17 伯爵たちの帰還、そして鍵束
帰りの馬車で、ウィリアムはほとんど口をきかなかった。
王都の通りを抜ける間も、郊外へ出てからも、窓の外を見ている。馬車の揺れに合わせて、膝の上の手がわずかに動く。
伯爵も黙っていた。話せば、おそらくまたぶつかる。
それでも、町を出てしばらくしたところで、ウィリアムが言った。
「父上は、オードリー様を疑っているのですか」
伯爵はすぐには答えなかった。車輪の音が続く。
「疑いたくはない」
「では」
「疑いたくないことと、確認しないことは違う」
ウィリアムは黙った。その横顔は、まだ納得していない。
「ロズリーは何も知りません」
「それも、確認してからだ」
「父上」
「ウィリアム」
伯爵は息子の方を見た。
「お前はロズリーに寄りすぎている」
ウィリアムの顔がこちらを向いた。
「何ですか、それは」
「ロズリーを見ているようで、たぶん見ていない」
「意味がわかりません」
「……私にもまだ、うまく言えない」
伯爵はそう言って、窓の外へ視線を戻した。
畑が続いている。春の終わりにロズリーが来た時も、こんな色だっただろうか。
雨だったことは覚えている。玄関広間の濡れた靴跡。マギーの話で、ようやく思い出した。
ロズリーの袖口は、覚えていない。だがマギーは覚えていた。
それはたぶん、マギーだけがロズリーをきちんと見ていたからだ。
《《可哀想な娘として》》ではなく、自分の家に入ってきた《《一人の娘》》として。
「屋敷に着いたら、まず書類を確認する」
伯爵は言った。
「事故の知らせ、王家からの通知、ロズリーを預かることになった経緯。それから鍵だ」
「母上に訊くのですか」
「訊く」
「喪服のことも?」
伯爵は少し黙った。
「まだだ」
「なぜです」
「先に書類を見る」
「それではまるで、隠し事のようです」
「そうだ」
ウィリアムは言葉を失う。伯爵は淡々と続けた。
「今は隠して進める。正面から訊けば、答えを用意されるかもしれない」
「父上、本気で」
「本気で、そうしなければならなくなった」
ウィリアムは何も言わなかった。馬車の中に、車輪の音だけが残る。
やがて屋敷の門が見えた。御者が速度を落とす。
玄関前には、オードリーが立っていた。その少し後ろにロズリーもいる。
二人ともこちらを待っていたらしい。オードリーは外套を羽織り、ロズリーは朝と同じショールを肩に掛けていた。
ウィリアムが身を乗り出す。伯爵はその腕を押さえた。
「余計なことを言うな」
「父上」
「今は、マギーは無事だった。それだけでいい」
馬車が止まり、扉が開く。オードリーが一歩近づいた。
「あなた。マギーは」
声は乱れていない。いつも通りだった。
伯爵は馬車を降りながら答えた。
「無事だ。サミュエルの友人宅にいる」
「戻らないのですか」
「今日は戻らない」
オードリーは一度だけ、手袋の指を重ねた。
ロズリーは後ろで、口元に手を当てた。
「そう、ですか」
オードリーが言った。
「では、話はできたのですね」
「ああ」
「マギーは、何と」
伯爵は少しだけ間を置いた。
「疲れていた」
それだけ言う。
オードリーは彼を見た。何かを待っているようにも見えた。
けれど伯爵は続けなかった。
「まず着替える。ウィリアムも休ませる。話はあとだ」
「はい」
オードリーは引いた。
ロズリーが小さく頭を下げる。
「マギー様がご無事で、よかったです」
「ああ」
ウィリアムが答えかける。伯爵はその前に、屋敷の中へ入った。
玄関広間の床は乾いていた。春の終わりの日のような、濡れた靴跡はない。
だが伯爵の目には、なぜかそれがあるように見えた。
*
書斎へ入ると、伯爵はまず外套を脱いだ。
椅子に座る前に、机の上を見た。昨日までそこにあったサミュエルの手紙は、端へ寄せられている。代わりに、屋敷の用件を書いた小さな札が数枚置かれていた。
