31 「私が、とても嫌な人間のように見えます」
ロズリーは、署名を求められると最初にウィリアムのことを訊いた。
「ウィリアム様は、どちらに」
「自室だ」
伯爵が答える。
「会えますか」
「会わせない」
「なぜ」
「先ほど言った通りだ。君の答えを、誰かの言葉で変えさせないためだ」
ロズリーは紙を見た。そこには、彼女が答えたことが並んでいる。
オードリーが母親だと知っていたこと。ミルナーに外出しないよう言われたこと。
外出できないほど具合が悪かったわけではないこと。
青い布がマギーのものだと知っていたこと。ブローチを外すと自分が悪いことをしたようになると思ったこと。
マギーは多くのものを持っていると思っていたこと。
ロズリーは、その行で指を止めた。
「これは」
「君が言った」
「でも、このままでは」
「このままでは?」
ロズリーは口を閉じた。
伯爵は待った。
「《《私が、とても嫌な人間のように見えます》》」
小さな声だった。
伯爵はすぐには答えなかった。
「それでも、君が言ったことだ」
「……はい」
「直すなら、どこをどう直すか言いなさい。ただし、事実と違うようには直さない」
ロズリーは紙を見ていた。長く見ていた。
やがて、首を横に振る。
「直しません」
「では署名を」
ペンを持つ手は、少し震えた。
ロズリー、とだけ書かれる。家名はない。
子爵家の名を書くのか、男爵家を書くのか、自分でもわからなかったのかもしれない。
伯爵はそこには触れなかった。
「部屋へ戻りなさい」
「ウィリアム様には」
「会わせない」
「お手紙も?」
「今は認めない」
ロズリーは唇を噛む。それから礼をして、部屋へ戻った。
扉が閉まる前に、伯爵は室内を見た。
刺繍箱は机の上にある。蓋は閉じられている。白いハンカチも畳まれている。どれも、何事もなかったように置かれていた。
だからこそ、扉が閉まるまで目を離せなかった。
*
サミュエル宛の手紙を書き終えたのは、夕方だった。
伯爵は読み返した。
――洗礼記録の写しを受け取った。
――オードリーは、ロズリーが実子であることを認めた。
――また、ミルナーに子爵家の馬車を止めるよう頼んだことを認めた。
――殺意は否定している。
――ロズリーは、ミルナーに外出しないよう言われたことを認めたが、馬車への細工は知らないと答えている。
――双方の発言は記録し、署名を取った。
――王家へ正式に届ける。
――マギーはまだ戻さない。
――戻すべきではない。
そこでペンを止める。最後に、別の一文を加えた。
――マギーへ。真珠のブローチは私が預かった。必ず返す。
封をする。
今度の手紙は、モリスが選んだ信頼できる騎手に持たせた。途中で大学の使いに渡すのではなく、サミュエル本人へ届けるよう命じる。
王家への届けも別に用意された。こちらには、言葉を飾らなかった。
――子爵家の事故に関する新証言。
――馬車への細工の可能性。
――関係者ミルナーの捜索願い。
――洗礼記録の写し。
――オードリー・バーレイの発言記録。
――ロズリーの発言記録。
伯爵は最後に自分の署名をした。
――エドガー・バーレイ。
その名を書く時、手が少し重かったが、乱れはしなかった。
「出せ」
モリスが深く頭を下げる。封書が運ばれていく。
扉が閉まったあと、伯爵はしばらく机の前に立っていた。
この屋敷の中だけで収める道は、もう閉じた。
ようやく。あまりに遅く。
それでも、そうすることはできた。
*
伯爵からの手紙が届いたのは、夕食の少し前だった。
王都の空は、もう暗くなりかけていた。ヘインズ家の食堂では、夫人がスープの鍋を火から下ろしているところだった。肉と豆の匂いがして、マギーは皿を並べる手伝いをしていた。
そこへ、玄関の呼び鈴が鳴った。
ルーカスが出ていき、少しして戻ってきた。手には封書がある。封蝋はバーレイ家のものだった。
「サミュエル宛です」
食堂の空気が、そこで少し変わった。サミュエルは椅子から立ち上がる。
「父上からか」
