16 事故ではないかもしれない
事故ではないかもしれない。
サミュエルがそう言ったあと、しばらく誰も動かなかった。
ウィリアムだけが立っている。握った手が、まだほどけていない。けれど今度は、すぐに言い返さなかった。言い返す言葉を探しているようにも見えた。
伯爵は、卓の上の書付を見ていた。
黒の喪服。若い娘用。急ぎ。袖丈の直しあり。
その下にある日付は、何度見ても変わらない。
……子爵家の事故の前日だった。
「サミュエル」
伯爵は、ゆっくり口を開いた。
「その先を言うなら、言葉を選びなさい」
「はい」
サミュエルはうなずいた。
「だから、まだ結論にはしていません。ただ、調べる必要があります」
「誰を疑っている」
「順番です」
「順番?」
「喪服が先に用意され、その翌日に事故が起き、ロズリー嬢だけが残り、爵位は王家預かりになり、それから伯爵家へ来た。まず、その順番が正しいのかを確認します」
ウィリアムがそこでようやく声を出した。
「偶然だ」
誰もすぐには返さなかった。
「葬儀の支度は早い方がいい。子爵家で何か不穏なことがあって、先に用意しただけかもしれない。ロズリーが具合を悪くしていたなら、服の手配を誰かに頼んだのかもしれない」
「なら、それを確かめればいいんです」
サミュエルは言った。
「本当にそうなら、それで終わります」
「終わるはずがない。お前たちはもう、疑っているじゃないか」
ウィリアムの声がまた強くなりかけた。その前に、父が止める。
「座りなさい」
「父上」
「座れ、ウィリアム」
今度は短かった。ウィリアムは唇を噛み、椅子へ戻った。だが背は預けない。膝の上の手もほどかない。
マギーは書付を見ていなかった。自分の便箋を見ている。そこにはロズリーが来た日のことが書かれているのだろう。雨。玄関広間。濡れた靴跡。袖の合わない喪服。
伯爵は、その日のロズリーを思い出そうとした。
たしかに、喪服だった。黒い服。細い肩。何度も頭を下げる姿。
だが、袖が合っていたかどうかなど、見ていない。見ていなかった。自分は、あの日、何を見ていたのか。
「その注文を持ち込んだ男は、どこにいる」
伯爵はヘインズ氏へ訊いた。
「まだそこまでは」
ヘインズ氏は答えた。
「仕立屋の話では、昔は男爵家へ出入りしていた者だそうです。今も雇われているかどうかは確認中です」
「男爵家」
ウィリアムが繰り返した。
――オードリーの実家。
その名を、誰も口にしなかった。口にしなくても、部屋の者にはわかっていた。
「父上」
サミュエルが言った。
「屋敷に戻られたら、子爵家の事故に関する書類を確認してください」
「書類?」
「事故の知らせ、爵位が王家預かりになった通知、ロズリー嬢を伯爵家で預かることになった経緯。誰から、いつ、どんな形で届いたのか」
「それは」
伯爵はそこで止まる。
――それは書斎にある。あるはずだ。だが、どこにしまった?
事故の日の知らせは受けた。けれどその後のこまごました手配は、ほとんどオードリーが進めた。
喪服、部屋、使用人への指示、ロズリーの食事、医師を呼ぶかどうか。
家の中のことだから。そう思って、任せた。
「父上?」
ウィリアムが怪訝そうに見る。
「いや。書類は確認する」
「それと、王家預かりの話は大学からも調べます」
サミュエルが言った。
「大学から?」
「法学の先生に確認します。爵位が預かりになる時の手続きと、未成年の庶子が残った場合の後見の流れです。正式な文書が出ているなら、辿れます」
「サミュエル、お前は」
ウィリアムが言う。
「どこまで大ごとにするつもりだ」
「大ごとにしたくないから、今調べています」
「逆だろう。こんなことを調べ回れば、それこそ」
「では、見なかったことにしますか」
サミュエルは兄を見た。
「事故の前日に喪服が用意されていたことを。マギーの小箱の鍵が開けられていたことを。全部、間違いかもしれないからと置いておきますか」
「間違いかもしれないなら」
「間違いかどうか調べるんです」
ウィリアムは口を閉じた。
その横で、伯爵は自分の手元を見た。指が少し曲がっている。書付を握りつぶしかけていた。
彼はゆっくり手を開いた。紙は曲がっていない。まだ読める。
「マギー」
父は娘を見た。
「お前は、この件についてどう思っている」
