26 「ロズリーは、君の娘なのか」
オードリーは、モリスを伴って戻ってきた。手には薄い帳面が一冊ある。
「こちらです」
伯爵は受け取り、開く。
亡き妻の部屋の品が、日付ごとに記されていた。衣装箱。布。手紙束。刺繍道具。小物。どれをどこへ移したか。処分したもの、保管したもの、マギーへ渡す予定のもの。
字は整っている。整いすぎているくらいだった。
「マギーへ渡す予定のもの」
伯爵はその欄を指した。
「まだ渡していないのか」
「ええ。マギーが落ち着いた時にと思って」
「いつから、この欄に置いている」
「整理を始めた頃からです」
「ロズリーが来てからか」
オードリーは答える前に、一度帳面を見た。
「その少し後です」
「なぜその時に」
「ロズリーが来たことで、屋敷の部屋の使い方を少し見直す必要がありました。亡き奥様のお部屋も、いつまでも閉じたままでは湿気がこもります」
説明は自然だった。自然すぎて、伯爵は帳面の頁を一枚めくった。
そこに、小さく書かれている品名で手が止まる。
――真珠のブローチ。
保管先は、マギーへ渡す予定の箱。日付は、ロズリーが来た翌月。
「これは、すでにマギーのものではなかったのか」
「形見分けの時に、マギーへ渡すと《《決めていた》》ものです」
「決めていた?」
「ええ。まだ正式には」
伯爵は顔を上げた。
「マギーは、《《母からもらった》》と言っていた」
「幼い頃のお約束でしょう」
「だから、正式ではないと?」
オードリーは少しだけ息を吸った。
「あなた。私は、家の中の品をきちんと整理したかっただけです。誰のものかわからないままでは、あとで困りますから」
「では、あのブローチは誰のものだった」
「亡き奥様のものです」
「今は」
「形見としては、マギーに」
「ではなぜロズリーにつけた」
オードリーは口を閉じた。伯爵は続ける。
「マギーの小箱に入っていたものを」
「マギーの小箱に?」
オードリーの声は、少しだけ低くなった。
「私は、亡き奥様の部屋に保管していた箱から出しました」
伯爵はすぐに帳面へ視線を戻した。
真珠のブローチ。保管先、マギーへ渡す予定の箱。
マギーは、自分の小箱に入れていたと言った。オードリーは、亡き妻の部屋に保管していた箱から出したと言う。
どちらかが違う。あるいは、どこかで移された。
「その箱はどこだ」
「亡き奥様のお部屋です」
「今、持ってこさせる」
「旦那様のご許可なく開けないのでは?」
「私が許可する」
伯爵はモリスを見た。
「亡き妻の部屋から、マギーへ渡す予定の箱を持ってこい。君が行け。誰も中身に触れるな」
「かしこまりました」
モリスが下がる。
オードリーは帳面へ視線を落としていた。伯爵はその横顔を見ないようにした。
見ると、またいつもの穏やかな妻に戻してしまいそうだったからだ。
しばらくして、モリスが箱を持って戻った。古い木箱だった。鍵はかかっていない。
伯爵が開ける。中には、いくつかの小物が並んでいた。
刺繍のリボン。古い扇。銀の小さな香水瓶。手紙束。
だが、真珠のブローチはない。
伯爵は中身を一つずつ見た。ない。
「ブローチは」
オードリーが言った。
「茶会のあと、別の小箱へ」
「誰の」
「ロズリーの部屋に」
伯爵は、しばらく何も言わなかった。
マギーは王都で話していた。ロズリーは、マギーのブローチを外し、新しい小箱へ入れたと。
その話と合う。合ってしまう。
「モリス」
「はい」
「ロズリーの部屋から、その小箱を持ってこい。ロズリーには、私が確認すると言いなさい」
「かしこまりました」
モリスが出ていく。オードリーは動かなかった。
伯爵は帳面を閉じた。
「オードリー」
「はい」
「ロズリーは、君の娘なのか」
言ってから、部屋の音が消えたように感じた。
オードリーは伯爵を見た。すぐには答えない。
廊下の遠くで、誰かの足音がした。モリスではない。もっと軽い。おそらくメイドだ。
オードリーの手が、膝の上で重なった。
「《《どこで、それを》》」
「答えなさい」
声は思ったより静かだった。オードリーは目を伏せなかった。
「はい」
短い返事だった。
「ロズリーは、私の娘です」
そこまで言って、オードリーはようやく視線を少し下げた。
「あなたに、申し上げられませんでした」
オードリーの声は、乱れていなかった。
伯爵は机の端を握ったまま、しばらく何も言えなかった。
言えなかった、というより、言葉を選ばなければならなかった。
――ここで夫の顔をすれば、負ける。
そう思った。
目の前にいるのは妻だ。後妻としてこの家に入り、亡き妻の後の屋敷を整え、父を、ウィリアムを、マギーを、それぞれの形で支えてきた女だ。
だが今は、それだけではない。
バーレイ伯爵家に、自分の娘を身分を隠して入れた女でもある。
「いつからだ」
ようやく出た声は、思ったより低かった。
「ロズリーが、君の娘だと知っていたのは」
「最初からです」
オードリーは答えた。伯爵は机から手を離した。
「つまり、ロズリーを当家で預かる話が来た時には」
