25 手紙を受け取った伯爵
サミュエルからの手紙は、昼前に届いた。
届けたのは大学の使いだった。ヘインズ商会の者が途中まで付き添っていたらしく、使いは玄関先でモリスへ封書を渡すと、返事を待つと言った。
「旦那様へ、直接お渡しするようにとのことです」
モリスは封を見た。
宛名はバーレイ伯爵。サミュエルの字だ。外封は普通の挨拶状に見える。だが、封蝋が二重になっていた。
「お待ちください」
モリスは使いを控え室へ通させ、自分で書斎へ向かった。
伯爵は鍵台帳を開いたままだった。
昨夜から、何度も同じ場所を見ている。亡き妻の部屋。マギーの部屋。オードリーの管理箱。予備鍵。台帳の字は、見るほどにただの字ではなくなっていく。
そこへモリスが封書を差し出した。
「サミュエル様より。大学の使いが返事を待っております」
「大学の?」
「はい。ヘインズ商会の者が途中まで付き添っていたと」
伯爵は封を受け取った。
その時点で、軽い知らせではないとわかった。
「ウィリアムは」
「お部屋に。先ほど従僕が確認しております」
「ロズリーは」
「お部屋にいらっしゃいます。奥様は午前のお手紙をお書きになっているとのことです」
「そうか」
伯爵は封を切った。
外側の手紙には、短い挨拶と、昨日の礼が書かれていた。中身はそれだけではない。二重に折られた紙の奥に、もう一通、薄い写しが入っている。
伯爵は先にサミュエルの文を読んだ。
――父上。
――ロズリー嬢の洗礼記録を確認しました。
――母親の名は、オードリー・ラングレー。
――同封の写しをご確認ください。
――この件は、父上お一人で扱ってください。
――兄上には、まだ見せないでください。
――屋敷内で不用意に名が出れば、証拠が動く恐れがあります。
伯爵はその行で止まった。
――オードリー・ラングレー。
嫁ぐ前の、オードリーの名。
手紙を置き、同封の写しを広げる。教会の印がある。洗礼記録。子の名。父の名。母の名。
――ロズリー。
――父は子爵家の男。
――母は、オードリー・ラングレー。
伯爵はしばらく紙を見ていた。
文字は逃げない。読み間違いでもない。薄い紙の上に、きちんと書かれている。
オードリーの娘。ロズリーは、オードリーの娘だった。
伯爵は椅子に座った。
座ったつもりだったが、少し遅れて椅子の背に当たった。手に持った写しがかすかに鳴る。
「旦那様」
モリスが一歩近づいた。
「大丈夫だ」
そう答えた声は、自分でもあまり大丈夫には聞こえなかった。
伯爵はもう一度、写しを読んだ。
あの春の雨の日。玄関広間に立っていたロズリー。その少し後ろにいたオードリー。
母を亡くした娘は心細いでしょう、と言った声。
《《母を亡くした》》。
伯爵は、写しを机に置いた。
「モリス」
「はい」
「ラングレー男爵家と、子爵家の間の支払い記録を探せるか」
「当家に残っているものでは、難しいかと」
「では、出入りの商人、布屋、薬種商、誰でもいい。ラングレー家へ長く出入りしている者を探せ」
「かしこまりました」
「それから、ミルナーという男について」
モリスの顔が少し動いた。
「ミルナーでございますか」
「知っているのか」
「昔、ラングレー男爵家から使いで来ていた者です。右頬に傷のある、痩せた男でございました」
伯爵は机の端を押さえた。
「今、どこにいる」
「存じません。数年前にラングレー家を離れたと聞いております。ただ、完全に縁が切れていたかどうかまでは」
「探せ」
「はい」
「ただし、表立って探すな。オードリーにも、ロズリーにも、ウィリアムにも聞こえないように」
「かしこまりました」
モリスは深く頭を下げる。伯爵は写しを畳まずに見た。
「モリス。この名を見てくれ」
家令は机の横へ来て、伯爵が指した行を読む。
長い沈黙はなかった。ただ、モリスの手が一度だけ袖口へ触れた。
「……奥様の、嫁がれる前のお名です」
「ああ」
「ロズリー様は」
