表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
母の形見を奪われたので、家を出ます~奪った庶子は、義母の娘でした  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/58

20 繋がっていく袖口の記憶

 伯爵とウィリアムが帰ったあと、マギーはしばらく応接室の椅子に座ったままだった。


 扉は閉まっている。馬車の音も、もう遠い。

 それなのに、父とウィリアムの声がまだ部屋の中に残っているような気がした。


「今日はもういい」


 サミュエルが言った。


「部屋で休むか、夫人のところに行け。ここに座っていなくていい」

「でも」

「もう今日は父上もウィリアムも来ない。少なくとも、今すぐには」


 マギーはうなずいた。だが立てない。

 膝の上には、書き出した便箋が残っている。居間の椅子。青い布。ブローチ。鍵。どれも、口に出した。父の前で。ウィリアムの前で。


 ――言ってしまった。


 そう思ったら、急に手の力が抜けた。

 便箋が膝から落ちかける。隣にいたルーカスが、すぐに押さえた。取り上げはしない。ただ、落ちないように端を留める。


「預かりましょうか」


 マギーは便箋を見た。


「……いえ」

「では、封筒に入れておきます。ばらけると困るので」

「お願いします」


 ルーカスは書付を順に揃え、空の封筒へ入れた。

 表には何も書かない。封もしない。ただ、端を折るだけだった。


「いつでも出せます」


 その言い方が、少しありがたかった。

 しまい込まれたわけではない。隠されたわけでもない。また必要なら出せる。

 ふと、ヘインズ夫人が、扉のところで声をかけた。


「マギー嬢。台所に焼き菓子があります。甘いものは少し入るでしょう?」

「今は」

「では、お茶だけでも。食べるかどうかは、見てからでいいわ」


 サミュエルが立ち上がった。


「行っておいで。私は大学へ一度戻る」

「大学へ?」

「法学の先生に会う。子爵家の爵位の件を確認したい」

「……私も」

「来なくていい」


 マギーが口を閉じると、サミュエルは言い直した。


「今は来ない方がいい。先生に聞くことは、こちらで聞ける。お前が必要な時は呼ぶ」

「はい」

「それと、無理に待っていなくていい。寝てもいい」


 今度は少し柔らかい口調だった。マギーはうなずいた。


 *


 サミュエルが出ていくと、部屋の中は少し広くなったように感じた。

 ルーカスは封筒を卓の端に置き、立ち上がる。


「帳場を見ますか」

「帳場?」

「商会の方です。今、何を調べているのか、見ていた方が落ち着くかもしれません。嫌なら台所へ」


 マギーは少し迷った。

 台所の暖かさも、ヘインズ夫人の茶もありがたい。けれど今、何も知らずに待つのはたぶん苦しい。


「見たいです」

「では、こちらへ」


 この家の住まいと商会は、廊下の奥で繋がっていた。

 扉を一枚開けると、空気が変わる。紙とインクと、乾いた木箱の匂い。何人かの若い男たちが机に向かい、帳簿へ数字を書き込んでいる。別の者は荷札を束ねていた。

 誰も大声を出していない。けれど、静かではない。

 ペン先が紙をこする音。引き出しの開く音。遠くで誰かが荷の数を読み上げる声。

 ルーカスが入ると、二人が顔を上げた。


「若旦那。東の倉庫分、確認終わっています」

「あとで見る。馬車職人の返事は?」

「まだです。喪服の方は奥様へ」

「聞いた」


 ルーカスは短く答え、奥の机へマギーを案内した。

 そこには地図が広げられていた。王都から子爵家のあった町まで。そこから、事故のあった道。赤い印が一つついている。


「ここです」


 ルーカスが指で示した。


「事故があったという場所。坂を下って、橋へ向かう手前です」

「橋」

「はい。雨の後は道が悪くなるそうです。馬車の車輪が外れたなら、かなり危ない」


 マギーは地図を見た。知らない道だ。

 けれど、そこに子爵夫妻と嫡男が乗っていた馬車があったのだと思うと、紙の上の赤い印から目が離せなかった。


「ロズリーは、そこへ行かなかった……」

「体調不良と聞いています」

「医師は?」

「今、確認中です」


 ルーカスは別の書付を取った。


「本当に具合が悪かったなら、医師か薬師が呼ばれているはずですから。呼ばれていなければ、少なくとも屋敷の中だけで処理したことになる」

「……それは、おかしいことなのですか?」

「病の重さによります。ですが子爵家の娘が外出できないほど具合が悪いなら、誰か記録していると思います。薬代、医師の往診代、薬湯の材料。何かしら」


 ――何かしら。


 ルーカスはそれを探すのだ。言葉ではなく、支払いや荷や人の動きで。

 マギーは地図の端を見ていた。線と地名が並んでいる。屋敷にいた頃、このようなものを広げて自分の話を聞く人はいなかった。


「袖口のことを、もう少し聞いてもいいですか」


 ルーカスが言った。


「喪服のことです」

「はい」

「長かったのか、短かったのか」


 マギーは目を閉じないで思い出そうとした。

 玄関広間。雨。濡れた靴跡。黒い服のロズリー。


「……少し、長かったと思います」

「袖が?」

