14 扉を開ける前に
伯爵とウィリアムが王都へ向かったのは、朝早くだった。
玄関広間には、まだ夜の冷えが残っていた。
御者は外で馬の具合を確かめている。家令は外套を持ち、旅用の小箱を馬車へ運ばせていた。
オードリーは伯爵の手袋を整えた。
「どうか、マギーを責めないであげてください」
声はいつも通りだった。大きくもなく、低くもない。
伯爵は短くうなずいた。
「わかっている」
「ウィリアムも」
オードリーがそちらを見る。ウィリアムは少し口を引き結んだ。
「責めるつもりはありません。ただ、勝手に家を出たことは話さなければ」
「まずは顔を見てからになさい」
そう言われ、ウィリアムは返事をしなかった。
階段の下にはロズリーも立っていた。薄い色のショールを肩にかけ、両手を前で重ねている。
「旦那様、ウィリアム様。私も、マギー様に謝りたいです」
「君は屋敷にいなさい」
ウィリアムがすぐに言った。
「でも」
「今、君が行けば話がややこしくなる」
伯爵もそれには異を唱えなかった。
ロズリーは一度うつむき、それから小さく礼をした。
「では、どうかマギー様に、私はお帰りをお待ちしておりますと」
「ああ」
ウィリアムはそう答えた。伯爵は横目でその様子を見ていた。
ロズリーは可哀想な娘だ。それは今もそう思う。
だが、その言葉を何度も心の中で繰り返しているうちに、伯爵は少しだけ疲れてきていた。
ロズリーは可哀想。マギーは疲れている。ウィリアムは怒っている。オードリーは心配している。
――では、自分は何を見ていたのか。
馬車に乗っても、その問いはしばらく残った。
*
王都へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
サミュエルから指定された住所は、駅からそれほど遠くなかった。馬車は商店の並ぶ通りを抜け、石造りの建物の前で止まる。
看板がある。ヘインズ商会。
隣が住まいらしい。伯爵はそれを見上げた。貴族の屋敷ではない。だが、安っぽくもない。
窓硝子は厚く、扉の金具は磨かれていた。出入りする使用人の動きにも無駄が少ない。
「商家ですね」
ウィリアムが言った。
「見ればわかる」
「マギーをこんな所に泊めるなど……」
「今は言うな」
伯爵は馬車を降りる。
扉を叩くと、出てきたのは年配の男だった。
家令ではない。商家の番頭か、あるいは長く使われている使用人か。伯爵が名乗ると、男は深く頭を下げた。
「お待ちしておりました。旦那様が応接室でお待ちです」
「サミュエルは」
「ご一緒です」
「マギーは」
ウィリアムが横から訊いた。
男はウィリアムの方へ視線を移し、すぐに伯爵へ戻した。
「まずは旦那様とサミュエル様がお話を、とのことです」
「まずは?」
ウィリアムの声が少し低くなる。伯爵は片手で制した。
「案内してくれ」
通された応接室は、広すぎも狭すぎもしなかった。
暖炉には火が入り、卓の上には茶器が用意されている。壁際の棚には、陶器や銀器ではなく、帳簿らしい厚い本が数冊置かれていた。
ヘインズ氏はすでに立って待っていた。
昨日食卓にいた時と同じく、仕立ての良い上着を着ているが、貴族風ではない。バーレイ伯爵に礼をし、ウィリアムにも礼をする。
「ヘインズです。このたびは、急なことで」
「娘が世話になっている」
伯爵も礼を返した。
「まずは礼を言う」
「うちにいる間は、客人として扱っております」
「それはありがたい。だが、娘を迎えに来た」
そこで、部屋の奥の扉が開く。サミュエルが入ってきた。大学の服ではなく、外出着に着替えている。
きちんとはしているが、どこか寝不足に見えた。それでも父を見ると、いつも通り礼をした。
「父上。お越しいただきありがとうございます」
「サミュエル」
父は息子を見た。
「マギーはどこだ」
「別室にいます」
「呼びなさい」
「その前に、こちらからお話しします」
ウィリアムが一歩前に出た。
「サミュエル。お前、何を勝手に」
「兄上」
サミュエルはウィリアムを見た。
「ここで大声を出すなら、マギーには会わせません」
「何だと」