「オードリーの娘らしい」
声にすると、さらに重くなった。
伯爵は椅子に背を預ける。
「――私は知らなかった」
モリスは答えなかった。
知らなかったのですね、とも、そうでございましょうとも言わない。
それがかえって、伯爵には堪えた。
「ウィリアムには見せるな」
「はい」
「この写しは、私の手元に置く。サミュエルへは受け取ったとだけ返す」
「すぐにご用意いたします」
「いや、私が書く」
伯爵は便箋を取り、ペンを持つ。だが、最初の一文で止まった。
受け取った。確認した。
どう書けばいい。
オードリーの娘だとわかった、と書くわけにはいかない。そんなことは、サミュエルも知っている。今必要なのは、屋敷の中でどう動くかだ。
伯爵は短く書いた。
――受け取った。
――写しは私が預かる。
――ウィリアムには見せない。
――ミルナーを探す。
――屋敷内の鍵と書類は引き続き私が確認する。
そこで一度止まる。
それから、もう一行足した。
――マギーには、食事を取るよう伝えてくれ。
書いてから、しばらくその行を見た。
変な一文だ。
だが、消さなかった。
「これを大学の使いへ」
「はい」
モリスが封を受け取る。
出ていく前に、伯爵は呼び止めた。
「それから、オードリーを呼んでくれ」
モリスは一瞬だけ顔を上げた。
「よろしいので?」
「喪服のことも、洗礼記録のことも言わない。亡き妻の部屋のことだけだ」
「かしこまりました」
モリスが下がる。
伯爵は写しを鍵のかかる引き出しへ入れ、鍵をかける。
その音が、部屋に小さく響いた。
*
オードリーは、すぐにやって来た。
淡い菫色の室内着だった。飾りは少ない。いつものように、きちんとしている。扉の前で一礼し、伯爵が座るように示すまで立っていた。
「お呼びでしょうか」
「ああ」
伯爵は机の上に、鍵台帳を置いたままにしていた。写しはない。サミュエルの手紙もない。
「亡き妻の部屋を、しばらく閉じる」
オードリーは台帳を見、それから伯爵を見る。
「モリスから聞きました。マギーの部屋も、と」
「ああ」
「理由を伺っても?」
「マギーが、自分のものを勝手に動かされたと訴えている」
オードリーは少し黙った。指先が膝の上で重なる。
「そうですか」
「小箱に入れていたはずのものが、別の場所から出てきたとも言っている」
「マギーは、少し思い込みの強いところがあります」
伯爵は返事をしなかった。
その言葉を、昨日までならそのまま受け取っていたかもしれない。
「そうかもしれない」
伯爵は言った。
「だから確認する」
「確認」
「ああ。思い込みかどうかを」
オードリーは一度、視線を伏せた。
「もちろんです。必要なものがあれば、お出しします」
「亡き妻の部屋を整理した記録を出してくれ」
今度は、少しだけ間が空いた。
「記録、ですか」
「モリスは、君が控えているはずだと言っていた」
「ええ。簡単なものですが」
「それでいい」
「今すぐに?」
「今すぐに」
オードリーはうなずいた。
「わかりました。部屋に戻って持ってまいります」
「一人で行かなくていい。モリスをつける」
オードリーの手が、膝の上で止まった。ほんの少しだった。
「私が何か隠すと?」
「記録を確実に持ってきてもらうためだ」
伯爵は同じ調子で返す。
オードリーは伯爵を見た。長くはない。すぐに、静かに頭を下げた。
「承知しました」
扉の外で待っていたモリスを呼び、オードリーは部屋を出る。
伯爵は二人の足音が遠ざかるのを聞いた。
すぐに従僕を呼ぶ。
「ウィリアムは」
「お部屋に。先ほどから出ておられません」
「ロズリーは」
「眠っておいでと、扉越しに」
「扉越しに?」
「はい。お声はありました」
「そのまま見ていろ」
「はい」
従僕が下がる。
伯爵は机の上の鍵台帳を閉じた。
オードリーは何も乱す様子はない。言葉も、声も、手順も。
だからこそ、伯爵の中で、別のものが少しずつ積もりつつあった。




