28 「殺すつもりではありませんでした」
「馬車を止めるために、何をさせた」
「車輪が途中で外れるように」
声は、かすかに低くなった。
「道の悪い場所で馬車が動けなくなれば、予定は潰れます。ロズリーを連れていく話も、いったん流れるはずでした」
「車輪が外れれば、人が怪我をするとは思わなかったのか」
「だから、坂の前で止まるようにと」
「実際には、坂で外れた」
「……そこまでは」
「橋の手前だ」
伯爵の声が、自分でも少し荒くなった。
「雨の後の道で、坂を下り、橋の手前で車輪が外れた。馬車は横転し、三人が死んだ」
オードリーは膝の上の指を見ていた。
「殺すつもりではありませんでした」
とうとう、その言葉が出た。
伯爵は立ち上がった。椅子が後ろで鈍い音を立てる。
「殺すつもりではなかった?」
「はい」
「では、怪我ならよかったのか」
「そういう意味では」
「馬車を壊し、外出を妨げ、人を脅かす。けれど死なせるつもりではなかったから、そこまでは罪ではないと?」
「罪ではないとは言っていません」
「なら何だ」
オードリーは顔を上げた。目元は赤くなっていない。涙もない。
「私は、ロズリーを取り戻したかったのです」
伯爵は机に手をついた。
「そのために、ほかの家族を壊したのか」
「子爵家は、私から先に奪いました」
「それを、マギーに言えるか」
オードリーの口が止まった。
「マギーに言えるかと訊いている。君が子爵家を恨むのはわかる。ロズリーを取り戻したかったのもわかる。だがその後、君は私の家へその娘を入れた。マギーの椅子を、布を、母の形見を、少しずつロズリーへ渡した」
「私は」
「《《分け合えばいい》》と思っていた、だったな」
伯爵は遮った。
オードリーは黙った。
「君の娘を救うために、私の娘が差し出される。君はそれを《《分け合う》》と言った」
「マギーを傷つけるつもりはありませんでした」
「その言葉はもういい」
伯爵は短く言った。
「つもりがなければ、傷はなかったことになるのか」
オードリーは返事をしなかった。
扉の外から、足音が近づく。モリスだ。
伯爵は入れ、と言った。扉が開く。
モリスの後ろにはウィリアムはいない。
「ウィリアムは」
「お部屋に。扉の前に人を置きました」
「ロズリーは」
「お部屋にいらっしゃいます。こちらも扉の前に」
「よろしい」
伯爵は机の上の帳面を閉じた。
「モリス。これから言うことを記録しろ」
モリスは一度だけオードリーを見、書斎の端にある小机へ向かった。紙とペンを用意する。
オードリーは動かなかった。
「旦那様」
モリスがペンを取る。
「始めてください」
伯爵はオードリーを見た。
「ミルナーに命じた内容を、もう一度言いなさい」
オードリーはゆっくり息を吸った。
「馬車を止めるように、と」
「どの馬車か」
「子爵夫妻と嫡男が乗る馬車です」
「ロズリーは乗らないようにした」
「はい」
「誰がロズリーへ伝えた」
「ミルナーです」
「喪服は誰が用意させた」
オードリーの返事は、少し遅れた。
「私です」
モリスのペンが紙をこする音だけがした。
「なぜ事故の前日に用意した」
「万が一のために」
「万が一とは」
「……子爵家で騒ぎになった時に、ロズリーが困らないよう」
「死ぬとは思っていなかったのに、喪服を用意した」
オードリーは黙る。
「続けろ、モリス。返答なし、と」
モリスが書く。その音で、オードリーの手がわずかに動いた。
「では、質問を変える。馬車が壊れた後、子爵夫妻と嫡男が亡くなったと知った時、君はどうした」
「ミルナーから知らせを受けました」
「いつ」
「事故の翌朝です」
「その時点で、ロズリーをこの家へ入れる手配を始めたのか」
「いいえ。子爵家から正式な知らせが来るのを待ちました」
「その前に、当家へ預ける話を誰かへ通していたか」
「ミルナーに、子爵家の家令へ話をつなぐように」
「文書の草案は」
オードリーは答えなかった。
伯爵はモリスへ目を向ける。
「返答なし」
ペンが動く。オードリーはそこで、初めて少しだけ目を閉じた。が、すぐに開けた。
「文面の一部は、私が考えました」
「亡き子爵家と縁のあるバーレイ家」
「はい」
「その縁とは、君か」
「はい」
「つまり、ロズリーの実母である君がこの家にいることを指していた」
「はい」
伯爵は息を吐いた。
――縁のあるバーレイ家。
