30 王家に任せる決断
ロズリーが出ていったあと、ウィリアムはしばらく椅子から動かなかった。
伯爵も、すぐには声を出さなかった。
モリスの前には、書き取った紙が何枚か重なっている。オードリーの答え。ロズリーの答え。途中で返答が止まった箇所には、返答なし、と記されていた。
紙の上では、声は震えない。泣いたことも、黙ったことも、言いよどんだことも、ただ短い言葉になる。
それが今はありがたかった。
「モリス」
「はい」
「オードリーの発言をまとめたものを清書しなさい。ロズリーの分も別に。私が確認する」
「かしこまりました」
「本人たちに署名を求める。拒むなら、拒否と書く」
ウィリアムが顔を上げた。
「父上。そこまでするのですか」
「する」
「ロズリーは、子爵家の事故については知らなかったと言いました」
「だから記録する」
「ではなぜ」
「知らなかったと、本人が言った記録になる」
ウィリアムは口を閉じた。
伯爵は机の引き出しを開けた。中には、洗礼記録の写しと、真珠のブローチの入った小箱がある。どちらも今は、軽いものではなかった。
「オードリーは馬車を止めるようミルナーに頼んだと認めた。殺すつもりではなかったとも言った。だが、馬車は壊れ、三人が死んだ」
「……はい」
「ロズリーは、外出しないようミルナーに言われたと認めた。馬車を止める話は知らなかったと言った。けれど、事故の後にミルナーの言葉を思い出し、オードリーへ話したとも言った」
ウィリアムの手が膝の上で動いた。もう庇う言葉は出てこない。
だが、納得した顔でもなかった。
「これを、この家だけで扱うことはできない」
「父上」
「子爵家三人が死んでいる。爵位は王家預かりだ。そこへ、私の妻と、その娘が関わっているかもしれない」
伯爵は、そこで初めてはっきり言った。
「これは、私の家の恥では済まない」
モリスのペンが止まった。ウィリアムも動かなかった。
「王家へ届ける。子爵家の件を扱う部署にもだ。サミュエルにも知らせる。ミルナーを見つけ次第、こちらで隠さず引き渡す」
「引き渡す」
ウィリアムが繰り返した。
「オードリー様も、ですか」
「必要なら」
「ロズリーも?」
「ロズリーは、まず保護下で事情を聞かれることになるだろう」
「修道院へ、などという話では」
「まだ決める段階ではない」
伯爵は言った。
「決めるのは私ではない」
ウィリアムは唇を噛んだ。
今までなら、ここで何かを言っただろう。ロズリーは悪くない。オードリー様には事情がある。マギーにも悪いところがあったのではないか。
だが、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「お前にも命じる」
伯爵はウィリアムを見た。
「今日から、私の許可なくロズリーに会うな。オードリーにもだ」
「それは、私を疑って」
「疑っている」
短く言った。ウィリアムの顔が固まった。
「お前は昨日、言うなと言ったことをロズリーに言った。今日も、止めたのにロズリーの部屋へ行こうとした。お前は彼女を庇うつもりで、言葉を与えてしまう」
「言葉を――」
「ああ。ロズリーが知らなかったことまで、お前が先に伝えてしまう。そうすれば、ロズリーの答えはロズリー自身のものか、お前に合わせたものか、わからなくなる」
ウィリアムはうつむいた。
「私は、守りたかっただけです」
「誰を」
ウィリアムはすぐには答えない。伯爵は待った。
「……ロズリーを」
「ではマギーは?」
また、答えが止まる。伯爵はその沈黙を、今度は見逃さなかった。
「その答えがすぐ出ないうちは、お前をロズリーには近づけない」
ウィリアムは顔を上げた。傷ついたような目だった。
だが、その傷を今なだめるわけにはいかなかった。
「部屋へ戻りなさい。扉の前に人を置く。お前を閉じ込めるためではない。お前がまた動かないようにだ」
「同じことではありませんか」
「ほとんど同じだ」
伯爵は言った。
「だが、今はそうするのが最善だと私は思う」
