15 ロズリーの喪服の袖口
最初に動いたのは、ヘインズ夫人だった。
彼女は茶器へ手を伸ばし、何事もなかったように茶を注いだ。誰かの言葉を待つより先に、まず湯気の立つ茶碗が卓に置かれていく。
「お話の途中ですけれど、お茶をどうぞ」
伯爵はその音で、ようやく息をした。マギーの言葉が、まだ耳に残っている。
――嫌いになりたくなかった。
怒りではない。泣き声でもない。だから逃げ場がなかった。
「マギー」
父は茶碗に手を伸ばさず、娘を見た。
「お前は、私たちを嫌いになりかけていたのか」
「……はい」
返事は小さかった。けれど、迷いはなかった。
ウィリアムが何か言いかける。父はそちらを見ずに、手だけで止めた。
「いつからだった?」
マギーはすぐには答えなかった。
膝の上の便箋を見る。そこには、昨日から書いたのだろう細かな字が並んでいる。その字を、伯爵は久しぶりに見た気がした。娘の字など、いつから見ていなかっただろう。
「わかりません」
マギーは言った。
「最初は、嫌いになりたくないと思っていたわけではありません。ただ、私が我慢すれば済むのだと思っていました。ロズリーは可哀想だから、と」
ウィリアムの指が椅子の肘を叩きかけ、途中で止まった。
「でも、我慢しているうちに、私が嫌だと思っていることが、誰にも分からなくなってきたようでした。言っても、言い方が悪いと言われました。黙ると、わかってくれたと言われました」
伯爵は茶碗を見た。茶の表面に、窓からの光が細く映っている。
――言い方が悪い。
たしかに言った。マギーは少しきつい、と何度も思った。ロズリーが来てから、棘が増えたのだと。
年頃の娘の嫉妬だと。母を亡くした娘には難しい時期なのだと。
そう考える方が、簡単だった。
「それで、サミュエルを頼ったのか」
「はい」
「なぜ私に言わなかった」
そう言った瞬間、サミュエルの視線が父へ向いた。
マギーは困ったように便箋の端を見た。
「言いました」
父は動けなかった。
「私は何度か、言いました。居間の椅子のことも、布のことも、ブローチのことも。でもお父様は、少しくらい譲りなさい、と」
口の中が乾く。
言われた。たしかに言われたのだ。
ただ、聞かなかった。
茶碗を持った。持っただけで、飲めなかった。
「……そうか」
それ以上の言葉が出なかった。
ウィリアムが低く言う。
「だとしても、一人で出るのは危険だった。王都で何かあったらどうするつもりだったんだ」
マギーはウィリアムを見た。今度は、目を伏せなかった。
「駅でサミュエル兄様に急ぎの通信を出しました」
「それでもだ。迎えが間に合わなかったら」
「宿を探すつもりでした」
「宿だと?」
ウィリアムが声を強めかける。
サミュエルが兄の名前を呼ぶ前に、マギーが続けた。
「家にいるより、ましだと思いました」
ウィリアムの口が止まった。その言葉は、さすがに効いたらしい。
伯爵は茶碗を置いた。陶器が受け皿に触れる音が、思ったより大きく聞こえた。
「マギー。今日、帰る気はあるか」
「ありません」
即答だった。ウィリアムは椅子から腰を浮かせる。
「マギー」
「ありません……!」
マギーはもう一度言った。
「お父様とウィリアム兄様がいらっしゃることは、サミュエル兄様から聞いていました。けれど、今日は帰るためにお会いしたのではありません」
「では何のために」
ウィリアムが言う。
「話すためです」
「話しただろう。なら帰れる」
「兄上」
サミュエルの声が低くなった。
「そこで決めるのは兄上ではありません」
「家のことだ」
「マギーのことです」
「同じだ」
「同じではありません」
二人の声はどちらも大きくない。
だが、父はそこに妙な硬さを感じた。ウィリアムは立ち上がりそうで、サミュエルは座ったまま動かない。そして動かない方が、強い。
ヘインズ氏は黙って茶を飲んでいる。ルーカスはマギーの隣で、卓の上の便箋を一枚ずつ揃えていた。手つきは静かだった。けれど、マギーの前に置かれた書付が父たちから少し遠くなるように、さりげなく位置を変えている。
父はそれを見た。
――ここでは、娘の書いたものまで守られているのだ。
「なるほど、今日は帰さない、ということか」
父はサミュエルへ訊いた。
「はい」
「私が命じてもか」
「父上が命じてもです」
「サミュエル」
