20 繋がっていく袖口の記憶
伯爵とウィリアムが帰ったあと、マギーはしばらく応接室の椅子に座ったままだった。
扉は閉まっている。馬車の音も、もう遠い。
それなのに、父とウィリアムの声がまだ部屋の中に残っているような気がした。
「今日はもういい」
サミュエルが言った。
「部屋で休むか、夫人のところに行け。ここに座っていなくていい」
「でも」
「もう今日は父上もウィリアムも来ない。少なくとも、今すぐには」
マギーはうなずいた。だが立てない。
膝の上には、書き出した便箋が残っている。居間の椅子。青い布。ブローチ。鍵。どれも、口に出した。父の前で。ウィリアムの前で。
――言ってしまった。
そう思ったら、急に手の力が抜けた。
便箋が膝から落ちかける。隣にいたルーカスが、すぐに押さえた。取り上げはしない。ただ、落ちないように端を留める。
「預かりましょうか」
マギーは便箋を見た。
「……いえ」
「では、封筒に入れておきます。ばらけると困るので」
「お願いします」
ルーカスは書付を順に揃え、空の封筒へ入れた。
表には何も書かない。封もしない。ただ、端を折るだけだった。
「いつでも出せます」
その言い方が、少しありがたかった。
しまい込まれたわけではない。隠されたわけでもない。また必要なら出せる。
ふと、ヘインズ夫人が、扉のところで声をかけた。
「マギー嬢。台所に焼き菓子があります。甘いものは少し入るでしょう?」
「今は」
「では、お茶だけでも。食べるかどうかは、見てからでいいわ」
サミュエルが立ち上がった。
「行っておいで。私は大学へ一度戻る」
「大学へ?」
「法学の先生に会う。子爵家の爵位の件を確認したい」
「……私も」
「来なくていい」
マギーが口を閉じると、サミュエルは言い直した。
「今は来ない方がいい。先生に聞くことは、こちらで聞ける。お前が必要な時は呼ぶ」
「はい」
「それと、無理に待っていなくていい。寝てもいい」
今度は少し柔らかい口調だった。マギーはうなずいた。
*
サミュエルが出ていくと、部屋の中は少し広くなったように感じた。
ルーカスは封筒を卓の端に置き、立ち上がる。
「帳場を見ますか」
「帳場?」
「商会の方です。今、何を調べているのか、見ていた方が落ち着くかもしれません。嫌なら台所へ」
マギーは少し迷った。
台所の暖かさも、ヘインズ夫人の茶もありがたい。けれど今、何も知らずに待つのはたぶん苦しい。
「見たいです」
「では、こちらへ」
この家の住まいと商会は、廊下の奥で繋がっていた。
扉を一枚開けると、空気が変わる。紙とインクと、乾いた木箱の匂い。何人かの若い男たちが机に向かい、帳簿へ数字を書き込んでいる。別の者は荷札を束ねていた。
誰も大声を出していない。けれど、静かではない。
ペン先が紙をこする音。引き出しの開く音。遠くで誰かが荷の数を読み上げる声。
ルーカスが入ると、二人が顔を上げた。
「若旦那。東の倉庫分、確認終わっています」
「あとで見る。馬車職人の返事は?」
「まだです。喪服の方は奥様へ」
「聞いた」
ルーカスは短く答え、奥の机へマギーを案内した。
そこには地図が広げられていた。王都から子爵家のあった町まで。そこから、事故のあった道。赤い印が一つついている。
「ここです」
ルーカスが指で示した。
「事故があったという場所。坂を下って、橋へ向かう手前です」
「橋」
「はい。雨の後は道が悪くなるそうです。馬車の車輪が外れたなら、かなり危ない」
マギーは地図を見た。知らない道だ。
けれど、そこに子爵夫妻と嫡男が乗っていた馬車があったのだと思うと、紙の上の赤い印から目が離せなかった。
「ロズリーは、そこへ行かなかった……」
「体調不良と聞いています」
「医師は?」
「今、確認中です」
ルーカスは別の書付を取った。
「本当に具合が悪かったなら、医師か薬師が呼ばれているはずですから。呼ばれていなければ、少なくとも屋敷の中だけで処理したことになる」
「……それは、おかしいことなのですか?」
「病の重さによります。ですが子爵家の娘が外出できないほど具合が悪いなら、誰か記録していると思います。薬代、医師の往診代、薬湯の材料。何かしら」
――何かしら。
ルーカスはそれを探すのだ。言葉ではなく、支払いや荷や人の動きで。
マギーは地図の端を見ていた。線と地名が並んでいる。屋敷にいた頃、このようなものを広げて自分の話を聞く人はいなかった。
「袖口のことを、もう少し聞いてもいいですか」
ルーカスが言った。
「喪服のことです」
「はい」
「長かったのか、短かったのか」
マギーは目を閉じないで思い出そうとした。
玄関広間。雨。濡れた靴跡。黒い服のロズリー。
「……少し、長かったと思います」
「袖が?」
「はい。指の付け根までかかっていました。何度か、こう」
マギーは自分の袖口をつまんで、少し引き上げた。
