かされたかの問題です。椅子だって、生活の場所がどう移ったかを見る材料になります」
「椅子も」
「はい。椅子も」
ルーカスは真面目にうなずいた。
「人は椅子に座りますから」
マギーは、少しだけ笑った。
「それはそうですね」
「ええ。大事です」
サミュエルは少し呆れたようにルーカスを見たが、止めなかった。
ヘインズ氏が卓の上の地図を指で押さえた。
「こちらは、事故の道筋をもう少し詰める。王家へ出すなら、部品の現物を押さえた方がいい。鍛冶屋へ人をやるだけではなく、買い取ってこちらで保管する」
「証拠の買い取りは問題になりませんか」
サミュエルが言う。
「隠さなければいい。先に王家へ届け出て、保管のために預かった形にする。あるいは、王家の者に同行してもらう」
「その方がいいですね」
ルーカスが書き留めた。
「割りピン、留め金。馬車職人の証言。鍛冶屋の保管。厩係の話。暴れた馬のこと」
「馬も忘れない方がいい」
ヘインズ氏が言った。
「馬が暴れたせいで馬車小屋が空いた。偶然ならいいが、そこに誰かがいたなら確認する」
マギーは話を聞いていた。
話は難しくなっていく。けれど、屋敷で聞いていた時のように、言葉に押し潰される感じは少なかった。
誰が何をしたか。どこを確認するか。わからないところは、わからないまま置く。
それだけで、怖さが少し形になる。
形があるものは、触らずに置いておける。
「眠そうだ」
サミュエルが言った。
「まだ大丈夫です」
「今の返事は、大丈夫ではない時の返事だ」
「兄様」
「部屋へ行きなさい」
言い方は命令に近かった。けれど、昨日より少しだけやわらかい。
「では、あと少しだけ」
「だめだ」
「兄様」
「寝ろ」
ルーカスが笑いをこらえた。
「サミュエル、急に短くなりましたね」
「言い方を増やす余裕がない」
「そこは正直でよろしい」
マギーは席を立った。
「では、休みます」
「ああ。明日の朝、続きを話す」
「はい」
ルーカスが扉まで送ってくれた。
廊下に出ると、食堂の方から皿を片付ける音がする。台所にはまだ明かりがあり、ヘインズ夫人の声が聞こえた。誰かに、林檎は明日の朝に回して、と言っている。
生活が続いている。それが、不思議なくらいありがたかった。
「マギー嬢」
階段の下で、ルーカスが小さく呼んだ。
「はい」
「ブローチは、戻りますよ」
マギーは振り返った。
「はい」
「ただ、戻ってきた時に、すぐには見られないかもしれません」
ルーカスは少し言葉を選んだ。
「嫌なことも一緒に戻ってくるので」
マギーはしばらく黙っていた。それから、うなずいた。
「たぶん、そうです」
「その時は、箱のまま置いておけばいいです。開けるのは、開けられる日で」
「ルーカス様は、そういうことをよく思いつきますね」
「商会では、開けるのに気合のいる請求書が来ますので」
マギーは思わず笑った。声は小さかったが、ちゃんと笑えた。
「それは、とても嫌ですね」
「ええ。箱ごと棚に置きたくなります」
「でも、いつか開けるのですね」
「開けないと利子がつきます」
今度は、少し長く笑えた。
ルーカスも笑った。その後、すぐ真面目な顔に戻る。
「おやすみなさい、マギー嬢」
「おやすみなさい」
部屋へ戻ると、鍵をかけた。かちり、と音がする。
最初の夜ほど、膝の力は抜けなかった。
マギーは机の上に置かれていた水を一口飲み、窓の外を見た。王都の灯りが少し見える。
父の手紙の一文を思い出す。
――必ず返す。
それが本当に果たされるかは、まだわからない。
けれど、初めて誰かが、マギーに返すと言った。貸してやれでも、譲れでも、分けてやれでもなく。返す、と。
マギーは寝台に座り、靴を脱いだ。
今日は、昨日より少し早く眠れそうだった。




