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母の形見を奪われたので、家を出ます~奪った庶子は、義母の娘でした  作者: さんけい


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23/58

23 オードリー・ラングレー、そしてその夜の伯爵邸

 夕方近く、教会から正式な写しが届いた。


 今度はサミュエルが受け取り、封を開け、書面を広げた。

 ルーカスとヘインズ氏が横から確認する。マギーは少し離れた椅子に座っていた。


 ――行きたい。でも、立ち上がるのが怖い。


 するとヘインズ夫人が、そっと隣に座った。


「呼ばれたら行きましょう」

「はい」


 サミュエルはしばらく黙って読み、それから、顔を上げた。


「マギー」

「はい」

「聞けるか」


 マギーは立ち上がった。


「聞きます」


 卓へ近づく。

 書面には、教会の印が押されていた。洗礼記録の写し。細い字で、名前が並んでいる。


 ――ロズリー。


 父親の名は、子爵家の男の名。そして母親。


 ――オードリー・ラングレー。


 マギーはその行を読んだ。そして一度では足りず、もう一度読む。

 ――オードリー・ラングレー。


 義母の嫁ぐ前の名。

 部屋の中ではもう誰も言わなかった。言わなくても、もうわかってしまった。


 ――ロズリーは、お義母様の娘だった。


 マギーは書面から目を離した。不思議と、泣きたくはならなかった。怒りも、すぐには来なかった。

 ただ、ロズリーを見ていた義母の目元を思い出した。あれは憐れみではなかった。

 マギーは椅子の背に手を置く。


「座りなさい」


 サミュエルが言う。今度は迷わず座った。

 ルーカスが書面をそっと畳む。封筒へ戻さず、卓の中央へ置いた。


「これで、一つは確定です」


 ルーカスが言った。


「ロズリー嬢は、オードリー様の実の娘です」


 マギーはうなずいた。サミュエルが、少し低い声で言う。


「次は、ロズリー嬢がいつそれを知ったか。それから、オードリー様がなぜ隠して伯爵家へ入れたか」


 ヘインズ氏が腕を組んだ。


「そして、事故の前日に喪服を用意した理由だ」


 マギーは卓の上の写しを見た。

 薄い紙一枚。

 けれど、それまで家の中で曖昧だったものが、そこに名前を持って置かれている。


 ――オードリー・ラングレー。


 マギーはその名を、声には出さずにもう一度読んだ。


 *


 翌朝、伯爵邸のマギーの部屋の前で、メイドが足を止めた。

 いつもなら朝のうちに窓を開け、寝台を整え、花瓶の水を替える。マギーがいない今でも、部屋は主人を待つ形にしておくものだと教えられていた。

 けれど、扉の横には従僕が立っていた。


「旦那様のご命令だ。今日は入れない」

「掃除だけよ」

「掃除もだ」

「でも、奥様から」

「旦那様のご命令だ」


 従僕は同じ言葉を繰り返した。

 メイドは困ったように掃除道具を抱え直し、そのまま廊下を戻った。少し行ったところで、オードリーと行き合う。


「どうしたの」

「奥様。マギーお嬢様のお部屋ですが、旦那様のご命令で入れないと」

「そう」


 オードリーは扉の方を見た。

 マギーの部屋の前には、従僕がまだ立っている。こちらを見て、軽く頭を下げた。


「亡き奥様のお部屋もかしら」

「はい。そちらも、モリスさんから同じようにと」

「そう」


 オードリーは少しだけ手袋の指先を直した。


「なら、今日は触らなくていいわ。花だけ替えるつもりだったけれど、旦那様のご命令なら仕方ありません」

「はい」

「ほかの部屋を先に済ませてちょうだい」


 声はいつもと変わらなかった。

 メイドはほっとしたように礼をして去る。

 オードリーはしばらく廊下に立っていた。マギーの部屋。亡き妻の部屋。その二つの扉は、どちらも閉じられている。

 やがて彼女は静かに歩き出す。廊下の角を曲がると、今度はロズリーの部屋の前に別の従僕が立っていた。


「奥様」

「ロズリーの具合は?」

「先ほど薬湯をお持ちしました。お休みにはなっておられないようです」

「そう」


 オードリーは扉の前まで近づく。従僕は少し身を引いたが、そこを離れない。


「入っても?」

「旦那様から、出入りはお知らせするようにと」

「では、知らせてちょうだい。私がロズリーの様子を見ます」


 従僕は迷った。その間に、扉の内側から声がした。


「奥様?」

「ロズリー。入ってもいいかしら」

「はい」


 従僕は結局、扉を開けた。

 部屋の中は静かだった。ロズリーは窓辺の椅子に座っていた。膝の上には刺繍枠がある。だが針は布に刺さったままで、糸はほとんど進んでいない。


「眠れた?」

「少しだけ……」

「無理はしないでね」

「はい」


 オードリーは机の上を見る。薬湯の杯は半分ほど減っていた。

 横には白いハンカチが置かれていた。皺は伸ばされていたが、端の方にまだ細い折り目が残っている。


「刺繍をしていたの?」

「はい。でも、糸が足りなくて」


 ロズリーは膝の上の刺繍枠を少し持ち上げた。


「奥様に見ていただこうと思っていたのですが」

「あとで糸を持たせるわ」

「ありがとうございます」


 短いやり取りだった。

 オードリーはそれ以上、何も訊かなかった。ロズリーも何も言わない。

 ただ、オードリーが部屋を出る前に、ロズリーは刺繍箱の小さな引き出しを開けた。


「奥様」

「なに?」

