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母の形見を奪われたので、家を出ます~奪った庶子は、義母の娘でした  作者: さんけい


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24/58

24 交差する手紙

 王都では、その夜になっても、洗礼記録の写しが食堂の卓に置かれていた。


 もちろん、食事の時にはいったん脇へ寄せた。ヘインズ夫人が、肉の煮込みの皿と同じ卓にそんなものを置くものではありません、と言ったからだ。

 けれど食後、茶器が片付けられると、写しはまた戻ってきた。


 ――オードリー・ラングレー。


 マギーはその名を、もう何度読んだかわからない。

 嫁ぐ前のお義母様の名。ロズリーの母親の名。

 同じ紙の上で、それはひとつになっていた。


「写しは二部取らせた方がいいですね」


 ルーカスが言った。


「一部はサミュエルが持つ。もう一部はヘインズ家で預かる。原本は教会にあるので、いざとなれば照合できます」

「教会は、もう一度見せてくれるでしょうか」


 マギーが訊くと、ルーカスは少し考えた。


「正面から行けば渋るかもしれません。けれど、こちらには正式な写しがあります。これを否定するなら、教会側が説明しなければならない」

「教会を脅すな」


 サミュエルが言う。


「脅しません。手続きを踏むだけです」

「お前の手続きは、時々脅しに似ている」

「商売ではよくあることです」


 サミュエルは返事をせず、写しをもう一度手に取った。

 その横で、ヘインズ氏が地図を畳んでいる。馬車事故の場所に赤い印がついたものだ。畳み目が赤い印にかからないよう、少しずらして折っていた。


「バーレイ伯爵には知らせるべきだな」


 ヘインズ氏が言った。


「はい」


 サミュエルはすぐに答えた。


「ただ、文面を選びます」

「ウィリアム様の目に入るとまずい?」

「かなり」


 サミュエルは短く言った。

 マギーは手元の茶碗を見た。中身はもう薄い。何度も差し湯されたせいで、色だけが残っている。


「ウィリアム兄様は、またロズリーに言うでしょうか」

「言うかもしれない」


 サミュエルは否定しなかった。


「兄上は、自分が守るべき相手だと思った者には、情報を渡す。安心させるためだと考える」

「それで相手が動くとは、思わないのですね」

「たぶん、そこまで見ようとしない」


 ルーカスが、封筒を三つ出した。


「では、伯爵個人宛に。外封には通常の挨拶文を入れ、中に写しの写しを。もう一通は、届いたことの確認用に空の返書を入れておきましょう。署名だけで返せるように」

「用意がいいな」

「うちは商会ですから。返事をもらえない相手には、返しやすい形で渡すのが早い」


 ヘインズ夫人が、そこで小さな皿をマギーの前に置いた。

 薄く切ったチーズと、焼いたパンの端だった。


「夕食は食べたけれど、考え事をするとまたお腹が空くでしょう」

「そこまででは」

「見てからでいいのよ」


 マギーは皿を見た。確かに、見てしまった。

 パンの端は固そうだったが、香ばしい匂いがした。チーズは少し塩気が強いものらしい。さっきの薄い茶より、こちらの方が今は合いそうだった。

 一切れ取る。固い。

 けれど噛んでいると、だんだん甘みが出てきた。


「よろしい」


 ヘインズ夫人はそう言って、自分も椅子に座った。

 褒められるほどのことだろうかと思ったが、マギーは何も言わなかった。

 食べられるなら、食べた方がいい。この家に来てから、何度もそう思う。

 サミュエルは便箋へ向かった。


 ――父上。

 ――ロズリー嬢の洗礼記録を確認しました。

 ――母親の名は、オードリー・ラングレー。

 ――同封の写しをご確認ください。

 ――この件は、父上お一人で扱ってください。

 ――兄上には、まだ見せないでください。


 そこまで書いて、サミュエルはペンを止めた。


「強すぎるか」


 ルーカスが横から覗く。


「いいえ。むしろ足りないくらいです」

「これ以上書いたら、命令になる」

「なら命令でいいのでは」

「父上に?」

「バーレイ伯爵が、父親としてより家長として読むなら、必要な注意です」


 サミュエルは少しだけ眉を寄せた。

 それから一行足した。


 ――屋敷内で不用意に名が出れば、証拠が動く恐れがあります。


「これならどうだ」

「よいと思います」


 ルーカスがうなずいた。

 マギーはパンをもう一口かじった。


 ――証拠が動く。


 変な言い方だと思った。けれど、屋敷では本当に動くのだろう。

 部屋の中のもの。鍵。手紙。刺繍箱。母のもの。気づかないうちに少しずつ場所が変わり、あとで尋ねると、最初からそうだったようになってしまう。


「兄様」

「何だ」

「お父様は、信じてくださるでしょうか」


 サミュエルは封を折る手を止めなかった。


「信じるかどうかではなく、確認するしかない」

「それは、信じていないということですか」

「《《信じたいものを信じる》》のを、父上は少し長くやりすぎた」


 言い方は静かだ。だが、甘くはなかった。