「聞こえなかったなら、もう一度言います。ここで大声を出すなら、会わせない」
ウィリアムの顔が赤くなる。父はすぐに低く言った。
「ウィリアム。座りなさい」
「父上」
「座りなさい」
今度は従った。
ウィリアムは椅子に座ったが、背は預けない。膝の上で手を組み、すぐ立てる姿勢のままだった。
伯爵も座る。
サミュエルは向かいに腰を下ろし、ヘインズ氏は少し横の席へついた。
「マギーは疲れています」
サミュエルが言った。
「昨日から少しずつ話を聞きました。今、強く言われれば、たぶん黙ります。黙ったら、話は進みません」
「こちらが責める前提か」
父は言った。
「少なくとも、兄上は責めるでしょう」
「サミュエル!」
ウィリアムが声を上げる。サミュエルは黙って兄を見た。
その視線で、ウィリアムは口を閉じるしかなかった。
「今のように」
サミュエルは言った。伯爵は額に手をやりかけ、やめた。
「条件を言いなさい」
「まず、マギーの話を遮らないでください」
「わかった」
「それから、途中でロズリー嬢を庇うための言葉を入れないでください」
ウィリアムの手が動く。だが伯爵が先に答えた。
「わかった」
「兄上も」
ウィリアムはサミュエルをにらむ。
「ロズリーを悪者にする話なら、私は黙っていられない」
「なら会わせない」
「お前!」
「会わせません」
同じ調子だった。
サミュエルは怒鳴らない。声も荒げない。ただ、主張を曲げない。
父はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
この息子は、家にいた頃からこうだった。言い出すまでが遅い。だが、一度決めると動かない。
「ウィリアム。今日は黙って聞きなさい」
「ですが」
「聞きなさい。必要なら後で言えばいい」
ウィリアムはしばらく黙っていた。それから、小さく答えた。
「……わかりました」
サミュエルはそれを確認してから、ヘインズ氏へ目を向けた。ヘインズ氏が扉の外へ声をかける。
少しして、扉が開き、マギーが入ってきた。
伯爵は思わず立ち上がりかけた。
つい先日まで屋敷にいた娘は、今は見慣れない服を着ていた。ヘインズ家の誰かのものだろう。少し大きい。
袖口が手の甲にかかっている。髪も普段より簡単にまとめてある。けれど、顔色は悪くない。
……いや、悪くないと思いたかっただけかもしれない。
マギーは伯爵に礼をした。
「お父様……」
「マギー」
その名を呼ぶ。言いたいことは幾つもあった。
――なぜ黙って出た。心配した。無事でよかった。帰ろう。怒っていない。怒っている。
どれを先に言えばいいのか今の彼にはわからなかった。
その間に、マギーは椅子へ案内された。伯爵たちの真正面ではない。少し斜め。隣にはルーカスが座る。サミュエルはマギーと伯爵たちの間に入る位置に座った。
その席順を見て、ウィリアムが眉を寄せる。伯爵も気づいた。
――これは保護の席だ。
娘が、家族から守られる席に座っている。
父としてそのことを、どう受け止めればいいのかわからなかった。
「マギー」
サミュエルが横から声をかける。
「昨日の書付の通りでいい。順番を整えなくていい」
「はい」
マギーは膝の上に数枚の便箋を置いた。
手は少し固くなってはいたが、震えてはいなかった。
「お父様。私は、家を出たことを謝るべきなのかもしれません」
「マギー」
サミュエルが短く呼ぶ。マギーは少しだけうなずいた。
「けれど、今は謝る前に話します」
父は何も言わなかった。ウィリアムも黙っていた。今のところは。
「ロズリーが来た時、私は気の毒だと思いました。最初は、できるだけ親切にしたつもりです。廊下や庭のこと、使用人の名前、午後のお茶の時間。そういうことを教えました」
マギーは便箋を一枚めくる。
「でも、だんだん私に聞かなくなりました。お義母様に聞くようになって、父上やウィリアム兄様が助けるようになりました」
「それは」
ウィリアムが口を開きかける。サミュエルが兄を見た。ウィリアムは唇を閉じた。
マギーは続けた。
