24 交差する手紙
王都では、その夜になっても、洗礼記録の写しが食堂の卓に置かれていた。
もちろん、食事の時にはいったん脇へ寄せた。ヘインズ夫人が、肉の煮込みの皿と同じ卓にそんなものを置くものではありません、と言ったからだ。
けれど食後、茶器が片付けられると、写しはまた戻ってきた。
――オードリー・ラングレー。
マギーはその名を、もう何度読んだかわからない。
嫁ぐ前のお義母様の名。ロズリーの母親の名。
同じ紙の上で、それはひとつになっていた。
「写しは二部取らせた方がいいですね」
ルーカスが言った。
「一部はサミュエルが持つ。もう一部はヘインズ家で預かる。原本は教会にあるので、いざとなれば照合できます」
「教会は、もう一度見せてくれるでしょうか」
マギーが訊くと、ルーカスは少し考えた。
「正面から行けば渋るかもしれません。けれど、こちらには正式な写しがあります。これを否定するなら、教会側が説明しなければならない」
「教会を脅すな」
サミュエルが言う。
「脅しません。手続きを踏むだけです」
「お前の手続きは、時々脅しに似ている」
「商売ではよくあることです」
サミュエルは返事をせず、写しをもう一度手に取った。
その横で、ヘインズ氏が地図を畳んでいる。馬車事故の場所に赤い印がついたものだ。畳み目が赤い印にかからないよう、少しずらして折っていた。
「バーレイ伯爵には知らせるべきだな」
ヘインズ氏が言った。
「はい」
サミュエルはすぐに答えた。
「ただ、文面を選びます」
「ウィリアム様の目に入るとまずい?」
「かなり」
サミュエルは短く言った。
マギーは手元の茶碗を見た。中身はもう薄い。何度も差し湯されたせいで、色だけが残っている。
「ウィリアム兄様は、またロズリーに言うでしょうか」
「言うかもしれない」
サミュエルは否定しなかった。
「兄上は、自分が守るべき相手だと思った者には、情報を渡す。安心させるためだと考える」
「それで相手が動くとは、思わないのですね」
「たぶん、そこまで見ようとしない」
ルーカスが、封筒を三つ出した。
「では、伯爵個人宛に。外封には通常の挨拶文を入れ、中に写しの写しを。もう一通は、届いたことの確認用に空の返書を入れておきましょう。署名だけで返せるように」
「用意がいいな」
「うちは商会ですから。返事をもらえない相手には、返しやすい形で渡すのが早い」
ヘインズ夫人が、そこで小さな皿をマギーの前に置いた。
薄く切ったチーズと、焼いたパンの端だった。
「夕食は食べたけれど、考え事をするとまたお腹が空くでしょう」
「そこまででは」
「見てからでいいのよ」
マギーは皿を見た。確かに、見てしまった。
パンの端は固そうだったが、香ばしい匂いがした。チーズは少し塩気が強いものらしい。さっきの薄い茶より、こちらの方が今は合いそうだった。
一切れ取る。固い。
けれど噛んでいると、だんだん甘みが出てきた。
「よろしい」
ヘインズ夫人はそう言って、自分も椅子に座った。
褒められるほどのことだろうかと思ったが、マギーは何も言わなかった。
食べられるなら、食べた方がいい。この家に来てから、何度もそう思う。
サミュエルは便箋へ向かった。
――父上。
――ロズリー嬢の洗礼記録を確認しました。
――母親の名は、オードリー・ラングレー。
――同封の写しをご確認ください。
――この件は、父上お一人で扱ってください。
――兄上には、まだ見せないでください。
そこまで書いて、サミュエルはペンを止めた。
「強すぎるか」
ルーカスが横から覗く。
「いいえ。むしろ足りないくらいです」
「これ以上書いたら、命令になる」
「なら命令でいいのでは」
「父上に?」
「バーレイ伯爵が、父親としてより家長として読むなら、必要な注意です」
サミュエルは少しだけ眉を寄せた。
それから一行足した。
――屋敷内で不用意に名が出れば、証拠が動く恐れがあります。
「これならどうだ」
「よいと思います」
ルーカスがうなずいた。
マギーはパンをもう一口かじった。
――証拠が動く。
変な言い方だと思った。けれど、屋敷では本当に動くのだろう。
部屋の中のもの。鍵。手紙。刺繍箱。母のもの。気づかないうちに少しずつ場所が変わり、あとで尋ねると、最初からそうだったようになってしまう。
「兄様」
「何だ」
「お父様は、信じてくださるでしょうか」
サミュエルは封を折る手を止めなかった。
「信じるかどうかではなく、確認するしかない」
「それは、信じていないということですか」
「《《信じたいものを信じる》》のを、父上は少し長くやりすぎた」
言い方は静かだ。だが、甘くはなかった。
「だから今は、信じるより確認した方がいい。マギー、お前のこともだ」
「私も?」
