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母の形見を奪われたので、家を出ます~奪った庶子は、義母の娘でした  作者: さんけい


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14/58

14 扉を開ける前に

 伯爵とウィリアムが王都へ向かったのは、朝早くだった。


 玄関広間には、まだ夜の冷えが残っていた。

 御者は外で馬の具合を確かめている。家令は外套を持ち、旅用の小箱を馬車へ運ばせていた。

 オードリーは伯爵の手袋を整えた。


「どうか、マギーを責めないであげてください」


 声はいつも通りだった。大きくもなく、低くもない。

 伯爵は短くうなずいた。


「わかっている」

「ウィリアムも」


 オードリーがそちらを見る。ウィリアムは少し口を引き結んだ。


「責めるつもりはありません。ただ、勝手に家を出たことは話さなければ」

「まずは顔を見てからになさい」


 そう言われ、ウィリアムは返事をしなかった。

 階段の下にはロズリーも立っていた。薄い色のショールを肩にかけ、両手を前で重ねている。


「旦那様、ウィリアム様。私も、マギー様に謝りたいです」

「君は屋敷にいなさい」


 ウィリアムがすぐに言った。


「でも」

「今、君が行けば話がややこしくなる」


 伯爵もそれには異を唱えなかった。

 ロズリーは一度うつむき、それから小さく礼をした。


「では、どうかマギー様に、私はお帰りをお待ちしておりますと」

「ああ」


 ウィリアムはそう答えた。伯爵は横目でその様子を見ていた。

 ロズリーは可哀想な娘だ。それは今もそう思う。

 だが、その言葉を何度も心の中で繰り返しているうちに、伯爵は少しだけ疲れてきていた。

 ロズリーは可哀想。マギーは疲れている。ウィリアムは怒っている。オードリーは心配している。


 ――では、自分は何を見ていたのか。


 馬車に乗っても、その問いはしばらく残った。


 *


 王都へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 サミュエルから指定された住所は、駅からそれほど遠くなかった。馬車は商店の並ぶ通りを抜け、石造りの建物の前で止まる。

