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母の形見を奪われたので、家を出ます~奪った庶子は、義母の娘でした  作者: さんけい


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15/58

15 ロズリーの喪服の袖口

 最初に動いたのは、ヘインズ夫人だった。


 彼女は茶器へ手を伸ばし、何事もなかったように茶を注いだ。誰かの言葉を待つより先に、まず湯気の立つ茶碗が卓に置かれていく。


「お話の途中ですけれど、お茶をどうぞ」


 伯爵はその音で、ようやく息をした。マギーの言葉が、まだ耳に残っている。


 ――嫌いになりたくなかった。


 怒りではない。泣き声でもない。だから逃げ場がなかった。


「マギー」


 父は茶碗に手を伸ばさず、娘を見た。


「お前は、私たちを嫌いになりかけていたのか」

「……はい」


 返事は小さかった。けれど、迷いはなかった。

 ウィリアムが何か言いかける。父はそちらを見ずに、手だけで止めた。


「いつからだった?」


 マギーはすぐには答えなかった。

 膝の上の便箋を見る。そこには、昨日から書いたのだろう細かな字が並んでいる。その字を、伯爵は久しぶりに見た気がした。娘の字など、いつから見ていなかっただろう。


「わかりません」


 マギーは言った。


「最初は、嫌いになりたくないと思っていたわけではありません。ただ、私が我慢すれば済むのだと思っていました。ロズリーは可哀想だから、と」


 ウィリアムの指が椅子の肘を叩きかけ、途中で止まった。


「でも、我慢しているうちに、私が嫌だと思っていることが、誰にも分からなくなってきたようでした。言っても、言い方が悪いと言われました。黙ると、わかってくれたと言われました」


 伯爵は茶碗を見た。茶の表面に、窓からの光が細く映っている。


 ――言い方が悪い。


 たしかに言った。マギーは少しきつい、と何度も思った。ロズリーが来てから、棘が増えたのだと。

 年頃の娘の嫉妬だと。母を亡くした娘には難しい時期なのだと。

 そう考える方が、簡単だった。


「それで、サミュエルを頼ったのか」

「はい」

「なぜ私に言わなかった」


 そう言った瞬間、サミュエルの視線が父へ向いた。

 マギーは困ったように便箋の端を見た。


「言いました」


 父は動けなかった。


「私は何度か、言いました。居間の椅子のことも、布のことも、ブローチのことも。でもお父様は、少しくらい譲りなさい、と」


 口の中が乾く。

 言われた。たしかに言われたのだ。

 ただ、聞かなかった。

 茶碗を持った。持っただけで、飲めなかった。


「……そうか」


 それ以上の言葉が出なかった。

 ウィリアムが低く言う。


「だとしても、一人で出るのは危険だった。王都で何かあったらどうするつもりだったんだ」


 マギーはウィリアムを見た。今度は、目を伏せなかった。


「駅でサミュエル兄様に急ぎの通信を出しました」

「それでもだ。迎えが間に合わなかったら」

「宿を探すつもりでした」

「宿だと?」


 ウィリアムが声を強めかける。

 サミュエルが兄の名前を呼ぶ前に、マギーが続けた。


「家にいるより、ましだと思いました」


 ウィリアムの口が止まった。その言葉は、さすがに効いたらしい。

 伯爵は茶碗を置いた。陶器が受け皿に触れる音が、思ったより大きく聞こえた。


「マギー。今日、帰る気はあるか」

「ありません」


 即答だった。ウィリアムは椅子から腰を浮かせる。


「マギー」

「ありません……!」


 マギーはもう一度言った。


「お父様とウィリアム兄様がいらっしゃることは、サミュエル兄様から聞いていました。けれど、今日は帰るためにお会いしたのではありません」

「では何のために」


 ウィリアムが言う。


「話すためです」

「話しただろう。なら帰れる」

「兄上」


 サミュエルの声が低くなった。


「そこで決めるのは兄上ではありません」

「家のことだ」

()()()()()()です」

「同じだ」

「同じではありません」


 二人の声はどちらも大きくない。

 だが、父はそこに妙な硬さを感じた。ウィリアムは立ち上がりそうで、サミュエルは座ったまま動かない。そして動かない方が、強い。

 ヘインズ氏は黙って茶を飲んでいる。ルーカスはマギーの隣で、卓の上の便箋を一枚ずつ揃えていた。手つきは静かだった。けれど、マギーの前に置かれた書付が父たちから少し遠くなるように、さりげなく位置を変えている。