「そうだ。父上が『マギーはこういう娘だから』で済ませるのをやめるなら、お前が何を言ったか、何を見たか、何を嫌だったかを確認するしかない」
マギーは手元のパンを見た。
――自分が何を嫌だったか。
昨日までなら、それを口にするだけで、わがままになる気がしていた。
今は、便箋に書かれている。
居間の椅子。青い布。母のブローチ。鍵。それから義母の名。
サミュエルは封を閉じ、ヘインズ家の封蝋を借りず、自分の小さな印で封をした。
「大学の使いを出す。ヘインズ家からではなく、私からにした方がいい」
「なら、うちの者を大学まで送ります」
ルーカスが言う。
「途中で取り替えられたら困るので」
「お前、本当に用意がいいな」
「嫌な予感がする時は、用意しすぎるくらいでちょうどいいんです」
ヘインズ氏が、卓の端でうなずいた。
「それは正しい」
サミュエルは少し呆れたように親子を見たが、反論はしなかった。
*
翌朝、屋敷からの短い手紙が届いた。伯爵の字だった。
サミュエルは封を見ただけで、少し目を細めた。昨夜こちらから出した手紙への返事にしては早すぎる。つまり、入れ違いだ。
封を切る。
マギーは食堂の席に座ったまま、サミュエルの手元を見ていた。今朝は、粥と焼き林檎が出ている。どちらも食べやすかったが、手紙が届いてからは匙が止まっていた。
「兄様」
「父上からだ」
「何と」
サミュエルは一度読み、それからマギーに見せる前に、ルーカスへ渡した。
「読んでいいぞ」
ルーカスが目を通す。ヘインズ氏も横から見た。
ヘインズ夫人は、マギーの前の粥が冷めかけているのを見て、匙をそっと皿の中へ戻した。食べろとは言わなかった。ただ、手に取りやすい位置に置き直した。
「父上は、マギーの部屋と亡き母上の部屋を閉じたそうだ」
マギーは息を止めた。
「閉じた?」
「父上の許可なく入れないようにした。掃除も止めた。鍵台帳を確認中。小箱の予備鍵は台帳にない」
「では、どうやって」
「亡き奥様の部屋の予備鍵が、オードリー様の管理箱にある」
マギーは粥の皿を見た。白い粥の上に、刻んだ香草が少し散っている。
「母の部屋の鍵」
「ああ。古い小箱なら、同じ細工師の鍵で開くことがあるそうだ」
小箱のことを思い出す。
母が使っていた小さな箱。真珠のブローチ。しおり。古い手紙。香水瓶。
――それを、お義母様が母の部屋の鍵で開けていたかもしれない。
考えて、匙を取った。粥を一口食べる。熱くはなかった。ちょうどよくなっていた。
「マギー嬢」
ルーカスが言った。
「伯爵の手紙には、もう一つあります」
「はい」
「ロズリー嬢の部屋から、刺繍箱が一度オードリー様の部屋へ運ばれ、すぐ戻されたそうです。糸の整理という名目です」
マギーは匙を置いた。
「刺繍箱」
「何か心当たりは?」
「ロズリーは、いつも刺繍箱を手元に置いていました」
「中身は?」
「糸と針と、小さな鋏。あと図案。……手紙を入れられます」
最後は、言ってから気づいた。
ロズリーの刺繍箱は小さい。けれど、紙を畳めば入る。薄い図案紙なら、糸の下に隠せる。
「伯爵は、そこを気にしているようです」
ルーカスが手紙を卓へ置いた。
「ただ、中身は確認できていない」
「お父様が、気にした」
マギーはそのことを、少し不思議に思った。
父が、刺繍箱の動きを気にした。以前なら、糸の整理で済ませていただろう。
「父上は、ようやく見始めたんだ」
サミュエルが言った。
「遅いけどな」
「兄様」
「遅いものは遅い」
サミュエルは、そこは譲らなかった。
ヘインズ夫人が、マギーの皿を見た。
「あと二口」
「え」
「お手紙を読む前に、あと二口。冷めても食べられるけれど、今の方がいいわ」
サミュエルが何か言いかけたが、ルーカスに肘で止められた。
マギーは匙を取った。
一口。
それから、もう一口。
「はい」
「よろしい」
ヘインズ夫人は満足そうだった。
それから、ようやく手紙をマギーの前へ置く。
父の字。そこには、短く書かれていた。
――マギーの部屋と、亡き妻の部屋を閉じた。
――鍵台帳を確認している。
――お前の小箱についても確認する。
――まだ戻らなくていい。
――食べて、休みなさい。
最後の一文で、マギーは指を止めた。
――食べて、休みなさい。
父が、そう書いてきた。
ヘインズ夫人の言葉に比べれば、ぎこちない。誰かに言われて書いたのかもしれない。自分で考えて考えて、ようやく出したのかもしれない。でも、どちらでもよかった。
マギーは手紙を卓に置いた。
「お父様、少し変わりましたね」
「少しな」
サミュエルが言う。
「まだ少しです」
「少しでも、です」
マギーはそう言って、粥をもう一口食べた。
今度は、ヘインズ夫人に言われる前だった。




