21 ロズリーへの処遇と馬車への疑念
サミュエルが戻ってきたのは、午後の鐘が鳴った少し後だった。
大学の外套に、細かな埃がついている。急いで歩いたのだろう。
玄関でヘインズ夫人に、まず水を飲みなさい、と言われ、言われるまま杯を受け取っていた。
「兄様!」
マギーは食堂の椅子から立ち上がりかけた。
「座っていなさい」
サミュエルが言う。それから、少し考え直したように言葉を足した。
「いや、立てるなら立ってもいい。ただ、慌てなくていい」
ルーカスが横で笑いそうになって、咳払いでごまかす。サミュエルは水を飲み干し、杯を卓に置いた。
「法学の先生に聞いてきた。爵位の王家預かりについては、手続きとしてはおかしくない」
「では」
「だが、ロズリー嬢を《《バーレイ家で預かる》》という部分は、王家の指定ではない」
マギーは椅子の背に手を置いたまま止まった。
「王家が、決めたのではないのですか」
「王家は、《《適切な保護者を定めるように》》、としか言っていない。そこから先は、子爵家側と縁戚の協議だ」
「縁戚」
「そうだ。先生は、いくつか候補があったはずだと言っていた。父方の親族、母方の親族、後見を申し出た家。その中からなぜバーレイ家になったのかは、別に確認が必要だ」
ルーカスが、帳場から持ってきた書付を卓に広げた。
「伯爵から見せていただいた書面では、『亡き子爵家と縁のあるバーレイ家』でしたね」
「ああ」
サミュエルはその一文を見た。
「そこが曖昧だ。血筋なら、血筋と書けばいい。後見なら、後見と書けばいい。《《縁》》という言葉は便利すぎる」
「便利すぎる……」
マギーは繰り返した。
「要するに、何にでも使えるということだ」
サミュエルは椅子に座った。
「血縁ではない。だが無関係でもない。そう読ませられる」
ルーカスは別の書付を取った。
「こちらも進みました。馬車小屋に来た男と、喪服を注文した男は、おそらく同じですよ」
「おそらく?」
「まだ本人確認はできていません。ただ、右頬の古い傷、痩せ型、茶色の外套。二つの証言が合っています」
「名は」
「ミルナー。昔、オードリー様のご実家に出入りしていた使用人です」
サミュエルは目を伏せた。
驚いた声も、怒った声も出さない。だが、卓の上に置いた指が一度だけ動いた。
「父上には?」
「まだです。伯爵は屋敷で書類と鍵を確認するはずです。こちらから送るなら、もう少し固めてからの方がいい」
ルーカスが言うと、サミュエルもうなずいた。
「そうだな。今送れば、屋敷の中で誰かが動く」
マギーはその誰か、という言い方を聞いて、少しだけ手を握った。
お義母様。ロズリー。ウィリアム兄様。
誰の顔も浮かぶ。けれど、どれもまだ形にならない。
「マギー」
サミュエルが呼んだ。
「はい」
「ロズリー嬢の母親について、何か聞いたことはあるか」
「母親、ですか」
「庶子だと聞いていたな」
「はい。子爵家の庶子で、母親はいないと……」
「いない?」
「亡くなった、と聞いたと思います。少なくとも、父はそう説明していました。お義母様は……」
マギーは首を傾げる。
ロズリーが来た日の雨。黒い喪服。何度も頭を下げるロズリー。
その横に立っていたお義母様。
「お義母様は、《《母親を亡くした娘は心細いでしょう》》、と言っていました」
サミュエルはそれを書き留めた。
「そうか」
「何かあるのですか」
「まだ何もない」
今度はサミュエルが先にそう言った。
「ただ、庶子の後見を考えるなら、母親側の記録も確認する必要がある。母親が亡くなっているなら、いつ、どこの誰なのか。生きているなら、なぜ出てこないのか?」
マギーは椅子に座り直した。
「ロズリーの母親が、生きているかもしれないということですか」
「可能性の話だ」
「でも、もし生きているなら、なぜロズリーは子爵家に」
「それも、これから確認する」
サミュエルは短く答える。ルーカスは帳場の方を見た。
「では、教会の出生記録と、子爵家の家令筋ですね。母親の名が記録に残っていれば早い」
「残っていない場合は?」
「支払いを見ますよ」
ルーカスは当然のように言った。
「子爵家が庶子を引き取ったなら、それ以前に養育費を出していたかもしれません。母親側に金が渡っていたなら、帳簿や受け取りの証人がいることがあります」
「……何でも支払いから見るのですね?」
「人は嘘をつきますが、支払いはわりと正直です。消すには手間がかかるのですよ」
ヘインズ夫人がそこへ茶を持ってきた。
「ただし、帳簿を書く人も嘘をつくわよ」
「母上」
「だから一つだけで決めないこと! 布屋の帳簿、仕立屋の帳簿、馬車職人の話、教会の記録。別々のものが同じ方を向いたら、そこで少し信じるの」
夫人はそう言って、マギーの前に茶を置いた。