オードリーの字だ。
客人への礼状。来週の食材の注文。ロズリーの医師への相談。マギーの不在について、使用人へどう伝えるか。
家はいつも通り動いている。
だが、そのいつも通りが今の伯爵には少し怖かった。
「モリスを呼んでくれ」
扉の外に控えていた従僕にそう命じると、ほどなく家令が来た。
モリスはこの家に長い。先代伯爵の頃からいる男で、年齢のせいで動きは少し遅くなったが、屋敷のことなら誰より知っている。
「お呼びでしょうか」
「ああ。子爵家の事故に関する書類を持ってきなさい。事故の知らせ、王家預かりの通知、ロズリーを当家で預かることになった文書。全部だ」
少しだけ、モリスの返事が遅れる。
「すべて、でございますか」
「すべてだ」
「かしこまりました」
家令は下がろうとしたが、伯爵は呼び止めた。
「それと、屋敷の鍵束も」
「鍵束――でございますか」
「今、誰が何を持っているかも確認する」
「奥様がお持ちのものも、でございますね」
伯爵はモリスを見た。
家令はただ確認しただけだった。声に妙な色はない。だが、伯爵はそこでまた一つ、自分が知らない場所へ足を踏み入れたような気がした。
「そうだ」
「では、鍵台帳もお持ちいたします」
モリスが退室すると、伯爵は椅子に座った。
机の上の札を一枚取る。
ロズリーの医師への相談。内容は、よく眠れていないようなので薬湯を、というものだった。オードリーらしい細やかさだ。ロズリーが眠れていない。たしかにそうかもしれない。
――だが、マギーが眠れていたかどうかを、自分は最近訊いただろうか?
伯爵は札を戻す。少しして、ウィリアムが入ってきた。
「父上。これから何をなさるのですか」
「書類を見る」
「オードリー様には」
「まだ言わない」
「オードリー様は家のことを管理しています。鍵のことなら、そちらに訊くのが早いでしょう」
「早いだろうな」
伯爵は机の上で指を組んだ。
「《《だから》》、今は訊かない」
ウィリアムは納得していない。王都から戻る馬車の中から、ずっとそのままだ。
黙ってはいるが、頭の中では《《別の理屈》》を組み立てているのがわかる。
「ロズリーは不安がっています」
「そうだろう」
「話してやるべきでは」
「何を」
「マギーが無事だったこと。それから、こちらが調べていることを」
「無事だったことだけでいい」
「ですが」
「それ以上は言うな」
伯爵は息子を見た。
「これは命令だ」
ウィリアムは唇をぐっと引き結ぶ。
そこへ、モリスが戻ってきた。両手に革紐でまとめた書類束を抱え、後ろに従僕が小さな木箱を持っている。
木箱には鍵がいくつも入っていた。金属同士が触れ、低く鳴る。
「こちらが、子爵家の件に関するものです。急ぎでまとめましたので、順番は受け取った日付順にしてございます」
「助かる」
伯爵は書類束を受け取った。
最初の一通は、事故の知らせだった。
差出人は、子爵家の家令。日付は事故の翌日。内容は短い。
――子爵夫妻と嫡男が馬車事故により亡くなったこと。ロズリーは体調不良のため外出せず、無事であること。屋敷が混乱しているため、本家筋へ助力を願いたいこと。
伯爵は読み終えて、次の書面へ移った。次は王家からの通達だった。
――爵位は当面王家預かりとする。遺された庶子ロズリーについては、血縁および近い縁戚が協議し、適切な保護者を定めること。
ここまでは、おかしくない。いや、おかしくないように見える。
伯爵は三通目を開いた。
ロズリーを一時的にバーレイ伯爵家で預かることについての書面だった。子爵家側からの依頼書。
そこには、ロズリー本人の精神的安定のため、亡き子爵家と縁のあるバーレイ家での滞在を望む、とある。
「縁がある?」
伯爵は思わずつぶやいた。




