22 ロズリーの母親の名
塩味のパイを半分食べたところで、マギーは一度席を立った。手を洗ってきなさい、とヘインズ夫人に言われたからだ。
食堂の隣にある小さな洗面室で、指先についた油を落とす。温かい湯だった。石鹸は柑橘の匂いがする。
鏡を見ると、顔色は悪くない。少なくとも昨日よりはましだ。
マギーは濡れた指を布で拭きながら、食堂の方の声を聞いた。
サミュエルとルーカスが、低い声で何か話している。夫人が、二人とも声がこもっていて聞きづらいわ、と言った。ヘインズ氏の笑う声が少し混じる。
変な家だと思った。
いや、変なのは自分の家の方だったのかもしれない。
戻ると、ルーカスが書付を一枚畳んでいた。
「すみません。席を外している間に」
「大丈夫です。マギー嬢にも関係する話なので、あとで同じことを言います」
ルーカスはそう言って、畳んだ書付をサミュエルへ渡した。
「教会へ出した使いが戻りました」
マギーは椅子に座る前に止まった。
「ロズリーの出生の記録ですか」
「はい。ただ、写しはまだです。教会側が渋ったようで」
「渋った?」
サミュエルが書付を開く。
「庶子の出生記録は、普通の洗礼記録より扱いが難しいことがある。父親の名をどこまで書くか、母親の名を出すか、後援者が誰か。家によっては隠したがる」
「では、わからなかったのですか」
「いいえ」
ルーカスは首を横に振った。
「写しは明日になります。でも、記録係の老人が、名前だけなら覚えていると」
マギーは座った。膝の上で手を重ねる。
サミュエルは書付を読み、少しだけ眉を寄せた。
「ロズリー嬢の母親の名は、オードリー」
ヘインズ夫人が、茶を注ぐ手を止めた。ほんの一瞬だった。
すぐにまた湯が注がれる。
マギーは、何を言われたのかすぐにはわからなかった。
「オードリー?」
「洗礼記録では、母親の名はオードリーとあるそうだ。ただし、姓は記録係の記憶だけでは曖昧だ。明日、正式な写しを見ればわかる」
「でも」
マギーは口を開いた。
「お義母様と同じ名というだけでは――」
「そうだ」
サミュエルはすぐに言った。
「同じ名の女はいる。これだけでは何も決まらない」
「はい」
マギーはうなずいた。うなずいたが、手が少し冷たくなるような気がした。
――オードリー。
――母親を亡くした娘は心細いでしょう、とお義母様は言った。
あの時、どんな声だったか。どんな顔だったか。マギーは思い出そうとした。
けれど、ロズリーの濡れた喪服の袖口ばかりが先に浮かんだ。
「もう一つあります」
ルーカスが言った。
「子爵家から、ある男爵家へ定期的に支払いがあったようです」
「男爵家」
サミュエルが顔を上げる。
「ラングレー男爵家です」
今度は、マギーにもわかった。義母の実家だ。
ヘインズ氏が腕を組んだ。
「額は?」
「大きくはありません。けれど長い。十五年近く、年に二度。名目は布地代、薬草代、紹介料。毎回少しずつ違います」
「ごまかしの支払いだな」
ヘインズ氏が言った。
「……父上」
ルーカスが少したしなめる。
「まだ、そうと決めるには」
「決めてはいない。だが、わざわざ毎回名目を変える支払いは、たいてい後ろめたいものだ」
ヘインズ氏はマギーへ視線を向けた。
「失礼。きつい言い方だった」
「いえ」
マギーは首を横に振った。きつい、のかもしれない。
けれど、屋敷で聞かされてきた柔らかい言葉より、ずっとましだった。
サミュエルが書付を指で押さえた。
「ロズリー嬢はいくつなんだ?」
「私より一つ下です」
「十五か十六」
「はい」
「……支払いの期間と合うな」
――合う。
その言葉が、卓の上に置かれたが、誰もすぐには拾わなかった。
マギーは茶碗へ手を伸ばした。持ち上げると、まだ温かい。指先が少し落ち着く。
「でも、お義母様は」
言いかけて、止まる。
――お義母様は、ロズリーを気にかけていた。
――ロズリーを見る時だけ、目元が少しやわらいだ。
――母親を亡くした娘は心細いでしょう、と言った。
――この家のあたたかさを、あの子にも分けてあげたかったの、とも言った。
それらが、全部別の意味を持ち始める。
マギーは茶を一口飲んだ。薄い茶だった。苦くない。
「マギー」
サミュエルが呼んだ。
「はい」
「まだ、オードリー様がロズリー嬢の母親だとは決まっていない」
「はい」
「同じ名で、実家に支払いがあった。今わかっているのはそこまでだ」