「手を出す時に、布を押さえていました」
ルーカスはすぐに書き留めた。
「肩は?」
「肩は…… 少し落ちていました。でも、腰のあたりは詰めてあったような」
「なるほど」
「それが、何か……?」
「既製の喪服を急いで詰めたなら、腰と身幅は何とかなります。でも袖丈や肩は時間がかかる。特に急ぎなら、袖は残ることがあります」
そう言って、ルーカスは帳場の奥に声をかけた。
「リード。既製喪服の直しなら、袖と肩は後回しになるか?」
机の向こうで、眼鏡の青年が顔を上げた。
「なりますね。葬儀用なら、とりあえず黒ければいいという客もいますから。急ぎなら裾と胴だけで出すこともあります」
「女物でも?」
「あります。むしろ女物の方が間に合わせは厄介です。飾りが少ない分、合わないところが目立ちますし」
「ありがとう」
リードと呼ばれた青年は、また帳簿へ戻った。
マギーはそのやり取りを聞いていた。自分が覚えていた袖口が、ここではすぐに誰かの知識へつながる。
ただの思い違いではない。少なくとも、確かめる価値があるものとして扱われている。
「疲れましたか」
ルーカスが訊いた。
「いえ」
「指が白くなっていますよ」
言われて、マギーは地図の端をつかんでいた手を離した。
「すみません」
「地図は丈夫です。謝るところではありません」
ルーカスは地図を少し戻し、マギーの前へ小さな皿を置いた。いつの間に持ってきたのか、焼き菓子が二つ乗っている。
「母からです。見てしまってからでいい、と言っていました」
マギーは思わず少し笑った。
「見てしまったら、食べるしかないですね」
「そういう作戦です」
焼き菓子は小さく、胡桃が入っていた。
一口食べると、思ったより甘くない。香ばしい。飲み込みやすかった。
「おいしいです」
「母に言うと、倍出してきます」
「それは少し、困ります」
「では、半分だけ伝えます」
そんな話をしているところへ、帳場の入口が少し騒がしくなった。若い使いが戻ってきたのだ。
帽子を取り、息を整えながら、ルーカスの机へまっすぐ来る。
「若旦那。馬車職人の方、ひとまず聞けました」
「座るな。先に水を飲め」
「はい」
使いは近くの台から水を取り、一息で飲んだ。それから書付を差し出す。
「子爵家の事故馬車ですが、事故の三日前に点検が入っています。いつもの職人が見て、問題なしと」
「三日前」
「はい。それで、事故の後に回収した部品の一部を、近くの鍛冶屋が持っていたそうです。使えそうな金具を拾っていたとかで」
ルーカスの目が少しだけ細くなった。
「残っているのか」
「あるそうです。ただ、全部ではありません」
「何がある」
「車輪の外側につく留め金の一部と、軸の割りピンが二つ」
マギーにはわからない言葉だった。だが、ルーカスはすぐに反応した。
「二つ?」
「はい」
「馬車一台で、同じ場所に使うものか?」
「職人は、片方は古いもの、片方は新しいものに見えると言ったそうです」
帳場の音が、少しだけ遠くなった。ルーカスは書付を開く。使いは続けた。
「それから、事故の前日に子爵家の馬車小屋へ知らない男が来ていたと。厩係は、馬具の確認だと聞いたそうです」
「名は」
「名乗らなかったそうです。ただ、支払いを受けたわけではないので、厩係はあまり気にしていなかったと」
「顔は覚えているか」
「年配。痩せ型。右の頬に古い傷。茶色の外套」
ルーカスはペンを止め、喪服の注文に関する書付を取り出す。
マギーは、焼き菓子を持ったまま動けなかった。
「ミルナー、か」
ルーカスが言った。
「喪服を注文した、男爵家の古い使用人だな。仕立屋の使いが、右頬に傷があったと言っていた」
使いが目を丸くした。
「同じ男ですか?」
「まだわからない」
ルーカスはすぐに言った。
「まだ、だ」
けれど、その声はさっきまでより低かった。マギーは手元の焼き菓子を皿へ戻す。
――ミルナー。
その名を覚えようとする。
喪服。馬車小屋。事故の前日。全部が、同じ日に近づいていく。
「マギー嬢」
ルーカスがこちらを見た。
「今の話は、ここで止めます。続きを聞くなら、サミュエルが戻ってからにしましょう」
「私は大丈夫です」
「大丈夫でも、ここで一度止めた方がいい」
少し強い口調だった。けれど、家のように黙らせるものではない。
「今、聞いたことを急いでつなげると、間違えます。こちらも確認を増やします。馬車職人にも、鍛冶屋にも、もう一度人をやる。ミルナーという男が同一人物かどうかも、別々に確かめます」
マギーはうなずいた。
息を吸う。焼き菓子の胡桃の匂いがした。
「ルーカス様」
「はい」
「私の袖口の記憶が、役に立ったのですね」
「はい」
ルーカスはすぐに答えた。
「とても」
それだけだった。
けれど、マギーは皿の上の焼き菓子をもう一度手に取り、今度は最後まで食べた。




