3 マギーは疲れてしまった
「ロズリーは可哀想だから」
「お前は伯爵家の娘だから」
「少し譲れば済むことだ」
「悪気はないんだよ」
何度も聞いているうちに、マギーは自分の言葉を疑うようになった。
これは嫌だと思う自分が間違っているのか。
母のブローチを返してほしいと思うのは、心が狭いのか。
窓辺の椅子に座りたいだけなのに、それも譲れないほど自分は冷たいのか。
そう考えるたび、マギーは口を閉じた。閉じるしかなかった。
けれど今日、ブローチを見た時にわかった。
――これ以上は無理だ。
あの真珠をロズリーの胸に見つけた瞬間、マギーは怒るより先に、ひどく疲れてしまった。
返して、と言った声も、思ったより小さかった。それなのに、皆はいつも通りにマギーを悪者にした。
そして、ロズリーはブローチを外さなかった。
それだけで十分だった。
マギーは鞄の留め具をもう一度押さえた。
手紙は封をした。宛名はサミュエル。王都の大学寮へ。
出発前に駅の窓口から急ぎで出せば、もしかしたらマギーより先に届くかもしれない。届かなくても、王都へ行けばどうにかなる。
サミュエルは次兄だった。
ウィリアムとは違う。少なくとも、マギーの話を途中で遮る人ではなかった。
昔から、本を読んでいる時だけは返事が遅かったけれど、聞いていないわけではない。むしろ、あとになって正確に返してくる。
王都の大学へ入ってからは、長期休暇の時くらいしか帰ってこない。
そのせいで、ロズリーが来てからの家をほとんど知らない。だから、父やウィリアムのようにロズリーへ肩入れしていないかもしれない。
……《《かもしれない》》、ばかりだ。
それでも今は、その《《かもしれない》》に縋るしかなかった。
マギーは机の引き出しから、小さな巾着を取り出した。中には少しの硬貨と、母の古い指輪が入っている。
売るつもりはない。けれど、どうしても困った時には使える。
迷って、結局それも鞄に入れた。
廊下の向こうから、メイドの足音が近づいてきた。マギーはすぐに鞄を寝台の陰へ押し込み、机の上に本を開く。
扉が軽く叩かれた。
「マギーお嬢様。奥様からです。今日のお茶会には、ロズリー様のお支度を手伝っていただきたいとのことで」
ほら、まただ。
マギーは開いた本の文字を見た。読めない。けれど、顔を上げるまでの数秒で、返事の形だけは作れた。
「わかりました。すぐ行きます」
「はい」
足音が遠ざかる。マギーは本を閉じた。
ロズリーのお支度。
そこには、マギーのブローチがある。マギーの布で作ったドレスがある。マギーの居間で選ばれた茶菓子が出される。そこにマギーもいて、笑っていなければならない。
――無理だ。
――もう、本当に無理だ。
マギーは立ち上がり、寝台の陰から鞄を取り出した。重くはない。あまりに軽くて、これだけで家を出られるのかと、逆に不安になるくらいだった。
けれどこの家は出る。出なくてはならない。
そして、今日でなくてはならない。
お茶会が始まれば、屋敷の者は表へ回る。玄関は客人で混むが、裏手の通用口はかえって手薄になる。庭師は午後には温室の方へ行く。御者は客の馬車の対応で忙しい。
そういうことなら、よく知っている。マギーはこの家の娘だから。
……少なくとも、まだ。
鞄を持ち、部屋を出る前に一度だけ振り返った。
部屋の中は何も変わっていない。机、本棚、寝台、壁に掛けた小さな刺繍。戻ってきた時にも同じままかもしれないし、そうでないかもしれない。
けれど、ここに残っていたら、きっと自分の方が変わってしまう。
父の声を聞くだけで嫌になる。ウィリアムの足音だけで腹が立つ。オードリーの穏やかな声に耐えられなくなる。ロズリーが笑うたびに、何かを投げつけたくなる。
そんな自分になりたくない。
マギーは扉を閉めた。
鍵はかけなかった。どうせ、この家では鍵をかけても誰かが開ける。だからそのまま歩き出す。
階段を下りると、遠くからロズリーの笑い声が聞こえた。
細く、控えめで、よく通る声だった。




