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母の形見を奪われたので、家を出ます~奪った庶子は、義母の娘でした  作者: さんけい


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31/58

31 「私が、とても嫌な人間のように見えます」

 ロズリーは、署名を求められると最初にウィリアムのことを訊いた。


「ウィリアム様は、どちらに」

「自室だ」


 伯爵が答える。


「会えますか」

「会わせない」

「なぜ」

「先ほど言った通りだ。君の答えを、誰かの言葉で変えさせないためだ」


 ロズリーは紙を見た。そこには、彼女が答えたことが並んでいる。

 オードリーが母親だと知っていたこと。ミルナーに外出しないよう言われたこと。

 外出できないほど具合が悪かったわけではないこと。

 青い布がマギーのものだと知っていたこと。ブローチを外すと自分が悪いことをしたようになると思ったこと。

 マギーは多くのものを持っていると思っていたこと。

 ロズリーは、その行で指を止めた。


「これは」

「君が言った」

「でも、このままでは」

「このままでは?」


 ロズリーは口を閉じた。

 伯爵は待った。


「《《私が、とても嫌な人間のように見えます》》」


 小さな声だった。

 伯爵はすぐには答えなかった。


「それでも、君が言ったことだ」

「……はい」

「直すなら、どこをどう直すか言いなさい。ただし、事実と違うようには直さない」


 ロズリーは紙を見ていた。長く見ていた。

 やがて、首を横に振る。


「直しません」

「では署名を」


 ペンを持つ手は、少し震えた。

 ロズリー、とだけ書かれる。家名はない。

 子爵家の名を書くのか、男爵家を書くのか、自分でもわからなかったのかもしれない。

 伯爵はそこには触れなかった。


「部屋へ戻りなさい」

「ウィリアム様には」

「会わせない」

「お手紙も?」

「今は認めない」


 ロズリーは唇を噛む。それから礼をして、部屋へ戻った。

 扉が閉まる前に、伯爵は室内を見た。

 刺繍箱は机の上にある。蓋は閉じられている。白いハンカチも畳まれている。どれも、何事もなかったように置かれていた。

 だからこそ、扉が閉まるまで目を離せなかった。


 *


 サミュエル宛の手紙を書き終えたのは、夕方だった。

 伯爵は読み返した。


 ――洗礼記録の写しを受け取った。

 ――オードリーは、ロズリーが実子であることを認めた。

 ――また、ミルナーに子爵家の馬車を止めるよう頼んだことを認めた。

 ――殺意は否定している。

 ――ロズリーは、ミルナーに外出しないよう言われたことを認めたが、馬車への細工は知らないと答えている。

 ――双方の発言は記録し、署名を取った。

 ――王家へ正式に届ける。

 ――マギーはまだ戻さない。

 ――戻すべきではない。


 そこでペンを止める。最後に、別の一文を加えた。


 ――マギーへ。真珠のブローチは私が預かった。必ず返す。


 封をする。

 今度の手紙は、モリスが選んだ信頼できる騎手に持たせた。途中で大学の使いに渡すのではなく、サミュエル本人へ届けるよう命じる。

 王家への届けも別に用意された。こちらには、言葉を飾らなかった。


 ――子爵家の事故に関する新証言。

 ――馬車への細工の可能性。

 ――関係者ミルナーの捜索願い。

 ――洗礼記録の写し。

 ――オードリー・バーレイの発言記録。

 ――ロズリーの発言記録。


 伯爵は最後に自分の署名をした。


 ――エドガー・バーレイ。


 その名を書く時、手が少し重かったが、乱れはしなかった。


「出せ」


 モリスが深く頭を下げる。封書が運ばれていく。

 扉が閉まったあと、伯爵はしばらく机の前に立っていた。

 この屋敷の中だけで収める道は、もう閉じた。

 ようやく。あまりに遅く。

 それでも、そうすることはできた。



 *


 伯爵からの手紙が届いたのは、夕食の少し前だった。

 王都の空は、もう暗くなりかけていた。ヘインズ家の食堂では、夫人がスープの鍋を火から下ろしているところだった。肉と豆の匂いがして、マギーは皿を並べる手伝いをしていた。

