19 ウィリアムは言ってしまう
ロズリーは小さく礼をしただけで、その場から動かない。
「すみません。お部屋へ戻ろうと思ったのですが、廊下でお声が聞こえて」
「声?」
「いいえ、はっきり聞いたわけではありません。ただ、旦那様のお声が少し」
そこでロズリーは言葉を切った。ハンカチの端を、指がつまんでいる。
「私、何かしてしまったのでしょうか」
「君が?」
「はい」
「何もしていない」
ウィリアムはすぐに答える。ロズリーは顔を上げ、それからまた目を伏せる。
「でも、マギー様はお帰りにならなかったのですよね」
「今日は、だ」
「今日は」
「ああ。サミュエルが、少し休ませたいと」
「そうですか」
ロズリーはハンカチを握り直した。白い布に皺が寄る。
「マギー様は、私のことを何かおっしゃっていましたか」
ウィリアムは返事に詰まった。
――言うな。
父の声が残っている。
しかしロズリーは責めるように訊いているのではない。ただ、自分が原因かもしれないと怯えている。そう見えた。
「君を責めていたわけではない」
「本当に?」
「本当だ」
それは、少し違う。マギーはロズリーを責めるより先に、自分たちを責めていた。
いや、責めてさえいなかった。ただ、事実を一つずつ並べていた。
居間の椅子。青い布。ブローチ。鍵。
それがかえって、ウィリアムには言いづらい。
「でも、私が来てから、マギー様はつらかったのですよね?」
「それは」
「奥様も、とても心配なさっていました。マギー様が戻らないのは、自分のせいかもしれないと」
「オードリー様は悪くない!」
ウィリアムは言った。今度は少し強くなった。
「父上も、今は少し混乱しているだけだ」
「旦那様が?」
「そうだ。サミュエルが妙に大げさにしている。マギーも、いろいろ思い詰めていたらしいから」
「大げさ」
ロズリーは小さく繰り返す。
ウィリアムはそこで、言葉を止めるべきだった。
止めるつもりだった。
けれどロズリーは、困ったように首を振った。
「私、どうすればよかったのでしょう。ブローチも、布も、知らなかったとはいえ、いただくべきではなかったのですね。奥様が選んでくださったから、うれしくて……でも、それで奥様まで疑われるようなことになったら」
「そんなことにはさせない」
ロズリーは口を閉じる。
「喪服の件も、鍵の件も、きっと何かの間違いだ。君もオードリー様も、何も悪くない」
言ってから、はっと息が止まった。
ロズリーの指も止まっていた。ハンカチを握ったまま、白い布だけがさらに皺を増やしている。
「喪服……?」
聞き返す声は、とても小さかった。ウィリアムは失敗したと思った。
「いや」
「私の喪服のことですか」
「ロズリー」
「何か、おかしかったのでしょうか」
「違う。まだ何も」
「何も」
「ただ、王都で少し確認しただけだ。君がこの家に来た時の喪服が、急ぎで用意されたものだったらしい。それで、サミュエルたちが妙なところに引っかかっている」
ロズリーは黙っていた。その沈黙がウィリアムを不安にさせる。
「本当に、大したことではない。事故の後なら急ぎで喪服を用意するのは当たり前だ。日付だって、きっと店の記録違いだろう」
「日付」
ロズリーの声は、今度はさらに細かった。
ウィリアムは口を閉じる。また余計なことを言ってしまった。
その時、廊下の端で、誰かが動く気配がした。振り返ると、若い従僕が花瓶の水を替えるふりで立っていた。目が合うと、すぐに頭を下げる。
――父が見張らせたのだ。
ウィリアムの腹の奥で、かっと熱くなる。
「下がれ」
「はい」
従僕は水差しを持って下がった。足音は決して速すぎはしない。
だが、急いでいるのはわかった。父へ知らせに行くのだろう。