「はい。指の付け根までかかっていました。何度か、こう」


 マギーは自分の袖口をつまんで、少し引き上げた。


「手を出す時に、布を押さえていました」


 ルーカスはすぐに書き留めた。


「肩は?」

「肩は…… 少し落ちていました。でも、腰のあたりは詰めてあったような」

「なるほど」

「それが、何か……?」

「既製の喪服を急いで詰めたなら、腰と身幅は何とかなります。でも袖丈や肩は時間がかかる。特に急ぎなら、袖は残ることがあります」


 そう言って、ルーカスは帳場の奥に声をかけた。


「リード。既製喪服の直しなら、袖と肩は後回しになるか?」


 机の向こうで、眼鏡の青年が顔を上げた。


「なりますね。葬儀用なら、とりあえず黒ければいいという客もいますから。急ぎなら裾と胴だけで出すこともあります」

「女物でも?」

「あります。むしろ女物の方が間に合わせは厄介です。飾りが少ない分、合わないところが目立ちますし」

「ありがとう」


 リードと呼ばれた青年は、また帳簿へ戻った。

 マギーはそのやり取りを聞いていた。自分が覚えていた袖口が、ここではすぐに誰かの知識へつながる。

 ただの思い違いではない。少なくとも、確かめる価値があるものとして扱われている。


「疲れましたか」


 ルーカスが訊いた。


「いえ」

「指が白くなっていますよ」


 言われて、マギーは地図の端をつかんでいた手を離した。


「すみません」

「地図は丈夫です。謝るところではありません」


 ルーカスは地図を少し戻し、マギーの前へ小さな皿を置いた。いつの間に持ってきたのか、焼き菓子が二つ乗っている。


「母からです。見てしまってからでいい、と言っていました」


 マギーは思わず少し笑った。


「見てしまったら、食べるしかないですね」

「そういう作戦です」


 焼き菓子は小さく、胡桃が入っていた。

 一口食べると、思ったより甘くない。香ばしい。飲み込みやすかった。


「おいしいです」

「母に言うと、倍出してきます」

「それは少し、困ります」

「では、半分だけ伝えます」


 そんな話をしているところへ、帳場の入口が少し騒がしくなった。若い使いが戻ってきたのだ。

 帽子を取り、息を整えながら、ルーカスの机へまっすぐ来る。


「若旦那。馬車職人の方、ひとまず聞けました」

「座るな。先に水を飲め」

「はい」


 使いは近くの台から水を取り、一息で飲んだ。それから書付を差し出す。


「子爵家の事故馬車ですが、事故の三日前に点検が入っています。いつもの職人が見て、問題なしと」

「三日前」

「はい。それで、事故の後に回収した部品の一部を、近くの鍛冶屋が持っていたそうです。使えそうな金具を拾っていたとかで」


 ルーカスの目が少しだけ細くなった。


「残っているのか」

「あるそうです。ただ、全部ではありません」

「何がある」

「車輪の外側につく留め金の一部と、軸の割りピンが二つ」


 マギーにはわからない言葉だった。だが、ルーカスはすぐに反応した。


「二つ?」

「はい」

「馬車一台で、同じ場所に使うものか?」

「職人は、片方は古いもの、片方は新しいものに見えると言ったそうです」


 帳場の音が、少しだけ遠くなった。ルーカスは書付を開く。使いは続けた。


「それから、事故の前日に子爵家の馬車小屋へ知らない男が来ていたと。厩係は、馬具の確認だと聞いたそうです」

「名は」

「名乗らなかったそうです。ただ、支払いを受けたわけではないので、厩係はあまり気にしていなかったと」

「顔は覚えているか」

「年配。痩せ型。右の頬に古い傷。茶色の外套」


 ルーカスはペンを止め、喪服の注文に関する書付を取り出す。

 マギーは、焼き菓子を持ったまま動けなかった。


「ミルナー、か」


 ルーカスが言った。


「喪服を注文した、男爵家の古い使用人だな。仕立屋の使いが、右頬に傷があったと言っていた」


 使いが目を丸くした。


「同じ男ですか?」

「まだわからない」


 ルーカスはすぐに言った。


「まだ、だ」


 けれど、その声はさっきまでより低かった。マギーは手元の焼き菓子を皿へ戻す。


 ――ミルナー。


 その名を覚えようとする。

 喪服。馬車小屋。事故の前日。全部が、同じ日に近づいていく。


「マギー嬢」


 ルーカスがこちらを見た。


「今の話は、ここで止めます。続きを聞くなら、サミュエルが戻ってからにしましょう」

「私は大丈夫です」

「大丈夫でも、ここで一度止めた方がいい」


 少し強い口調だった。けれど、家のように黙らせるものではない。


「今、聞いたことを急いでつなげると、間違えます。こちらも確認を増やします。馬車職人にも、鍛冶屋にも、もう一度人をやる。ミルナーという男が同一人物かどうかも、別々に確かめます」


 マギーはうなずいた。

 息を吸う。焼き菓子の胡桃の匂いがした。


「ルーカス様」

「はい」

「私の袖口の記憶が、役に立ったのですね」

「はい」


 ルーカスはすぐに答えた。


「とても」


 それだけだった。

 けれど、マギーは皿の上の焼き菓子をもう一度手に取り、今度は最後まで食べた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