 父はそれを見た。


 ――ここでは、娘の書いたものまで守られているのだ。


「なるほど、()()()帰さない、ということか」


 父はサミュエルへ訊いた。


「はい」

「私が命じてもか」

「父上が命じてもです」

「サミュエル」

「マギーは、ここで一度落ち着くべきです。伯爵家に戻して、同じ顔触れの中に入れたら、また何も言えなくなります」

「そう決めつけるな」

「では、屋敷にいた時、言えましたか?」


 父は答えられなかった。サミュエルは続けない。そこがまた、余計に痛かった。

 しばらく黙り、それからマギーを見る。


「ここに残るとして、いつまでだ」

「わかりません」

「ずっと、というわけにはいかない」

「わかっています」

「では」


 マギーはそこで、少しだけ息を吸った。


「せめて、お義母様が私の部屋のものを勝手に出せないようにしてください。亡きお母様のものも、私のものも。ロズリーのために使わないと約束してください」


 伯爵はすぐに答えられなかった。

 それくらい、できるはずだ。なのに、即答できない自分に気づく。

 屋敷の鍵はオードリーが見ている。家の中の細かなことも、今はほとんどオードリーが回している。

 彼はそのことに頼っていた。亡き妻の後、彼女が入ってきたことで、家は確かにきちんと整った。

 ……その整えた手が、マギーの小箱も開けていたのだとしたら。


「確認する」


 マギーは静かに父を見る。


「約束ではなく、確認ですか」


 言葉に詰まる。ウィリアムが横から言う。


「オードリー様にも事情があったかもしれないだろう。屋敷を管理する立場なのだから」

「兄上」


 サミュエルが呼んだが、今度はマギーが先に口を開いた。


「私の小箱です」

「だから、間違って」

「鍵をかけていました」


 ウィリアムは黙った。


「間違って開けるものですか?」


 誰もすぐに答えなかった。

 ヘインズ氏が、そこで初めて口を開いた。


「失礼ながら、確認すべきは二つでしょう」


 父はそちらを見た。


「二つ?」

「一つは、小箱の鍵を誰が持っていたか。もう一つは、奥様がなぜその鍵を使ったか」


 父は返事をしなかった。


「鍵があったから開けた、では済みません。商会でも、倉庫の鍵を持つ者はいます。ですが、鍵を持っていることと、中の品を自由に出すことは別です」

「それは、家と商会では違う」


 ウィリアムが言った。

 ヘインズ氏は少し首を傾げた。


「そうでしょうか。人のものを預かる点では同じです」


 ウィリアムは言い返せなかった。

 父は手袋の指を見た。朝、オードリーが用意した手袋だ。親切で、細やかで、いつも家のことを先に考えている。

 そう思っていた。いや、今もそう思いたかった。

 ……だが、マギーの小箱は開けられている。


「屋敷に戻ったら確認する」


 父はようやく言った。


「小箱の鍵のことも、ブローチのことも」

「はい、それまでは帰りません」


 マギーの返事は早かった。うなずくしかなかった。


「わかった」

「父上!」


 ウィリアムが立ち上がった。


「本気ですか。マギーをこのまま商家に置くのですか」


 ヘインズ氏は動かなかった。ルーカスも何も言わない。

 だから余計に、ウィリアムの声だけが部屋に浮いた。


「サミュエルならまだしも、こちらの家は」

「ウィリアム」


 父は静かに呼んだ。


「座りなさい」

「ですが」

「今のお前は礼を失しているのが分かっているのか」


 ウィリアムは一瞬、ヘインズ氏を見た。

 そこでようやく、自分が他人の家で、その家を見下すような言い方をしたことに気づいたらしい。口元が動いたが、謝罪の言葉はすぐには出てこない。

 ヘインズ氏はそこで、穏やかに言った。


「ご心配は当然でしょう。伯爵家のご令嬢をお預かりしているわけですから」


 その言い方に、伯爵は逆に恥ずかしくなった。

 ウィリアムは座った。だが、まだ納得していない顔でこうぽつりと言った。


「ロズリーは、マギーの帰りを待っている」


 マギーの手が止まる。ウィリアムは続けた。


「自分のせいだと気にしていた。今朝も、お前に謝りたいと言っていた」

「そうですか」

「それだけか」

「……他に、何と言えばいいというのですか? お兄様は」

「ロズリーは、本当に気にしているんだ」

「私も気にしていました!」


 マギーは便箋を見た。


「ずっと……」


 ウィリアムは口を閉じた。

 伯爵はもう一度、茶碗を手に取った。今度は少しだけ飲んだ。ぬるくなっている。それでも喉にはありがたかった。

 その時、応接室の扉が軽く叩かれた。ヘインズ氏が返事をする。

 入ってきたのは、若い使用人だった。手には小さな封書を持っている。ヘインズ氏のそばへ行き、耳元で短く何かを告げた。

 ヘインズ氏の目が、ほんの少し細くなった。