ウィリアムはしばらく父を見ていた。それから、ゆっくり立ち上がる。
「承知しました」
礼はした。きちんと。けれど、顔は上げなかった。
扉が開き、従僕がウィリアムを伴って出ていく。足音が遠ざかるまで、伯爵は動かなかった。
モリスだけが、静かに紙を揃えている。
「モリス」
「はい」
「私は、ずいぶん遅かったんだな」
モリスは紙から目を上げなかった。
「旦那様」
「慰めはいらない」
「では、申し上げません」
短い返事だった。伯爵は少しだけ笑いそうになった。だが、笑えなかった。
「続けよう」
「はい」
モリスは新しい紙を出した。伯爵は立ったまま指示を出す。
「王都へ二通。ひとつはサミュエルへ。洗礼記録の写しを受け取ったこと。オードリーがロズリーの母であると認めたこと。馬車を止めるようミルナーへ頼んだと認めたこと。ロズリーの聴取を終えたこと」
「はい」
「もうひとつは、王家の担当へ。子爵家の事故に関し、新たな証言と証拠があるため、正式な調査を願うと」
「担当の名は」
「王家預かりの通知を出した部署へ。写しを添える。先方が違うと言うなら、適切なところへ回すだろう」
「かしこまりました」
「ミルナーの捜索は、外の者にも頼む。だが、捕らえたならこちらへ連れてこず、王家側へ渡す。私兵で処理したと思われたくない」
「はい」
「オードリーとロズリーの部屋には、女中を一人ずつつける。だが会話は必要最低限。手紙、刺繍箱、裁縫箱、薬箱、すべて出入りを確認する」
「奥様の持ち物も」
「すべてだ」
言ってから、伯爵は少しだけ目を伏せた。
妻の部屋を、妻の持ち物を、監視させる。
それをする日が来るとは思わなかった。だが、もう思わなかったでは済まない。
「マギーの部屋と亡き妻の部屋は引き続き閉じる。鍵は私が持つ」
「はい」
「ブローチも私が預かる。マギーへ返すまで、誰にも触れさせない」
モリスが書き留める。その音だけが、書斎に続いた。
*
オードリーの部屋へ署名を求めに行ったのは、伯爵とモリスだった。
廊下には従僕が立っている。扉を叩くと、少しして中から返事があった。
「どうぞ」
オードリーは窓辺に座っていた。
机の上には何も出ていない。手紙も、裁縫箱も、鍵もない。先ほどまでと同じ菫色の室内着のままだった。
伯爵は、モリスに紙を差し出させた。
「君の発言をまとめた。確認して、署名しなさい」
オードリーは紙を受け取った。
読み始め、途中で止まることはしない。最後まで目を通し、机の上に置いた。
「一部、言葉が強いように思います」
「どこだ」
「馬車を止めるよう命じた、という箇所です。私は、ミルナーに頼みました」
「では、頼んだ、と直す」
伯爵はモリスへ目で示した。モリスがその場で修正する。
「ほかは」
「殺すつもりではなかった、という私の言葉は」
「入っている」
「その前に、ロズリーを取り戻したかった、も」
「入っている」
「なら、署名します」
オードリーはペンを取る。名前を書く手は、乱れなかった。
――オードリー・バーレイ。
その名を見て、伯爵は洗礼記録の別の名を思い出した。
――オードリー・ラングレー。
同じ女の、二つの名。オードリーはペンを置いた。
「ロズリーは?」
「別に聞いた」
「そうですか」
「君とは会わせない」
「……母親だから、ですね」
「ああ」
オードリーは少しだけうなずいた。
「ロズリーは、弱い子です」
「そうかもしれない」
「どうか、あの子には」
「それは、私が決めることではない」
伯爵は言った。
「すでに王家へ届ける準備をしている」
オードリーの手が、机の上で止まった。ほんの少し。
「王家へ……」
「ああ」
「あなたは、私を差し出すのですね」
「隠すわけにはいかない」
「妻でも?」
「妻だから隠せば、私は伯爵ではいられない」
オードリーは何も言わなかった。伯爵も、それ以上は言わなかった。
夫婦の話をするには、あまりに遅かった。
部屋を出ると、廊下の空気が冷たかった。