 看板がある。ヘインズ商会。

 隣が住まいらしい。伯爵はそれを見上げた。貴族の屋敷ではない。だが、安っぽくもない。

 窓硝子は厚く、扉の金具は磨かれていた。出入りする使用人の動きにも無駄が少ない。


「商家ですね」


 ウィリアムが言った。


「見ればわかる」

「マギーをこんな所に泊めるなど……」

「今は言うな」


 伯爵は馬車を降りる。

 扉を叩くと、出てきたのは年配の男だった。

 家令ではない。商家の番頭か、あるいは長く使われている使用人か。伯爵が名乗ると、男は深く頭を下げた。


「お待ちしておりました。旦那様が応接室でお待ちです」

「サミュエルは」

「ご一緒です」

「マギーは」


 ウィリアムが横から訊いた。

 男はウィリアムの方へ視線を移し、すぐに伯爵へ戻した。


「まずは旦那様とサミュエル様がお話を、とのことです」

「まずは?」


 ウィリアムの声が少し低くなる。伯爵は片手で制した。


「案内してくれ」


 通された応接室は、広すぎも狭すぎもしなかった。

 暖炉には火が入り、卓の上には茶器が用意されている。壁際の棚には、陶器や銀器ではなく、帳簿らしい厚い本が数冊置かれていた。

 ヘインズ氏はすでに立って待っていた。

 昨日食卓にいた時と同じく、仕立ての良い上着を着ているが、貴族風ではない。バーレイ伯爵に礼をし、ウィリアムにも礼をする。


「ヘインズです。このたびは、急なことで」

「娘が世話になっている」


 伯爵も礼を返した。


「まずは礼を言う」

「うちにいる間は、客人として扱っております」

「それはありがたい。だが、娘を迎えに来た」


 そこで、部屋の奥の扉が開く。サミュエルが入ってきた。大学の服ではなく、外出着に着替えている。

 きちんとはしているが、どこか寝不足に見えた。それでも父を見ると、いつも通り礼をした。


「父上。お越しいただきありがとうございます」

「サミュエル」


 父は息子を見た。


「マギーはどこだ」

「別室にいます」

「呼びなさい」

「その前に、こちらからお話しします」


 ウィリアムが一歩前に出た。


「サミュエル。お前、何を勝手に」

「兄上」


 サミュエルはウィリアムを見た。


「ここで大声を出すなら、マギーには会わせません」

「何だと」

「聞こえなかったなら、もう一度言います。ここで大声を出すなら、会わせない」


 ウィリアムの顔が赤くなる。父はすぐに低く言った。


「ウィリアム。座りなさい」

「父上」

「座りなさい」


 今度は従った。

 ウィリアムは椅子に座ったが、背は預けない。膝の上で手を組み、すぐ立てる姿勢のままだった。

 伯爵も座る。

 サミュエルは向かいに腰を下ろし、ヘインズ氏は少し横の席へついた。


「マギーは疲れています」


 サミュエルが言った。


「昨日から少しずつ話を聞きました。今、強く言われれば、たぶん黙ります。黙ったら、話は進みません」

「こちらが責める前提か」


 父は言った。


「少なくとも、兄上は責めるでしょう」

「サミュエル!」


 ウィリアムが声を上げる。サミュエルは黙って兄を見た。

 その視線で、ウィリアムは口を閉じるしかなかった。


「今のように」


 サミュエルは言った。伯爵は額に手をやりかけ、やめた。


「条件を言いなさい」

「まず、マギーの話を遮らないでください」

「わかった」

「それから、途中でロズリー嬢を庇うための言葉を入れないでください」


 ウィリアムの手が動く。だが伯爵が先に答えた。


「わかった」

「兄上も」


 ウィリアムはサミュエルをにらむ。


「ロズリーを悪者にする話なら、私は黙っていられない」

「なら会わせない」

「お前!」

「会わせません」


 同じ調子だった。

 サミュエルは怒鳴らない。声も荒げない。ただ、主張を曲げない。

 父はそれを見て、少しだけ息を吐いた。

 この息子は、家にいた頃からこうだった。言い出すまでが遅い。だが、一度決めると動かない。


「ウィリアム。今日は黙って聞きなさい」

「ですが」

「聞きなさい。必要なら後で言えばいい」


 ウィリアムはしばらく黙っていた。それから、小さく答えた。


「……わかりました」


 サミュエルはそれを確認してから、ヘインズ氏へ目を向けた。ヘインズ氏が扉の外へ声をかける。

 少しして、扉が開き、マギーが入ってきた。

 伯爵は思わず立ち上がりかけた。

 つい先日まで屋敷にいた娘は、今は見慣れない服を着ていた。ヘインズ家の誰かのものだろう。少し大きい。

 袖口が手の甲にかかっている。髪も普段より簡単にまとめてある。けれど、顔色は悪くない。

 ……いや、悪くないと思いたかっただけかもしれない。

 マギーは伯爵に礼をした。


「お父様……」

「マギー」


 その名を呼ぶ。言いたいことは幾つもあった。


 ――なぜ黙って出た。心配した。無事でよかった。帰ろう。怒っていない。怒っている。


 どれを先に言えばいいのか今の彼にはわからなかった。

 その間に、マギーは椅子へ案内された。伯爵たちの真正面ではない。少し斜め。隣にはルーカスが座る。サミュエルはマギーと伯爵たちの間に入る位置に座った。

 その席順を見て、ウィリアムが眉を寄せる。伯爵も気づいた。


 ――これは保護の席だ。


 娘が、家族から守られる席に座っている。

 父としてそのことを、どう受け止めればいいのかわからなかった。


「マギー」


 サミュエルが横から声をかける。


「昨日の書付の通りでいい。順番を整えなくていい」

「はい」


 マギーは膝の上に数枚の便箋を置いた。

 手は少し固くなってはいたが、震えてはいなかった。


「お父様。私は、家を出たことを謝るべきなのかもしれません」

「マギー」


 サミュエルが短く呼ぶ。マギーは少しだけうなずいた。


「けれど、今は謝る前に話します」


 父は何も言わなかった。ウィリアムも黙っていた。今のところは。


「ロズリーが来た時、私は気の毒だと思いました。最初は、できるだけ親切にしたつもりです。廊下や庭のこと、使用人の名前、午後のお茶の時間。そういうことを教えました」


 マギーは便箋を一枚めくる。


「でも、だんだん私に聞かなくなりました。お義母様に聞くようになって、父上やウィリアム兄様が助けるようになりました」

「それは」


 ウィリアムが口を開きかける。サミュエルが兄を見た。ウィリアムは唇を閉じた。

 マギーは続けた。


「居間の窓辺の椅子がありました。母が使っていた椅子です。母が亡くなってからは、私がそこで本を読んだり、刺繍をしたりしていました。ロズリーが、明るい場所でないと針目が見えにくいと言って、そこに刺繍箱を置くようになりました」