「そうか。ご苦労」


 使用人が下がる。封書はヘインズ氏の手に残った。ルーカスが父を見る。


「仕立屋からでしょうか」

「早いな」

「母上が行き先を絞っていましたから」


 サミュエルがマギーへ視線を向ける。


「聞くか?」


 マギーは一度、父を見た。それからうなずいた。


「聞きます」


 ヘインズ氏は封を開けた。中には短い書付が入っている。彼はざっと目を通し、ルーカスへ渡した。

 ルーカスは読む。一度だけ息を止めたように見えた。


「どうした?」


 サミュエルが訊く。


「ロズリー嬢の喪服らしき注文がありました」


 父は眉を寄せた。


「喪服?」

「子爵家の事故の後、ロズリー嬢が伯爵家へ来た時に着ていたものと思われます。袖口が合っていなかった、というマギー嬢の記憶と一致します。既製の喪服を急ぎで直した記録があるそうです」

「それがどうした」


 ウィリアムが言う。


「事故があった後なら、急ぎで用意するだろう」

「ええ」


 ルーカスは書付を見たまま答えた。


「問題は、注文の日付です」


 伯爵は茶碗を置く。


「日付?」

「事故の前日です」


 部屋の中で、誰も動かなかった。

 伯爵はルーカスの手元の書付を見た。そこに何が書いてあるか、まだ読んでいない。だが、ルーカスの声は平坦だった。飾りがない分、言葉だけがはっきり残る。


 ――事故の前日。


 マギーの指が便箋の端を握った。サミュエルはすぐにその手元を見たが、声はかけなかった。

 ウィリアムは少し遅れて言う。


「……何かの間違いだ」

「その可能性はあります」


 ルーカスはすぐに言った。


「帳簿の転記間違い。別人の注文。日付の読み違い。どれも確認が必要です」

「では」

「ただ、仕立屋は注文主の名も控えていました」


 伯爵は息を止めた。


「誰だ」


 ルーカスは一度、書付を卓に置いた。その動きは慎重だった。


「男爵家の古い使用人の名です。そちらの奥様――オードリー様のご実家に、かつて出入りしていた者だそうです」


 オードリーの名が、そこで初めて別の重さを持った。ウィリアムは立ち上がりかけ、途中で止まった。


「……違う」


 短い声だった。


「偶然だ。そんなものは、いくらでも」

「兄上」


 サミュエルが言った。


「まだ誰も結論は出していません」

「だったらそんな言い方をするな!」


 ウィリアムの声が大きくなった。

 今度はサミュエルもすぐには止めなかった。伯爵も。

 ヘインズ氏が、静かに茶器を卓の端へ寄せた。倒されないように。

 その動作を見て、伯爵はようやくウィリアムに言った。


「座れ」

「父上」

「座れ」


 ウィリアムは座らなかった。けれど、それ以上は叫ばなかった。

 父は書付へ手を伸ばした。


「見せてくれ」


 ルーカスが差し出す。そこには、確かに日付と注文内容が書かれていた。

 黒の喪服。若い娘用。急ぎ。袖丈の直しあり。

 そして注文を持ち込んだ者の名。

 彼はその名を知っていた。昔、オードリーの実家から使いに来た男だった。かなり前に暇を出されたと聞いていたが、顔は覚えている。


「……なぜ」


 声が出た。誰に向けたものでもなかった。

 マギーが何か言いかけて、やめた。サミュエルも黙っている。

 ウィリアムだけが、立ったまま父を見ていた。

 伯爵は書付を卓に置く。


「これは、屋敷に戻って確認する」

「父上」


 サミュエルが言った。


「確認する相手は、選んだ方がいいです」


 父は顔を上げる。


「オードリー様へ正面から訊けば、用意する時間を与えることになります」


 ウィリアムがすぐに反応した。


「お前、オードリー様を疑うのか」

「疑うだけのものが出ましたから」

「違う!」

「なら、違うとわかるように調べるべきです」


 サミュエルの声は変わらない。

 その声が、ウィリアムには余計に腹立たしいようだった。

 父は息を吐いた。


「サミュエル。お前は、何を知っている」

「まだ何も」

「では、何を疑っている」


 サミュエルは少し黙り――それから続けた。


「子爵家の事故が、本当に事故だったのかどうかです」


 伯爵は書付をもう一度見た。

 事故の前日に用意された喪服。袖の合わない喪服。それを着て、ロズリーは伯爵家に来た。

 玄関広間で、何度も頭を下げた。


 ――ご迷惑をおかけいたします。


 あの細い声を、彼は思い出した。そしてその時、自分が何を見ていたのかを考えた。


 ――可哀想な娘。


 それだけだった。


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ドアマット令嬢か〜からの、ホラーかサスペンスに…:;(∩´﹏`∩);:
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