「はい」
「君は知っていた」
「はい」
短い返事ばかりだった。言い訳をしない。泣かない。取り乱さない。
だから余計に、伯爵は息を整えなければならなかった。
「なぜ言わなかった」
オードリーは膝の上で指を重ねた。
「申し上げられませんでした」
「その言葉は、先ほど聞いた」
「はい」
「理由を訊いている」
オードリーは少しだけ目を伏せた。
「私が、あの子を産んだ時のことを、あなたに知られたくありませんでした」
伯爵は黙った。そこは、重い。
オードリーは男爵家の娘だった。裕福ではないが、家柄は悪くない。伯爵家へ後妻として入った時、彼女の過去については、必要な範囲で調べた。
だが、すべてではなかった。未婚の時に子を産んでいたなど、聞いていない。
「相手は、子爵か」
「はい」
「合意だったのか」
オードリーの指が、膝の上で少し動いた。それだけだった。
「……いいえ」
伯爵は目を閉じなかった。
――閉じるな。ここで同情だけに流れれば、また見誤る。
「子爵家は、君の子を引き取った」
「男爵家に置いておけなかったのです」
「そして、ロズリーは子爵家の庶子として育った」
「はい」
「君は会っていたのか」
「何度か」
伯爵は机の上の帳面を見た。
ラングレー男爵家への支払い。長く、名目を変えて続いていた金。
そこへロズリーがいる。
「君は、ロズリーがこの家に来るように動いたのか」
オードリーはすぐには答えなかった。
その間に、扉の外で足音がした。モリスだ。伯爵は返事を待った。
オードリーは、扉の方を見なかった。
「はい」
伯爵の手が、机の上で止まった。
「なぜだ」
「あの子には、行く場所がありませんでした」
「ほかの縁戚は」
「誰も、本気で引き受ける気はありませんでした」
「それを確認したのか」
「そうなることは、わかっていました」
「確認したのか、と訊いている」
オードリーは口を閉じ、今度は答えなかった。
伯爵は鈴を鳴らした。
扉が開き、モリスが入ってくる。手には小さな箱があった。新しい箱だ。白木に薄い花模様が彫られている。
「ロズリー様のお部屋より、お預かりしてまいりました」
「ロズリーは何と」
「旦那様が確認されるのであれば、と。ご自身ではお持ちにならず、メイドに渡されました」
「そうか」
伯爵は箱を受け取った。
軽い。蓋を開ける。中には、真珠のブローチがあった。
亡き妻のもの。マギーが母からもらったと言っていたもの。
昨日、ロズリーの胸に留められていたもの。
伯爵はそれを取り上げなかった。箱の中にあるまま見た。
「オードリー」
「はい」
「これは誰のものだ」
オードリーは箱の中を見た。
「亡き奥様のものです」
「今は」
「マギーへ渡すべきものです」
「では、なぜロズリーの箱に入っている」
「茶会のあとにしまわせました。マギーが戻ったら、返すつもりで」
「マギーはその後、返してほしいと言った」
「ロズリーの初めての茶会でした」
伯爵は、そこで初めてオードリーをまっすぐ見た。
「だからか」
オードリーは答えなかった。
「マギーの母の形見より、ロズリーの茶会が大事だったのか」
「そうではありません」
「では何だ」
「私は、ロズリーを少しでも落ち着かせたかっただけです」
「マギーは?」
オードリーの指が、膝の上で重なった。
「マギーには、ほかにも」
「やめなさい」
伯爵の声が少し荒くなった。モリスが、扉近くでわずかに姿勢を正す。
オードリーは続きを言わなかった。
「その言葉を、私は何度も聞いた。マギーにも、何度も聞かせた。マギーにはほかにもある。マギーは伯爵家の娘だ。マギーは母の思い出がある。だから譲れる」
伯爵は箱の蓋を閉じた。
「その結果、娘は家を出た」
「……マギーには、きちんと話します」
「いつ」
「戻ってきたら」
「戻らない」
オードリーが初めて、少しだけ顔を上げた。
「戻りませんか」
「今のままではな」
「……あなた」
「マギーの部屋と、亡き妻の部屋は閉じる。ブローチは私が預かる」
「それは」
「私が預かる」
伯爵は箱を机の引き出しへ入れ、鍵をかける。
その音を、オードリーは黙って聞いていた。
「ロズリーが君の娘であることを、ロズリー本人は知っているのか」
伯爵は訊いた。オードリーは答える前に、一度だけ息を吸った。
「知っています」
「いつから」
「この家に来てからです」
「誰が話した」
「私が」
「いつ」
「来て、しばらくしてから」
「なぜ」
「隠しきれないと思いました」
「何を」
「私が、あの子を気にかけすぎることを」
伯爵はその答えを聞き、机の上の鍵台帳へ視線を落とした。
たしかに、見えていた。
オードリーがロズリーを見る時だけ、目元が少しやわらぐこと。ロズリーが遠慮するたび、オードリーが先回りすること。父も見ていた。ウィリアムも見ていた。マギーも見ていた。
ただ、誰もそれを母親の目だとは思わなかった。
思わなかったのではない。思いつこうとしなかった。
「ウィリアムとの婚姻を考えていたのか」
オードリーはすぐには答えなかった。