「はい」
「だが、可能性は高くなった」
そこは、ごまかさなかった。マギーはうなずく。
ヘインズ夫人が、パイの皿を少しだけ遠ざけた。もう食べなくていい、という合図のようだった。代わりに水の杯を置く。
「ロズリーは、知っていたのでしょうか?」
マギーは自分でも意外なくらい小さな声で訊いた。
「それもまだわからない」
サミュエルが答える。
「ただ、もし知らなかったなら、ロズリー嬢にとっても危うい話になる」
「知っていたなら?」
ルーカスが少しだけ視線を落とす。サミュエルはすぐには答えなかった。
「知っていた時期による」
「時期」
「伯爵家へ来る前から知っていたのか。来てから知らされたのか。子爵家の事故の前か、後か。そこでかなり違う」
マギーは両手で茶碗を包んだ。
「では、お義母様がロズリーの母親だったとして」
口に出すと、部屋の空気が少し変わった。
けれど誰も止めなかった。
「その場合、ロズリーは親戚の娘というだけではなく、お義母様の実の娘ということですか」
「ああ」
「それを隠して、伯爵家へ入った」
「そういうことになる」
マギーはうつむき、膝の上の布をつかみかけて、やめる。
代わりに茶碗を置いた。
「なら、お義母様がロズリーに優しかったのは――」
「マギー」
サミュエルの声が少し柔らかくなった。
「そこは、今すぐ考えなくていい」
「でも……!」
「考えるなとは言わない。ただ、今ここで全部を一つにつなげると、たぶん間違える」
「そうです」
ルーカスがうなずいた。
「まず記録です。洗礼記録の写し。子爵家からラングレー男爵家への支払い。ミルナーという男の現在の居場所。馬車小屋へ来た男がミルナーかどうか。順番に確認します」
「順番」
「はい。早く結論がほしい時ほど、この順番というものは大事です」
その言い方に、マギーは少しだけ息を吐いた。
――順番。
そういえば、屋敷では、いつも順番が変わった。
ロズリーが泣きそうになる。ウィリアムが庇う。父がため息をつく。
すると最初に何があったのかは、どこかへ行ってしまう。
だけどここでは、最初に何があったかを戻してくれる。
「わかりました」
マギーは言った。
ヘインズ夫人が、今度は小さな籠を持ってきた。中には、薄く切った林檎が入っている。
「これは食べ物ではなく、手慰み」
「食べ物では」
「食べてもいいわ」
ルーカスが小さく笑った。
「母上、それは食べ物です」
「考え事をしている時に、何か手に取れるものがあると少し楽でしょう」
マギーは林檎を一切れ取った。薄い。透けるほどではないが、食べやすい厚さだった。
かじると、少し酸っぱい。その酸っぱさで、頭がほんの少し戻る。
サミュエルは書付をまとめた。
「父上には、どう知らせるか考える」
「すぐには送らないのですか」
「今送ると、屋敷で話が広がるかもしれない」
「ウィリアム兄様が?」
「可能性はある」
サミュエルは否定しない。マギーは林檎をもう一口かじった。
「兄様は、ウィリアム兄様を信用していないのですね」
「今はな」
「前は?」
「昔は、少し違った」
サミュエルは少しだけ考えた。
「兄上は、頼られるのが好きなんだ。頼られた相手を守る時は強い。だが、その相手が本当に何を望んでいるかは、あまり見ようとしない」
「私が、ウィリアム兄様を頼らない妹だったからでしょうか」
「たぶん」
サミュエルはすぐに言った。
「お前は困っても、兄上の袖を引いて泣く子ではなかった。だから兄上は、お前を守る相手に入れ損ねた」
マギーは林檎を持ったまま黙った。
そんなことがあるのだろうか。泣いてすがれば、守られたのだろうか。
いや、たぶん違う。
そうしても、マギーがロズリーのように見えなければ、きっと駄目だった。
「それは、私が悪いのでは」
「ない」
サミュエルは即答した。
「そこは間違えるな」
言い方が少し強い。マギーは目を瞬いた。
サミュエルは自分の声に気づいたのか、少しだけ咳払いした。
「すまない。今のは強すぎた」
「いいえ」
マギーは首を横に振った。
「強い方が、わかりやすかったです」
ルーカスが、なるほど、と小さく言った。
「サミュエルにも用途がありますね」
「おい」
「失礼!」
そのやり取りで、マギーは少しだけ笑った。
林檎を食べ終え、皿へ手を戻した。そしてもう一切れ取る。
ヘインズ夫人が、それを見て何も言わずに茶を足した。