「マギーは、ここで一度落ち着くべきです。伯爵家に戻して、同じ顔触れの中に入れたら、また何も言えなくなります」
「そう決めつけるな」
「では、屋敷にいた時、言えましたか?」
父は答えられなかった。サミュエルは続けない。そこがまた、余計に痛かった。
しばらく黙り、それからマギーを見る。
「ここに残るとして、いつまでだ」
「わかりません」
「ずっと、というわけにはいかない」
「わかっています」
「では」
マギーはそこで、少しだけ息を吸った。
「せめて、お義母様が私の部屋のものを勝手に出せないようにしてください。亡きお母様のものも、私のものも。ロズリーのために使わないと約束してください」
伯爵はすぐに答えられなかった。
それくらい、できるはずだ。なのに、即答できない自分に気づく。
屋敷の鍵はオードリーが見ている。家の中の細かなことも、今はほとんどオードリーが回している。
彼はそのことに頼っていた。亡き妻の後、彼女が入ってきたことで、家は確かにきちんと整った。
……その整えた手が、マギーの小箱も開けていたのだとしたら。
「確認する」
マギーは静かに父を見る。
「約束ではなく、確認ですか」
言葉に詰まる。ウィリアムが横から言う。
「オードリー様にも事情があったかもしれないだろう。屋敷を管理する立場なのだから」
「兄上」
サミュエルが呼んだが、今度はマギーが先に口を開いた。
「私の小箱です」
「だから、間違って」
「鍵をかけていました」
ウィリアムは黙った。
「間違って開けるものですか?」
誰もすぐに答えなかった。
ヘインズ氏が、そこで初めて口を開いた。
「失礼ながら、確認すべきは二つでしょう」
父はそちらを見た。
「二つ?」
「一つは、小箱の鍵を誰が持っていたか。もう一つは、奥様がなぜその鍵を使ったか」
父は返事をしなかった。
「鍵があったから開けた、では済みません。商会でも、倉庫の鍵を持つ者はいます。ですが、鍵を持っていることと、中の品を自由に出すことは別です」
「それは、家と商会では違う」
ウィリアムが言った。
ヘインズ氏は少し首を傾げた。
「そうでしょうか。人のものを預かる点では同じです」
ウィリアムは言い返せなかった。
父は手袋の指を見た。朝、オードリーが用意した手袋だ。親切で、細やかで、いつも家のことを先に考えている。
そう思っていた。いや、今もそう思いたかった。
……だが、マギーの小箱は開けられている。
「屋敷に戻ったら確認する」
父はようやく言った。
「小箱の鍵のことも、ブローチのことも」
「はい、それまでは帰りません」
マギーの返事は早かった。うなずくしかなかった。
「わかった」
「父上!」
ウィリアムが立ち上がった。
「本気ですか。マギーをこのまま商家に置くのですか」
ヘインズ氏は動かなかった。ルーカスも何も言わない。
だから余計に、ウィリアムの声だけが部屋に浮いた。
「サミュエルならまだしも、こちらの家は」
「ウィリアム」
父は静かに呼んだ。
「座りなさい」
「ですが」
「今のお前は礼を失しているのが分かっているのか」
ウィリアムは一瞬、ヘインズ氏を見た。
そこでようやく、自分が他人の家で、その家を見下すような言い方をしたことに気づいたらしい。口元が動いたが、謝罪の言葉はすぐには出てこない。
ヘインズ氏はそこで、穏やかに言った。
「ご心配は当然でしょう。伯爵家のご令嬢をお預かりしているわけですから」
その言い方に、伯爵は逆に恥ずかしくなった。
ウィリアムは座った。だが、まだ納得していない顔でこうぽつりと言った。
「ロズリーは、マギーの帰りを待っている」
マギーの手が止まる。ウィリアムは続けた。
「自分のせいだと気にしていた。今朝も、お前に謝りたいと言っていた」
「そうですか」
「それだけか」
「……他に、何と言えばいいというのですか? お兄様は」
「ロズリーは、本当に気にしているんだ」
「私も気にしていました!」
マギーは便箋を見た。
「ずっと……」
ウィリアムは口を閉じた。
伯爵はもう一度、茶碗を手に取った。今度は少しだけ飲んだ。ぬるくなっている。それでも喉にはありがたかった。
その時、応接室の扉が軽く叩かれた。ヘインズ氏が返事をする。
入ってきたのは、若い使用人だった。手には小さな封書を持っている。ヘインズ氏のそばへ行き、耳元で短く何かを告げた。
