18 伯爵が今まで見逃してきたこと
ウィリアムが書面を覗き込む。
「本家筋に近い、ということでは」
「それは血筋の話だ。だが、ここには《《縁》》とある」
伯爵はモリスを見た。
「この書面を受け取った時、誰がいた」
「旦那様と奥様でございます」
「私と?」
「はい。たしか夕食後でございました。奥様が、ロズリー様は若い娘であるから、女手のあるこの家の方が安心だろうとおっしゃって」
伯爵は記憶を探る。
そうだったかもしれない。オードリーがそう言い、自分はそれにうなずいた。ウィリアムも、可哀想だからと。マギーはそこにいたか。
……いた。いたはずだ。
だが、何と言った? ――覚えていない。
「女手のある家なら、他にもあったのではないか」
伯爵が言うと、モリスはすぐには答えなかった。
「私には、その辺りまでは」
「いい。わからないなら、わからないでいい」
伯爵は書面を置き、次に鍵台帳を開いた。台帳には、部屋ごとに鍵の番号と保管者が書かれていた。
玄関、食糧庫、銀器棚、客間、衣装部屋。細かい。
モリスの字と、ところどころオードリーの字が混じっている。
「マギーの部屋は」
モリスが指で示した。
「こちらです。マスターはマギーお嬢様がお持ちでした。予備は奥様の管理箱に」
「管理箱」
「はい。奥様が屋敷の管理をお引き受けになった時、散逸していた予備鍵をまとめ直されました」
伯爵はうなずいた。それは知っている。
オードリーが来てから、家の中はきちんと整った。亡き妻が病がちになってから乱れていた帳簿や鍵の管理を、彼女は一つずつ直した。
そしてその時、伯爵は助かったと思った。
「小箱は」
「小箱、と申しますと」
「マギーの部屋にある、亡き妻の品を入れていた小箱だ」
モリスは少し眉を寄せる。
「それは、台帳には載せておりません。個人のお持ち物ですので」
「予備鍵は」
「こちらでは預かっておりません」
「では、マギーの勘違いでは」
ウィリアムがすぐに言う。伯爵は息子を見た。
「まだ何も終わっていない」
「ですが、予備鍵がないなら……!」
「黙っていなさい」
ウィリアムは口を閉じた。伯爵はモリスへ向き直る。
「マギーの小箱を開けられる者に、心当たりはあるか」
「鍵そのものがあれば、もちろん。あとは、古い小箱でございましたら、合う鍵を探せば開くこともございます」
「合う鍵」
「亡き奥様の頃の小箱でしたら、古い家具や文箱と同じ型のものが使われている可能性がございます。細工師が同じなら、鍵の形も近くなりますので」
伯爵は台帳へ視線を落とした。
亡き妻の部屋。その予備鍵は、今どこにある。
指をたどる。奥様管理箱。
オードリーの字だった。
「亡き妻の部屋の鍵は、今も管理箱に?」
「はい。普段は閉じておりますが、掃除の時には奥様のご指示で」
「マギーは入れるのか」
「以前は、マギーお嬢様も時折」
「今は」
モリスはわずかに言葉を切った。
「最近は、あまり」
伯爵は目を閉じなかった。
閉じると、都合の悪いものを見ない癖が戻りそうだった。
「なぜだ」
「ロズリー様がいらしてから、奥様が亡き奥様のお部屋の整理を少しずつ進めておられますので」
ウィリアムが顔を上げた。
「整理?」
「はい。傷んだ布や古い手紙類などを」
「誰の許可で」
伯爵の声が思ったより低くなった。モリスは姿勢を正した。
「奥様から、旦那様のご許可は得ていると」
伯爵は何も言えなかった。
許可したか? したかもしれない。
亡き妻の部屋は、いつまでもそのままにしておけない。オードリーがそう言ったことはある。
湿気がこもる。布が傷む。品を整理し、必要なものはマギーへ、不用なものは処分する。
自分は任せると言った。
――任せる。
なんて便利な言葉だろう。
「処分したものの記録はあるか」
「奥様が控えておられるはずです」
「ここにはないのか」
「私の方では」
伯爵は椅子の背にもたれ、すぐに立ち上がりたくなるのを押さえた。
今すぐオードリーを呼べば、問い詰める形になる。まだ早い。
王都でサミュエルに言われた通り、答えを用意させるだけになるかもしれない。
だが、亡き妻の部屋。マギーの小箱。妻の形見。
その線が、今になってつながっていく。
「モリス」
「はい」
「亡き妻の部屋は、今夜から私の許可なく開けない。オードリーにも、使用人にもだ」