 父はその椅子を思い出そうとした。窓辺の椅子。たしかにあった。

 亡き妻が好んでいた場所だった。

 そこにロズリーの刺繍箱が置かれていることにも、彼は何度か気づいていた。だが、深く考えなかった。空いている椅子を使っているだけだと思っていた。


「それから、青い布です」


 マギーの指が便箋の端を押さえた。


「亡きお母様の肖像画の服に似た色でした。私が選んだ布です。伯母様の茶会に着るつもりでした。でも、お義母様がロズリーに回すと言いました。ロズリーは、もったいないと言いました。でも、()()()()()()()()()()()()()


 伯爵は軽く息を呑む。

 その話は聞いていた。ただし、()()()()()()()聞いていなかった。

 マギーには他にもある。ロズリーには新しいドレスが必要。そういう話だった。

 淡い青だとか、母の肖像に似た色だとか、伯母の茶会に着るつもりだったとか、そういうことは誰も言わなかった。

 いや、言わなかったのではない。マギーが言おうとしたのかもしれない。

 それを、自分が聞かなかったのかもしれない。


「そして、ブローチです」


 マギーは次の便箋を見た。


「茶会の日、ロズリーがつけていた真珠のブローチは、お母様の形見です。私の部屋の小箱に入れていました。鍵をかけていました」


 父は顔を上げた。


「鍵を?」

「はい」

「マギー」


 ウィリアムがたまらず口を挟んだ。


「あれはオードリー様が、今日だけと」

「兄上」


 サミュエルの声が低くなった。


「しかし」

「遮らない約束です」


 ウィリアムは息を吐き、椅子の肘をつかむ。マギーは兄を見なかった。


「小箱には鍵をかけていました。けれどお義母様が出して、ロズリーに渡しました。今日のお茶会には似合うから、と。私は返してほしいと言いました。でも、返してもらえませんでした」

「ロズリーは知らなかったんだ」


 ウィリアムは、今度は止まらなかった。


「オードリー様が渡したものを、マギーのものだとは知らずに」

「ウィリアム!」


 伯爵は声を上げた。ウィリアムは父を見る。


「ですが父上、そこは」

「黙れ」


 短い言葉だった。ウィリアムは息を飲んだ。

 伯爵も、自分で言ったあと少し驚いた。だが、今は言わせてはならないと思った。

 鍵をかけた小箱。亡き妻の形見。それを、誰かが開けた。

 そこを聞く前に、またロズリーは知らなかったことにする。

 ……昨日からずっと、その繰り返しではないのか。


「マギー」


 父は声を落とした。


「その小箱の鍵は、誰が持っていた」

「私です」

「他には」

「わかりません」


 マギーは首を横に振った。


「でも、以前にも似たことがありました。小箱に入れていたはずのものが、別の場所から出てきました。リボン、しおり、小さな香水瓶。私の置き忘れだと言われました」

「誰に」

「お義母様に」


 伯爵は返事をしなかった。

 部屋の中で、暖炉の薪が小さく崩れた。ヘインズ氏が火掻き棒に手を伸ばし、燃えさしを奥へ押した。日常の動作だった。そのおかげで、誰もすぐ次の言葉を急がずに済んだ。

 卓の上の茶器を見る。茶はまだ注がれていない。

 ウィリアムも黙っている。だが、その肩には力が入っていた。

 マギーは便箋をもう一枚持っている。まだ話は終わっていないのだ。


「私は」


 マギーはそこで、少し息を吸った。


「茶会の日、ロズリーのお支度を手伝うように言われました。私の布で作ったドレスを着て、母のブローチをつけたロズリーの支度です」


 目を閉じかけた。だが閉じなかった。見なければならないと思った。


「それで、家を出ました」


 マギーは言った。


「このままいたら、お父様を嫌いになると思いました。ウィリアム兄様も。お義母様も。ロズリーも。あの家も」


 ウィリアムが顔を上げた。父は手を膝の上で握った。


「……()()、嫌いになりたくありませんでした」


 それは責める声ではなかった。

 だから余計に、父はすぐ返す言葉を見つけられなかった。


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