2 やってきたロズリー
ロズリーがこの家に来たのは、春の終わりだった。
その日は雨で、玄関広間の床に濡れた靴跡がいくつもついていた。馬車寄せから入ってきた父は、外套の肩を払うのも忘れたように、ひどく沈んだ顔をしていた。
「子爵家で事故があった」
それが、最初に聞いた言葉だった。
*
子爵夫妻と、その嫡子が亡くなった。馬車の事故だったという。
残されたのは、子爵家に引き取られていた庶子の娘だけ。
けれど、その娘に家を継がせることはできず、爵位はひとまず王家預かりになった。だから、本家筋に近い伯爵家で面倒を見る。
父はそう説明した。
マギーはその時、素直に気の毒だと思った。
父もウィリアムも、同じだったはずだ。オードリーはいつもより口数が少なく、ただロズリーのために部屋を用意しましょう、と言った。
あの時の声は穏やかで、少し沈んでいて、マギーは後妻なりの優しさなのだと思った。
その頃のロズリーは、確かに何も持っていない娘に見えた。
質のよい喪服を着ていたが、袖口は少し合っていなかった。手袋も古く、髪飾りもない。玄関広間に立ったまま、ロズリーは何度も頭を下げた。
「ご迷惑をおかけいたします」
その声は細かった。
そして父は、その一言でほとんど決まったような顔をした。
「ここを自分の家だと思いなさい」
ロズリーは目元を押さえた。父はそれを見て、さらに困ったように眉を寄せた。ウィリアムはその横で、気丈な子だ、とつぶやいた。
マギーも、そうなのだろうと思った。
だから最初は、できるだけ親切にした。
廊下のどこを通れば食堂に近いか。庭はどこまでなら一人で歩いていいか。朝の茶は誰に頼めばいいか。
そういう小さなことを教えた。
ロズリーはそのたびに、ありがとうございます、マギー様、と言った。
けれど、いつからだったのだろう。ロズリーは、マギーに聞かなくなった。
その代わり、オードリーに尋ねるようになった。父に相談するようになった。ウィリアムに困った顔を向けるようになった。
すると、物事はだいたいロズリーに都合よく変わった。
たとえば、午後の居間。
そこは、マギーが母の頃から使っていた場所だった。窓辺の椅子は座面が少し低く、刺繍をするにも本を読むにも具合がよかった。
ところがロズリーが来てしばらくすると、オードリーが言った。
「ロズリーはまだ人の多い場所に慣れていないの。しばらく、貴女の居間を一緒に使わせてあげて」
もちろん、しばらくなら構わなかった。
しかし、ロズリーはそこで刺繍を始め、手紙を書き、ウィリアムが持ってきた菓子を食べるようになった。
気づけば、マギーの本は棚の端へ寄せられ、ロズリーの刺繍箱が窓辺に置かれていた。
「マギー様は読書がお好きですものね。私は少し、明るい場所でないと針目が見えにくくて」
そう言われると、マギーは本を持って自室へ戻るしかなかった。
また、ある時はドレスだった。
仕立屋が来る日に、ロズリーは遠慮していると言った。私はまだ喪中ですし、新しいものなど、と何度も言った。
すると父は、そんな時だからこそ必要だ、と言い、ウィリアムは若い娘がいつまでも黒い服ばかりでは可哀想だと言った。
オードリーは少し考え込んでから、ではマギーの布地を一反回しましょう、と言った。
「貴女には、まだ他にもあるでしょう?」
あった。
けれど、その布はマギーが母の肖像と同じ色だから選んだものだった。淡い青に、銀の糸が入っている。仕立てるなら、来月の伯母の茶会に着ようと思っていた。
しかしロズリーは、まあ、と息を呑んだ。
「こんな綺麗な布、私にはもったいないです」
――もったいない。
そう言いながら、布から手は離れなかった。
結局、その布はロズリーのドレスになった。マギーが伯母の茶会に着ていったのは、昨年仕立てた白いドレスだった。
悪いものではない。けれど、袖の流行は少し古かった。
伯母はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。ただ帰り際に、何かあったら手紙を寄越しなさい、とだけ言った。
その時に出せばよかったのかもしれない。
けれど、マギーは出さなかった。
家のことを外に訴えるほどではないと思っていた。いや、思おうとしていた。
ブローチを取られたわけではない。本を捨てられたわけでもない。部屋を追い出されたわけでもない。
ただ、少しずつ何かがずれていく。少しずつ、ロズリーの場所が増えていく。
その分、マギーのものが減っていく。
……そして誰も、それを減ったとは言わなかった。