ウィリアムが驚いたように父を見た。
「父上」
「それから、マギーの部屋も同じだ。誰も入れるな。掃除も必要ない」
「かしこまりました」
「オードリーには、私から伝える。それまで言うな」
「はい」
モリスは頭を下げた。伯爵はさらに台帳をめくる。
「ロズリーの部屋の鍵は」
「マスターはロズリー様。予備は奥様の管理箱でございます」
「そうか」
伯爵は台帳を閉じた。
「今日はここまででいい。書類は置いていけ。鍵台帳もだ」
「かしこまりました」
モリスが下がると、書斎には父とウィリアムだけが残った。
ウィリアムはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「父上は、やはりオードリー様を疑っている」
「確認しているだけだ」
「同じことです」
「違う」
「違いません。亡き母上の部屋を閉じるなど、オードリー様が知ったら」
「知るだろうな」
「傷つきます」
伯爵はゆっくり顔を上げた。
「ウィリアム」
「はい」
「マギーは今まで、傷つかなかったのか?」
ウィリアムは一瞬黙った。
「それは」
「亡き母の部屋が勝手に整理されていた。自分の小箱が開けられた。形見のブローチがロズリーにつけられた。それでマギーは傷つかなかったというのか」
「マギーとオードリー様のことは別です」
「別ではない」
伯爵は初めて、はっきりそう言った。
「同じ家の中で起きている」
ウィリアムは返せなかった。だが納得したわけでもない。目が、何かをこらえるように伏せられる。
伯爵は嫌な予感がした。
「ウィリアム。ロズリーにも、オードリーにも、今聞いたことを言うな」
「……はい」
「返事が遅い」
「言いません」
「本当だな?」
「父上は、私を何だと思っているのですか」
伯爵は答えなかった。答えれば、今の息子を信じきれないと言うことになる。
だが、言わずとも伝わったのだろう。
ウィリアムは軽く礼をして、書斎を出ていった。
扉が閉まる。伯爵はしばらく、そこを見ていた。
やがて立ち上がり、机の脇の小さな鈴を鳴らす。従僕が来る。
「ウィリアムを監視しろ」
「はい?」
「誰と話すか。特に、ロズリーの部屋へ行くようなら、すぐ知らせろ」
従僕は一瞬だけ目を大きくしたが、すぐに頭を下げた。
「かしこまりました」
扉が閉まる。
伯爵は改めて、子爵家の書類束へ手を伸ばした。
事故の知らせ。王家預かりの通知。ロズリーを預かる依頼。
どれも正しく見える。印もある。文面もおかしくはない。それでも、胸のどこかで小さく引っかかる。
縁のあるバーレイ家。
――ロズリーは、いつからこの家と縁があったというのか?
伯爵はその一文に指を置いた。指先に紙のざらつきが残った。
*
ウィリアムは書斎を出てから、しばらく廊下に立っていた。
父の命令はわかっている。
――ロズリーにも、オードリーにも、今聞いたことを言うな。
それは命令だった。父があのような声で命じた以上、従わなければならない。そんなことはわかっている。
だが、ロズリーは不安がっている。
朝からずっと、薄いショールを肩にかけたまま、玄関広間で父と自分の帰りを待っていた。マギーが無事だと聞いた時も、ほっとしたように口元へ手を当てていた。
そのロズリーに、何も言わずにいるのか。
父は無事だったことだけでいいと言った。
けれど、マギーが王都で何を話したのか、サミュエルが何を疑っているのか、屋敷で何が始まろうとしているのか。ロズリーが何も知らないままでいれば、また余計に怯える。
そう考えたところで、父の言葉が戻ってきた。
――マギーは今まで、傷つかなかったのか?
ウィリアムは手を握りしめる。
傷ついたのだろう。それは、わかった。
王都でのマギーは、見慣れない服を着て、便箋を持ち、父や自分の前で、嫌いになりたくなかったと言った。
その言葉を、まったく重く感じなかったわけではない。
けれど、それでも。
ロズリーが悪いとは思えなかった。
やがて、階段の方から、細い足音がした。
ウィリアムが顔を上げると、廊下の角にロズリーが立っていた。薄灰色の室内着に着替えている。髪飾りはなく、手には白いハンカチを持っていた。
「ウィリアム様」
「ロズリー」
彼はすぐに近づきかけて、足を止めた。