「この前お借りした薄青の糸を、お返しした方がよろしいでしょうか。マギー様のものだったら、また」


 そこで言葉が止まる。オードリーは机の横に立ったまま、少しだけ首を傾けた。


「今はそのままでいいわ。使いかけの糸を戻しても、かえって混ざるでしょう」

「はい」

「刺繍箱は、あとでメイドに取りに来させます。私の部屋で糸を選んで戻すから」


 ロズリーは小さくうなずいた。


「お願いします」


 オードリーは部屋を出た。従僕は扉を閉める。


「奥様。旦那様には」

「私がロズリーの様子を見たと伝えてちょうだい。刺繍箱は糸の整理のために預かるわ」

「かしこまりました」


 従僕は頭を下げた。

 オードリーは廊下を戻る。その足取りは決して急ぐものではない。

 少しして、ロズリーの部屋からメイドが刺繍箱を持って出てきた。箱は小さく、蓋には白い花の細工がある。従僕はそれを見たが、止めなかった。


「奥様のところへ?」

「はい。糸の整理ですって」


 メイドはそう答え、廊下を進んだ。


 *


 オードリーの部屋では、すでに茶器が片付けられていた。机の上には手紙が数通、未開封のまま置かれている。

 メイドが刺繍箱を置くと、オードリーは礼を言って下がらせた。

 扉が閉まる。部屋の中に、オードリーだけが残る。

 刺繍箱の蓋を開けると、上段には糸巻きが並んでいた。白、薄青、銀灰、淡い桃色。針山。小さな鋏。どれもきちんと収まっている。

 オードリーは薄青の糸巻きを取り出す。その下に、小さく畳まれた紙があった。

 紙は、刺繍図案を写す時に使う薄いものだった。開くと、短い文字が三つだけ書かれている。


 ――喪服。

 ――日付。

 ――ミルナー。


 オードリーはその紙をしばらく見て、机の横の燭台へ近づいた。火はまだついている。

 紙の端を火に近づけると、すぐに黒く縮れた。最後まで燃えるのを待ち、灰皿の上で灰を潰す。

 薄青の糸巻きは、刺繍箱へ戻さなかった。代わりに、自分の裁縫箱から少し色の違う糸を一本入れる。ロズリーのものより、わずかに濃い青だった。

 蓋を閉め、鈴を鳴らした。

 入ってきたメイドに、オードリーは刺繍箱を渡した。


「ロズリーの部屋へ戻して。糸はこの色の方がよさそうだったわ」

「はい、奥様」

「それから、ロズリーには今日はあまり廊下へ出ないように。冷えるから」

「かしこまりました」


 メイドが出ていくと、オードリーは机へ戻り、未開封の手紙の中から、一通を選ぶ。

 差出人はない。封も簡素なものだった。オードリーはそれを開けずに、机の引き出しへ入れ、鍵をかける。

 その鍵を、袖口の内側へしまった。


 *


 書斎では、伯爵がまだ書類を見ていた。


 モリスが持ってきた子爵家の件の書類は、受け取った日付順に並べ直してある。事故の知らせ。王家からの通達。預かりの依頼。礼状。細かな支払いの控え。

 どれも一つだけなら、おかしくない。だが並べると、少しずつ早い。

 事故の翌日に知らせ。

 その次の日には、ロズリーをどこで預かるかという話。

 さらに翌日には、バーレイ家へという文書。

 何もかもが、混乱しているはずの家にしては整いすぎている。

 伯爵は、日付の横へ小さく印をつける。そこへ扉が叩かれた。


「入れ」


 先ほどの従僕だった。


「旦那様。奥様がロズリー様のお部屋へ入られました」

「何をした」

「ご様子を見に。それから、刺繍箱を一度奥様のお部屋へ。糸の整理とのことでした」


 伯爵はペンを止めた。


「刺繍箱」

「はい」

「中は見たか」

「いえ。メイドが運びましたので」


 伯爵はしばらく黙っていた。

 刺繍箱。糸の整理。

 それだけなら何もおかしくない。だが、今は何もおかしくないものほど気にかかる。


「その箱は戻ったか」

「はい。奥様が糸を替えて、すぐに」

「そうか」


 伯爵は椅子から立ち上がった。


「ロズリーの部屋の前は、そのまま人を置け。オードリーの部屋の前には置くな。ただし、誰が出入りするか見ていろ」

「かしこまりました」

「それと、モリスを呼べ」


 従僕が下がる。伯爵は机の上の書類を見た。

 日付。鍵。喪服。ミルナー。オードリーの実家。

 そこへ刺繍箱が加わった。

 まだ、何も決まってはいない。だが、屋敷の中で動いているものがある。

 伯爵は、ようやくそれを見ていた。


 *


 ロズリーの部屋に刺繍箱が戻ると、メイドはすぐに下がった。

 従僕は廊下に立ったまま、扉を見る。中からは、しばらく何の音もしなかった。

 やがて、小さな鋏の音がした。ちき、と一度。それから、針を布へ通す気配。

 ロズリーは刺繍を再開したらしい。

 従僕は少しだけ肩の力を抜いた。だが、その時、部屋の中から声がした。


「ねえ」

「はい」


 扉越しだった。


「もし奥様がいらしたら、私は眠っていると伝えてください」

「かしこまりました」

「ウィリアム様がいらしても」


 従僕は一瞬返事を遅らせた。


「かしこまりました」

「ありがとう」


 それきり、声はしなくなった。

 部屋の中では、また針が布を抜ける気配がする。

 従僕は廊下の反対側へ目をやった。そこに、人影はない。

 けれど屋敷は、いつもの屋敷ではなくなっていた。

 扉が閉じられ、鍵が確かめられ、誰がどの部屋へ入ったかが見られている。

 その真ん中で、ロズリーの刺繍箱だけが一度出て、戻ってきた。

 従僕はそれを覚えておくことにした。


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