ウィリアムは舌打ちしかけ、ロズリーの前だと思い出してやめた。
「ロズリー、今の話は」
「聞かなかったことにします」
ロズリーが言った。早かった。ウィリアムは少し驚く。
彼女はハンカチを胸元に寄せ、小さく首を振る。
「私、何も知りません。ウィリアム様を困らせるつもりはありませんでした」
「困ってはいない」
「いいえ。私が訊いたから、ウィリアム様は」
「君は悪くない」
また同じ言葉を吐いてしまう。
ロズリーはそれに返事をしなかった。ただ、手元のハンカチを見ている。
「お部屋へ戻ります」
「ああ。休むといい」
「はい」
ロズリーは礼をし、それから、歩き出す。
自室の方へ向かう廊下を曲がる手前で、一度だけ足を止めた。振り返りはしなかった。ハンカチを握る手だけが、わずかに持ち上がった。
「ウィリアム様」
「何だ」
「マギー様は、私の喪服の袖のことまで覚えていらしたのですね」
ウィリアムは返事ができなかった。
「私、そこまで見られていたなんて、少し怖いです」
そう言って、ロズリーは角を曲がる。廊下には、ウィリアムだけが残った。
今の言葉に、何か引っかかった。
――怖い。
マギーがロズリーを見ていたことを、怖いと言った。
だが、マギーはただ覚えていただけだ。袖が合っていなかったことを。喪服が急ごしらえだったことを。
それを、怖いと言うのか。
考えかけたところで、書斎の扉が開く。父が立っていた。従僕が、その後ろにいる。
「ウィリアム」
伯爵の声は低かった。
「何を話した」
ウィリアムは父を見た。隠せるとは思えなかった。
だが、素直に言うのも癪だった。
「マギーが無事だったことを」
「それだけか」
「……喪服の話を少し」
父の目が、はっきり変わった。
「言うなと言ったはずだ」
「ロズリーが不安がっていたので」
「言うなと言った」
「ですが父上、彼女にも関係が」
「お前が決めることではない」
伯爵は廊下へ出てきた。
ウィリアムは一歩も下がらなかった。下がれば負ける気がした。
「父上はロズリーを疑いすぎです」
「今、私が疑っているのは、お前だ」
ウィリアムは言葉を失った。
「私を?」
「命令を守れない。話してよいことと悪いことの区別がつかない。しかもそれを、ロズリーが不安がっていたからと言う」
「実際に不安がっていました」
「だから何だ?」
伯爵の声は荒くはない。だが、ウィリアムはそこで初めて、父が本気で怒っていることを知った。
「不安がっている者がいれば、何でも話すのか。マギーが不安だった時、お前は話を聞いたか」
「それとこれは」
「同じ家の中で起きていると言ったはずだ」
父は従僕へ言う。
「ロズリーの部屋の前に人を置け。中へ入るな。誰かが出入りしたら、すぐ知らせろ」
「かしこまりました」
「それから、オードリーには私が話す。誰も先に伝えるな」
従僕が去る。
ウィリアムはそこでやっと、父が何を警戒しているのか気づいた。
「ロズリーがオードリー様に話すと?」
「話すかもしれない」
「彼女は聞かなかったことにすると言いました」
「お前は言わないと言ったな?」
その言葉に、ウィリアムは何も返せなかった。
父はそれを待たずに続ける。
「書斎へ戻れ」
「父上」
「戻れ。今夜は私の許可なく、ロズリーにもオードリーにも会うな」
「それは」
「命令だ」
ウィリアムは、今度こそ返事が遅れた。
父は待っている。
廊下の奥で、使用人の足音が止まっている。誰もこちらへ来ない。屋敷全体が、息をひそめているようだった。
「……はい」
ようやく答える。
伯爵は扉を開けた。ウィリアムは書斎へ戻る。
入る直前、ロズリーが消えた廊下の角を一度だけ見た。
そこにはもう誰もいない。
ただ、白いハンカチの皺だけが、妙に目に残っていた。