「だから今は、信じるより確認した方がいい。マギー、お前のこともだ」

「私も?」

「そうだ。父上が『マギーはこういう娘だから』で済ませるのをやめるなら、お前が何を言ったか、何を見たか、何を嫌だったかを確認するしかない」


 マギーは手元のパンを見た。


 ――自分が何を嫌だったか。


 昨日までなら、それを口にするだけで、わがままになる気がしていた。

 今は、便箋に書かれている。

 居間の椅子。青い布。母のブローチ。鍵。それから義母の名。

 サミュエルは封を閉じ、ヘインズ家の封蝋を借りず、自分の小さな印で封をした。


「大学の使いを出す。ヘインズ家からではなく、私からにした方がいい」

「なら、うちの者を大学まで送ります」


 ルーカスが言う。


「途中で取り替えられたら困るので」

「お前、本当に用意がいいな」

「嫌な予感がする時は、用意しすぎるくらいでちょうどいいんです」


 ヘインズ氏が、卓の端でうなずいた。


「それは正しい」


 サミュエルは少し呆れたように親子を見たが、反論はしなかった。


 *


 翌朝、屋敷からの短い手紙が届いた。伯爵の字だった。

 サミュエルは封を見ただけで、少し目を細めた。昨夜こちらから出した手紙への返事にしては早すぎる。つまり、入れ違いだ。

 封を切る。

 マギーは食堂の席に座ったまま、サミュエルの手元を見ていた。今朝は、粥と焼き林檎が出ている。どちらも食べやすかったが、手紙が届いてからは匙が止まっていた。


「兄様」

「父上からだ」

「何と」


 サミュエルは一度読み、それからマギーに見せる前に、ルーカスへ渡した。


「読んでいいぞ」


 ルーカスが目を通す。ヘインズ氏も横から見た。

 ヘインズ夫人は、マギーの前の粥が冷めかけているのを見て、匙をそっと皿の中へ戻した。食べろとは言わなかった。ただ、手に取りやすい位置に置き直した。


「父上は、マギーの部屋と亡き母上の部屋を閉じたそうだ」


 マギーは息を止めた。


「閉じた?」

「父上の許可なく入れないようにした。掃除も止めた。鍵台帳を確認中。小箱の予備鍵は台帳にない」

「では、どうやって」

「亡き奥様の部屋の予備鍵が、オードリー様の管理箱にある」


 マギーは粥の皿を見た。白い粥の上に、刻んだ香草が少し散っている。


「母の部屋の鍵」

「ああ。古い小箱なら、同じ細工師の鍵で開くことがあるそうだ」


 小箱のことを思い出す。

 母が使っていた小さな箱。真珠のブローチ。しおり。古い手紙。香水瓶。


 ――それを、お義母様が母の部屋の鍵で開けていたかもしれない。


 考えて、匙を取った。粥を一口食べる。熱くはなかった。ちょうどよくなっていた。


「マギー嬢」


 ルーカスが言った。


「伯爵の手紙には、もう一つあります」

「はい」

「ロズリー嬢の部屋から、刺繍箱が一度オードリー様の部屋へ運ばれ、すぐ戻されたそうです。糸の整理という名目です」


 マギーは匙を置いた。


「刺繍箱」

「何か心当たりは?」

「ロズリーは、いつも刺繍箱を手元に置いていました」

「中身は?」

「糸と針と、小さな鋏。あと図案。……手紙を入れられます」


 最後は、言ってから気づいた。

 ロズリーの刺繍箱は小さい。けれど、紙を畳めば入る。薄い図案紙なら、糸の下に隠せる。


「伯爵は、そこを気にしているようです」


 ルーカスが手紙を卓へ置いた。


「ただ、中身は確認できていない」

「お父様が、気にした」


 マギーはそのことを、少し不思議に思った。

 父が、刺繍箱の動きを気にした。以前なら、糸の整理で済ませていただろう。


「父上は、ようやく見始めたんだ」


 サミュエルが言った。


「遅いけどな」

「兄様」

「遅いものは遅い」


 サミュエルは、そこは譲らなかった。

 ヘインズ夫人が、マギーの皿を見た。


「あと二口」

「え」

「お手紙を読む前に、あと二口。冷めても食べられるけれど、今の方がいいわ」


 サミュエルが何か言いかけたが、ルーカスに肘で止められた。

 マギーは匙を取った。

 一口。

 それから、もう一口。


「はい」

「よろしい」


 ヘインズ夫人は満足そうだった。

 それから、ようやく手紙をマギーの前へ置く。

 父の字。そこには、短く書かれていた。


 ――マギーの部屋と、亡き妻の部屋を閉じた。

 ――鍵台帳を確認している。

 ――お前の小箱についても確認する。

 ――まだ戻らなくていい。

 ――食べて、休みなさい。


 最後の一文で、マギーは指を止めた。


 ――食べて、休みなさい。


 父が、そう書いてきた。

 ヘインズ夫人の言葉に比べれば、ぎこちない。誰かに言われて書いたのかもしれない。自分で考えて考えて、ようやく出したのかもしれない。でも、どちらでもよかった。

 マギーは手紙を卓に置いた。


「お父様、少し変わりましたね」

「少しな」


 サミュエルが言う。


「まだ少しです」

「少しでも、です」


 マギーはそう言って、粥をもう一口食べた。

 今度は、ヘインズ夫人に言われる前だった。


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