マギーは少しだけ戸惑った。自分に訊かれると思っていなかったのだろう。
「わかりません」
答えは小さかった。
「だけど知りたいです」
「何を」
「ロズリーが来たことが、本当に偶然だったのかどうか」
ウィリアムがまた反応しかける。けれど今度は、父の方が先に言った。
「最後まで言いなさい」
マギーはうなずいた。
「ロズリーが気の毒な方だということは、わかっています。子爵家でつらい目に遭ったのかもしれません。けれど、だからといって私のものを取っていいわけではないと思います」
そこで一度、言葉が止まる。
ヘインズ夫人が茶を足した。音は小さい。
「それと、もしロズリーが来ることが、誰かにとって都合のよいことだったなら」
マギーは便箋の端を押さえた。
「私は、そのために使われたくありません」
ウィリアムは何も言わなかった。
父はうなずいた。すぐには何も言えなかったから、うなずくしかなかった。
その時、ルーカスが控えていた別の書付を取った。
「もう一つ、確認を始めています」
「何だ」
伯爵が訊く。
「馬車です。事故のあった馬車を普段見ていた職人と、事故後に車輪を回収した者を探しています。こちらはまだ返事がありません」
「事故の馬車など、今さら残っているのか」
ウィリアムが言った。
「残っていなくても、部品を拾った者はいるかもしれません。地方の事故なら、壊れた車輪や金具をそのまま捨てるとは限りませんから」
ヘインズ氏が続けた。
「鉄は使えます。木も、薪や修理材になる。誰かが持ち帰っていてもおかしくない」
伯爵は思わずヘインズ氏を見た。そういう考え方を、自分はしない。
馬車が事故で壊れた―― それで終わりだった。
だが、商家の男は違う。壊れた物の行き先を考える。誰が拾い、誰が売り、誰が直したかを考える。
「もし部品が残っていれば、細工があったかどうかわかるかもしれません」
ルーカスはそう言った。
「もちろん、何も出ないかもしれません」
「出ない方がいい」
伯爵はつぶやいた。その声は、自分でも驚くほど疲れていた。
出ない方がいい。何もなかった方がいい。
喪服の日付は間違いで、古い使用人の名も偶然で、馬車は本当に事故で、オードリーは何も知らず、ロズリーはただ不幸な娘だった。
……その方が、どれほど楽か。
けれどマギーは、家を出た。それだけは、もうなかったことにできない。
「父上」
サミュエルが呼んだ。
「今日はマギーを連れて帰ることはできません」
「ああ」
父は短く答えた。ウィリアムが顔を上げる。
「父上」
「今日は帰さない」
「しかし」
「少なくとも、鍵とブローチと喪服のことを確認するまでは無理だ」
ウィリアムは何か言おうとした。だが、父は続けた。
「お前も戻るぞ」
「私は残ります」
「駄目だ」
「マギーと話を」
「今のお前では無理だ」
ウィリアムの顔が強ばった。
「父上まで」
「お前はさっきから、ロズリーを庇う言葉ばかり出ている」
「当然です。ロズリーは」
「マギーの話を聞きに来たのだろう」
ウィリアムの口が止まった。
「なら、まず聞け。聞けないなら帰る」
部屋の中で、誰も彼に対し、助け船を出すことはしなかった。
ウィリアムはサミュエルを見た。サミュエルは何も言わない。マギーは便箋を見ている。ルーカスは茶器を避けて書付をまとめている。ヘインズ氏は、伯爵の返事を待っている。
――味方がいない。
ウィリアムは、たぶんそう感じたのだろう。少し遅れて、椅子へ背を預けた。
「……わかりました」
言葉は出た。だが納得はしていない。
父にも、それはわかった。
「マギー」
父は立ち上がる前に言った。
「今日は帰らなくていい」
マギーは顔を上げた。
「はい」
「だが、ここに迷惑をかけないように」
「それは大丈夫です」
ヘインズ夫人がすぐに言った。伯爵はそちらを見た。
「夫人」
「迷惑でしたら、昨夜のうちにそう申し上げています」
その言い方は柔らかかった。だが、中身ははっきりしていた。
伯爵は礼をした。
「感謝する」
「お嬢さんは、よく食べて、よく眠る方が先です。お話はその後でもできます」
よく食べて、よく眠る。
それだけのことを、自分はいつから娘に言っていなかっただろう。
伯爵は、また少し言葉に困った。
結局、深く礼をするしかなかった。