ヘインズ氏の目が、ほんの少し細くなった。
「そうか。ご苦労」
使用人が下がる。封書はヘインズ氏の手に残った。ルーカスが父を見る。
「仕立屋からでしょうか」
「早いな」
「母上が行き先を絞っていましたから」
サミュエルがマギーへ視線を向ける。
「聞くか?」
マギーは一度、父を見た。それからうなずいた。
「聞きます」
ヘインズ氏は封を開けた。中には短い書付が入っている。彼はざっと目を通し、ルーカスへ渡した。
ルーカスは読む。一度だけ息を止めたように見えた。
「どうした?」
サミュエルが訊く。
「ロズリー嬢の喪服らしき注文がありました」
父は眉を寄せた。
「喪服?」
「子爵家の事故の後、ロズリー嬢が伯爵家へ来た時に着ていたものと思われます。袖口が合っていなかった、というマギー嬢の記憶と一致します。既製の喪服を急ぎで直した記録があるそうです」
「それがどうした」
ウィリアムが言う。
「事故があった後なら、急ぎで用意するだろう」
「ええ」
ルーカスは書付を見たまま答えた。
「問題は、注文の日付です」
伯爵は茶碗を置く。
「日付?」
「事故の前日です」
部屋の中で、誰も動かなかった。
伯爵はルーカスの手元の書付を見た。そこに何が書いてあるか、まだ読んでいない。だが、ルーカスの声は平坦だった。飾りがない分、言葉だけがはっきり残る。
――事故の前日。
マギーの指が便箋の端を握った。サミュエルはすぐにその手元を見たが、声はかけなかった。
ウィリアムは少し遅れて言う。
「……何かの間違いだ」
「その可能性はあります」
ルーカスはすぐに言った。
「帳簿の転記間違い。別人の注文。日付の読み違い。どれも確認が必要です」
「では」
「ただ、仕立屋は注文主の名も控えていました」
伯爵は息を止めた。
「誰だ」
ルーカスは一度、書付を卓に置いた。その動きは慎重だった。
「男爵家の古い使用人の名です。そちらの奥様――オードリー様のご実家に、かつて出入りしていた者だそうです」
オードリーの名が、そこで初めて別の重さを持った。ウィリアムは立ち上がりかけ、途中で止まった。
「……違う」
短い声だった。
「偶然だ。そんなものは、いくらでも」
「兄上」
サミュエルが言った。
「まだ誰も結論は出していません」
「だったらそんな言い方をするな!」
ウィリアムの声が大きくなった。
今度はサミュエルもすぐには止めなかった。伯爵も。
ヘインズ氏が、静かに茶器を卓の端へ寄せた。倒されないように。
その動作を見て、伯爵はようやくウィリアムに言った。
「座れ」
「父上」
「座れ」
ウィリアムは座らなかった。けれど、それ以上は叫ばなかった。
父は書付へ手を伸ばした。
「見せてくれ」
ルーカスが差し出す。そこには、確かに日付と注文内容が書かれていた。
黒の喪服。若い娘用。急ぎ。袖丈の直しあり。
そして注文を持ち込んだ者の名。
彼はその名を知っていた。昔、オードリーの実家から使いに来た男だった。かなり前に暇を出されたと聞いていたが、顔は覚えている。
「……なぜ」
声が出た。誰に向けたものでもなかった。
マギーが何か言いかけて、やめた。サミュエルも黙っている。
ウィリアムだけが、立ったまま父を見ていた。
伯爵は書付を卓に置く。
「これは、屋敷に戻って確認する」
「父上」
サミュエルが言った。
「確認する相手は、選んだ方がいいです」
父は顔を上げる。
「オードリー様へ正面から訊けば、用意する時間を与えることになります」
ウィリアムがすぐに反応した。
「お前、オードリー様を疑うのか」
「疑うだけのものが出ましたから」
「違う!」
「なら、違うとわかるように調べるべきです」
サミュエルの声は変わらない。
その声が、ウィリアムには余計に腹立たしいようだった。
父は息を吐いた。
「サミュエル。お前は、何を知っている」
「まだ何も」
「では、何を疑っている」
サミュエルは少し黙り――それから続けた。
「子爵家の事故が、本当に事故だったのかどうかです」
伯爵は書付をもう一度見た。
事故の前日に用意された喪服。袖の合わない喪服。それを着て、ロズリーは伯爵家に来た。
玄関広間で、何度も頭を下げた。
――ご迷惑をおかけいたします。
あの細い声を、彼は思い出した。そしてその時、自分が何を見ていたのかを考えた。
――可哀想な娘。
それだけだった。