何と都合のよい言葉だったのか。血縁ではない。だが無関係でもない。
読み手には、子爵家とバーレイ家の遠い親戚関係に見える。実際には、伯爵夫人がロズリーの実母だった。
伯爵は書斎の窓へ目をやった。外はもう暮れ始めている。庭の木が黒く見える。
「ロズリーは、子爵家の事故が仕組まれたものだと知っているか」
「知りません」
今度も早かった。
「本当に」
「知りません」
「では、ミルナーが喪服を用意したことは」
「知りません」
「馬車を止める話は」
「知りません」
「君が実母であることは知っている」
「はい」
「マギーの物をロズリーへ与えていたことは、どう説明した」
「説明はしていません。必要ありませんでした」
「ロズリーは尋ねなかったのか」
「『奥様がくださったもの』だと思っていたでしょう」
伯爵はその言い方に引っかかった。
――奥様がくださったもの。
ロズリーから見れば、伯爵家の女主人が与えたものだ。たとえそれがマギーのものでも、オードリーが渡せば正当に見える。
「ロズリーは、ブローチがマギーの母の形見だと知っていたか」
「マギーが言ったので」
「それまでは」
「知らなかったと思います」
「思います?」
「私からは言っていません」
伯爵は、そこも記録させた。どこまでも娘を庇う言い方だ。
だが、ロズリーが何を知っていたかは、まだロズリーに聞くしかない。
その時、廊下が少し騒がしくなった。声は抑えられている。だが、誰かが急いでいる。
伯爵が扉を見ると、従僕が軽く叩いた。
「旦那様」
「何だ」
「ウィリアム様が、ロズリー様のお部屋へ向かわれました。モリス様の代わりに立っていた者が止めております」
伯爵は思わず目を伏せそうになる――が、そうはしなかった。
「連れてこい」
「ウィリアム様を、でございますか」
「そうだ」
従僕が下がる。伯爵はオードリーを見た。
「君はここにいなさい」
「はい」
「ロズリーへは、まだ会わせない」
「……はい」
少しだけ返事が遅れた。伯爵はそれに気付く。
そして、自分が今までどれほど多くの遅れや間を聞き逃してきたかを、もう一度思い知った。
やがて扉が開き、ウィリアムが入ってきた。
顔は赤く、目はまっすぐオードリーへ向いている。従僕二人が後ろに控えていた。
「父上」
「命令を破ったな」
「ロズリーに確認する必要があります」
「誰が決めた」
「私です」
「お前にその権限はない」
ウィリアムは息を吸う。だが、伯爵は先に言った。
「ロズリーを守りたいなら、黙っていろ」
その言葉に、ウィリアムが止まった。
「……どういう意味ですか」
「今、お前がロズリーに会えば、ロズリーが何を知っていたか、何を知らなかったか、すべて混ざってしまう。お前は庇うつもりで言葉を与える。そうすれば、ロズリー自身の答えが見えなくなる」
「私はそんな!」
「お前はそれを、昨日やった」
ウィリアムは黙る。伯爵は続けた。
「喪服と日付とミルナーのことを、お前はロズリーに漏らした」
「それは」
「今度は何を言うつもりだった?」
ウィリアムは答えられなかった。
答えがないのではない。自分でも、何を言うつもりだったか決めていなかったのだろう。
伯爵は椅子を指した。
「座れ」
「父上」
「座れ! 聞きたければ、ここで聞け。ただし口を挟むな」
ウィリアムはオードリーを見た。
オードリーは黙っている。そこに縋るような言葉はない。ウィリアムを止める言葉も、庇う言葉もない。
それが、ウィリアムにはさらに堪えたようだった。
彼は椅子に座った。伯爵はモリスへ向いた。
「記録を続けろ」
モリスがうなずく。伯爵はオードリーへ戻った。
「次にロズリーへ確認する。君が母親だと知った時期。事故について知っていること。ミルナーとの関わり。マギーの物について」
「はい」
「君は同席してはならない」
オードリーの手が止まった。
「なぜです」
「母親だからだ」
短く返した。
「ロズリーが君の前で、本当のことを言えるかどうかわからない」
「ロズリーは私の娘です」
「だからだ」
オードリーは初めて、返事をしなかった。
ウィリアムが椅子の上で身じろぎした。だが、口は開かなかった。
伯爵は机の引き出しに手を置く。中には、真珠のブローチと洗礼記録の写しが入っている。
その二つを、今は自分が預かっている。
――遅すぎる。
だが、これ以上遅らせるわけにはいかなかった。