「これは薄くしてありますからね。さっきお菓子を食べたでしょう?」
「はい」
「では、上出来!」
なぜか褒められた。マギーは返事に困って、茶碗を手に取る。
ルーカスが少しだけ笑う。サミュエルは書付を読みながら、何かを考えている。
その時、帳場の方からリードが顔を出した。
「若旦那、鍛冶屋の方から追加です」
「来たか」
ルーカスが立ち上がる。
マギーも思わず立ち上がりかけたが、サミュエルが手で止めた。
「座って聞こう。いちいち立つと疲れる」
「はい」
リードは書付を持って入ってきた。
「割りピンの件ですが、古い方は事故車のものとして自然だそうです。問題は新しい方で、事故直前に差し替えられた可能性があると」
「差し替え」
ルーカスは書付を受け取る。
「はい。ただし、普通に修理しただけの可能性もあります。けれど、職人の話では三日前の点検時には、まだ替える必要はなかったと」
「誰が替えたかは?」
「不明です。ただ、厩係が見た知らない男が馬具の確認だと言っていた時間帯に、馬車小屋も少し空いていたようです」
サミュエルが顔を上げた。
「少し、とは」
「厩係が馬の方へ呼ばれたそうです。馬が一頭、急に暴れたと」
「その馬は事故の馬車を引いた馬か」
「いえ。別の馬です」
部屋の中が静かになる。マギーは茶碗を持つ手を止めた。
別の馬が暴れた。その間に、馬車小屋が空く。
知らない男がいる。新しい割りピン。
ルーカスは書付を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
「かなり、嫌な並びですね」
「事故ではなく、馬車に細工があったかもしれないということか……」
サミュエルが言った。
「まだ、かもしれない、です」
ルーカスはすぐに返した。
「ただ、細工があるなら、狙いは馬車を止めることだったかもしれません。割りピンを弱いものに替えれば、すぐ壊れるとは限らない。道の悪い場所、坂、橋の手前で外れれば大きな事故になりますが」
「殺すつもりだったとは限らない」
サミュエルの声は低かった。
「はい」
ルーカスは答えた。
「でも、そうなってもおかしくない場所を走らせている」
マギーは、地図の赤い印を思い出した。
坂。橋の手前。……雨の後。
「ロズリーは、その馬車に乗らなかった」
サミュエルが言う。誰もすぐには続けなかった。
ロズリーは具合が悪いと言った。外出しなかった。それで助かった。
マギーは茶碗を置く。音を立てないようにしたつもりだったが、少しだけ鳴った。
「ごめんなさい」
「謝ることではありません」
ルーカスが言った。
ヘインズ夫人が、リードへ向く。
「その暴れた馬についても調べた方がいいわね。何を食べたか。誰が触ったか。普段そういう馬だったのか」
「はい、奥様」
リードはすぐに書き足した。
「あと、厩係が呼ばれた時、誰が呼びに来たかも」
「確認します」
サミュエルはしばらく黙っていたが、やがてマギーの方を向く。
「ここから先は、さらに嫌な話になるぞ」
「はい……」
「聞くなら、途中で止めてもいい。止めた方がいい時は、こちらで止めるから」
「はい」
「ロズリー嬢が知っていたかどうかは、まだわからない」
マギーはうなずいた。
「はい」
「オードリー様が関わっていたかどうかも、まだわからない」
今度の返事は、少し遅れた。
「……はい」
サミュエルはその遅れを責めなかった。ルーカスも何も言わない。
ただ、ヘインズ夫人がマギーの茶碗へ少しだけ茶を足した。
「まず、ロズリー嬢の母親を調べる」
サミュエルが言った。
「そこがつながれば、喪服も馬車も、この家へ来た理由も、別の形に見えるかもしれない」
「つながらなければ」
マギーが訊く。
「つながらなければ、それは、そこで切る」
ルーカスが答えた。
「無理に話を作らない。そこは大事です」
マギーはその言葉に、少しだけ息を吐いた。
――無理に話を作らない。
屋敷では、いつも誰かが話を作っていた。
ロズリーは可哀想。マギーは我慢できる。ウィリアムは正しい。
お義母様は優しい。父は困っている。
その話の中で、マギーの居場所がなくなっていた。
「わかりました」
マギーは言った。
「私は、わからないことはわからないままで聞きます」
「それでいい」
サミュエルがうなずいた。
その時、ヘインズ夫人が皿をもう一つ置いた。焼き菓子ではない。小さな塩味のパイだった。
「甘いものの後は、少し塩気もいるわ」
マギーは思わず皿を見た。
「こんなに食べられるかは……」
「見てからでいいのよ」
ルーカスが横で、これは母の決まり文句です、と小さく言った。
マギーは小さく笑い、パイを半分だけ割った。
中には、細かく刻んだ肉と玉ねぎが入っていた。
温かかった。