「そのようです。騎手が、直接渡すようにと」
マギーは手にしていた匙を卓へ置く。音を立てないようにしたつもりだったが、銀が木に触れて小さく鳴った。
ヘインズ夫人がすぐに言った。
「先に手を拭きなさい。封書は逃げません」
誰に向けたのか曖昧な言い方だった。けれどサミュエルは従った。手を拭き、封を確かめてから切る。
中には数枚の便箋が入っていた。サミュエルは最初の一枚を読み、途中で一度だけ目を止めた。
それから最後まで読む。
ルーカスは横に立ったまま待っていた。ヘインズ氏も、食堂の入口で腕を組んでいる。夫人は鍋の蓋を戻し、火を弱めた。
「兄様」
マギーは呼んだ。サミュエルは返事の前に、もう一度便箋を見た。
「父上は、王家へ届けることにした」
マギーは息を吸った。
「王家へ」
「ああ。オードリー様の発言と、ロズリー嬢の発言を記録して、署名を取った。ミルナーへ馬車を止めるよう頼んだことを、オードリー様は認めた」
マギーは卓の縁に手を置いた。手が冷たく感じる。
「殺すつもりではなかった、とも書いてある」
サミュエルは続けた。その言葉を聞いて、ヘインズ氏が低く息を吐いた。
「出たか」
ルーカスが父の方を見た。
「父上」
「いや、すまん。続けてくれ」
サミュエルは便箋をもう一枚めくった。
「ロズリー嬢は、ミルナーに外出しないよう言われたことを認めた。けれど、馬車への細工は知らないと答えている。オードリー様が母親であることは、この家に来てから知った、と」
「それは、ロズリー嬢がそう言ったということですね」
ルーカスが確認する。
「そうだ。父上の判断ではない。記録された発言だ」
「では、そこはまだ確認が必要ですね」
「ああ」
サミュエルは短く答える。マギーは椅子に座った。
膝の上で手を重ねる。指先がうまく合わない。
――王家へ届ける。
それは、もう伯爵家の中だけの話ではなくなるということだった。義母と父が話し合えば済む話でも、ウィリアム兄様がロズリーを庇えば済む話でもない。
子爵家の事故。喪服。馬車。ミルナー。ロズリーの母親。
全部が、外へ出る。
「マギー」
サミュエルが声をかけた。
「はい」
「父上から、お前宛ての一文がある」
「私に?」
サミュエルは便箋の最後を見た。読み上げる前に、少しだけ声を落とす。
「真珠のブローチは私が預かった。必ず返す」
マギーは返事をしなかった。いや、できなかった。
あのブローチ。母の胸元にあったもの。幼い頃、指で触れたもの。いつか貴女にあげるわ、と言われたもの。ロズリーの胸に留められていたもの。
父が預かった。
――必ず返す。
それだけの文だった。けれど、マギーはその行を自分で見たくなった。
「読んでもいいですか」
サミュエルは便箋を渡す。マギーは両手で受け取った。
父の字は、少し硬かった。急いで書いたのではない。むしろ、考えながら一文字ずつ置いたように見えた。
――マギーへ。真珠のブローチは私が預かった。必ず返す。
その行をもう一度、じっくり読む。手紙を持つ指の力が少し抜ける気がした。
「お父様が」
声に出してみる。
「はい」
サミュエルが答えた。
「父上が預かった」
「そうですか」
マギーは便箋を返した。
ヘインズ夫人が、温め直したスープを皿によそい始めた。
「では、食べましょう」
誰もすぐには返事をしなかったが、夫人は構わず皿を置いていく。
「大きな話をする時ほど、温かいうちに食べるものです。冷めたら、また温め直しになるでしょう」
「母上」
ルーカスが少し笑った。
「正しいが、今言いますか」
「今言うのよ。皆、放っておくと紙ばかり見るから」
サミュエルは便箋を畳み、封筒へ戻さなかった。食卓の端へ置く。スープから遠い場所だ。
マギーの前にも皿が置かれた。湯気を立てる豆と肉のスープ。薄く切ったパン。少なめの塩漬け野菜。
食べられないかと思った。けれど、一口入れると、思ったより飲み込めた。豆は柔らかく、肉は細かくほぐれている。塩気がちょうどよかった。
ヘインズ夫人は何も言わなかった。それが助かった。