 そこへ、玄関の呼び鈴が鳴った。

 ルーカスが出ていき、少しして戻ってきた。手には封書がある。封蝋はバーレイ家のものだった。


「サミュエル宛です」


 食堂の空気が、そこで少し変わった。サミュエルは椅子から立ち上がる。


「父上からか」

「そのようです。騎手が、直接渡すようにと」


 マギーは手にしていた匙を卓へ置く。音を立てないようにしたつもりだったが、銀が木に触れて小さく鳴った。

 ヘインズ夫人がすぐに言った。


「先に手を拭きなさい。封書は逃げません」


 誰に向けたのか曖昧な言い方だった。けれどサミュエルは従った。手を拭き、封を確かめてから切る。

 中には数枚の便箋が入っていた。サミュエルは最初の一枚を読み、途中で一度だけ目を止めた。

 それから最後まで読む。

 ルーカスは横に立ったまま待っていた。ヘインズ氏も、食堂の入口で腕を組んでいる。夫人は鍋の蓋を戻し、火を弱めた。


「兄様」


 マギーは呼んだ。サミュエルは返事の前に、もう一度便箋を見た。


「父上は、王家へ届けることにした」


 マギーは息を吸った。


「王家へ」

「ああ。オードリー様の発言と、ロズリー嬢の発言を記録して、署名を取った。ミルナーへ馬車を止めるよう頼んだことを、オードリー様は認めた」


 マギーは卓の縁に手を置いた。手が冷たく感じる。


「殺すつもりではなかった、とも書いてある」


 サミュエルは続けた。その言葉を聞いて、ヘインズ氏が低く息を吐いた。


「出たか」


 ルーカスが父の方を見た。


「父上」

「いや、すまん。続けてくれ」


 サミュエルは便箋をもう一枚めくった。


「ロズリー嬢は、ミルナーに外出しないよう言われたことを認めた。けれど、馬車への細工は知らないと答えている。オードリー様が母親であることは、この家に来てから知った、と」

「それは、ロズリー嬢がそう言ったということですね」


 ルーカスが確認する。


「そうだ。父上の判断ではない。記録された発言だ」

「では、そこはまだ確認が必要ですね」

「ああ」


 サミュエルは短く答える。マギーは椅子に座った。

 膝の上で手を重ねる。指先がうまく合わない。


 ――王家へ届ける。


 それは、もう伯爵家の中だけの話ではなくなるということだった。義母と父が話し合えば済む話でも、ウィリアム兄様がロズリーを庇えば済む話でもない。

 子爵家の事故。喪服。馬車。ミルナー。ロズリーの母親。

 全部が、外へ出る。


「マギー」


 サミュエルが声をかけた。


「はい」

「父上から、お前宛ての一文がある」

「私に?」


 サミュエルは便箋の最後を見た。読み上げる前に、少しだけ声を落とす。


「真珠のブローチは私が預かった。必ず返す」


 マギーは返事をしなかった。いや、できなかった。

 あのブローチ。母の胸元にあったもの。幼い頃、指で触れたもの。いつか貴女にあげるわ、と言われたもの。ロズリーの胸に留められていたもの。

 父が預かった。


 ――必ず返す。


 それだけの文だった。けれど、マギーはその行を自分で見たくなった。


「読んでもいいですか」


 サミュエルは便箋を渡す。マギーは両手で受け取った。

 父の字は、少し硬かった。急いで書いたのではない。むしろ、考えながら一文字ずつ置いたように見えた。


 ――マギーへ。真珠のブローチは私が預かった。必ず返す。


 その行をもう一度、じっくり読む。手紙を持つ指の力が少し抜ける気がした。


「お父様が」


 声に出してみる。


「はい」


 サミュエルが答えた。


「父上が預かった」

「そうですか」


 マギーは便箋を返した。

 ヘインズ夫人が、温め直したスープを皿によそい始めた。


「では、食べましょう」


 誰もすぐには返事をしなかったが、夫人は構わず皿を置いていく。


「大きな話をする時ほど、温かいうちに食べるものです。冷めたら、また温め直しになるでしょう」

「母上」


 ルーカスが少し笑った。


「正しいが、今言いますか」

「今言うのよ。皆、放っておくと紙ばかり見るから」


 サミュエルは便箋を畳み、封筒へ戻さなかった。食卓の端へ置く。スープから遠い場所だ。

 マギーの前にも皿が置かれた。湯気を立てる豆と肉のスープ。薄く切ったパン。少なめの塩漬け野菜。

 食べられないかと思った。けれど、一口入れると、思ったより飲み込めた。豆は柔らかく、肉は細かくほぐれている。塩気がちょうどよかった。

 ヘインズ夫人は何も言わなかった。それが助かった。


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