「居間の窓辺の椅子がありました。母が使っていた椅子です。母が亡くなってからは、私がそこで本を読んだり、刺繍をしたりしていました。ロズリーが、明るい場所でないと針目が見えにくいと言って、そこに刺繍箱を置くようになりました」
父はその椅子を思い出そうとした。窓辺の椅子。たしかにあった。
亡き妻が好んでいた場所だった。
そこにロズリーの刺繍箱が置かれていることにも、彼は何度か気づいていた。だが、深く考えなかった。空いている椅子を使っているだけだと思っていた。
「それから、青い布です」
マギーの指が便箋の端を押さえた。
「亡きお母様の肖像画の服に似た色でした。私が選んだ布です。伯母様の茶会に着るつもりでした。でも、お義母様がロズリーに回すと言いました。ロズリーは、もったいないと言いました。でも、手を布から離しませんでした」
伯爵は軽く息を呑む。
その話は聞いていた。ただし、そんなふうには聞いていなかった。
マギーには他にもある。ロズリーには新しいドレスが必要。そういう話だった。
淡い青だとか、母の肖像に似た色だとか、伯母の茶会に着るつもりだったとか、そういうことは誰も言わなかった。
いや、言わなかったのではない。マギーが言おうとしたのかもしれない。
それを、自分が聞かなかったのかもしれない。
「そして、ブローチです」
マギーは次の便箋を見た。
「茶会の日、ロズリーがつけていた真珠のブローチは、お母様の形見です。私の部屋の小箱に入れていました。鍵をかけていました」
父は顔を上げた。
「鍵を?」
「はい」
「マギー」
ウィリアムがたまらず口を挟んだ。
「あれはオードリー様が、今日だけと」
「兄上」
サミュエルの声が低くなった。
「しかし」
「遮らない約束です」
ウィリアムは息を吐き、椅子の肘をつかむ。マギーは兄を見なかった。
「小箱には鍵をかけていました。けれどお義母様が出して、ロズリーに渡しました。今日のお茶会には似合うから、と。私は返してほしいと言いました。でも、返してもらえませんでした」
「ロズリーは知らなかったんだ」
ウィリアムは、今度は止まらなかった。
「オードリー様が渡したものを、マギーのものだとは知らずに」
「ウィリアム!」
伯爵は声を上げた。ウィリアムは父を見る。
「ですが父上、そこは」
「黙れ」
短い言葉だった。ウィリアムは息を飲んだ。
伯爵も、自分で言ったあと少し驚いた。だが、今は言わせてはならないと思った。
鍵をかけた小箱。亡き妻の形見。それを、誰かが開けた。
そこを聞く前に、またロズリーは知らなかったことにする。
……昨日からずっと、その繰り返しではないのか。
「マギー」
父は声を落とした。
「その小箱の鍵は、誰が持っていた」
「私です」
「他には」
「わかりません」
マギーは首を横に振った。
「でも、以前にも似たことがありました。小箱に入れていたはずのものが、別の場所から出てきました。リボン、しおり、小さな香水瓶。私の置き忘れだと言われました」
「誰に」
「お義母様に」
伯爵は返事をしなかった。
部屋の中で、暖炉の薪が小さく崩れた。ヘインズ氏が火掻き棒に手を伸ばし、燃えさしを奥へ押した。日常の動作だった。そのおかげで、誰もすぐ次の言葉を急がずに済んだ。
卓の上の茶器を見る。茶はまだ注がれていない。
ウィリアムも黙っている。だが、その肩には力が入っていた。
マギーは便箋をもう一枚持っている。まだ話は終わっていないのだ。
「私は」
マギーはそこで、少し息を吸った。
「茶会の日、ロズリーのお支度を手伝うように言われました。私の布で作ったドレスを着て、母のブローチをつけたロズリーの支度です」
目を閉じかけた。だが閉じなかった。見なければならないと思った。
「それで、家を出ました」
マギーは言った。
「このままいたら、お父様を嫌いになると思いました。ウィリアム兄様も。お義母様も。ロズリーも。あの家も」
ウィリアムが顔を上げた。父は手を膝の上で握った。
「……まだ、嫌いになりたくありませんでした」
それは責める声ではなかった。
だから余計に、父はすぐ返す言葉を見つけられなかった。




