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悪役令嬢は、全てを憶えている。  作者: おみおつけず


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第5話 階段事件

 卒業式まで残り一月を切った頃その紙飛行機は届いた。


『最後のお願いなんだけどさ』


 いつもと変わらない書き出し。けれど続く文面を読んだ瞬間わたくしは息を止めた。


『明日の放課後、西棟の階段でフィーネさんを突き落として。軽い怪我で済むように、ちゃんと加減してね』


 手が震える。何度も文字を読み返すもののそこに書かれた意味は変わらない。


 これまでの命令とは明らかに違う。花を踏むことも令嬢を泣かせることも所詮は評判を落とすだけの茶番だった。けれど今度は人を傷つけろという命令。しかも相手はあの純粋なフィーネだった。


 翌朝わたくしは意を決して殿下の前に立った。


「殿下、この命令だけは……お受けできません」


 珍しく声が震えていた。今まで一度も逆らったことのないわたくしの拒絶に殿下は一瞬だけ目を丸くする。


「え、なんで? いつも通りやってくれればいいだけだよ」


「フィーネ様を傷つけるようなことは、どうかご容赦を……」


「リーゼ」


 殿下の声のトーンが僅かに低くなった。


「これは、お願いじゃなくて、契約だよ」


 その一言で全身が凍りつく。手の甲の紋章が一気に熱を持ち始めた。


「……っ」


 抵抗しようとするたびに焼けるような痛みが体を貫く。膝から崩れ落ちそうになるのをどうにか堪えた。


「分かるでしょ? 逆らったら、どうなるか」


 殿下は困ったように眉を下げながらそう言った。責めているようでいてどこまでも優しい口調のまま。その温度差が何よりも恐ろしかった。


「……分かって、おりますわ」


 声を絞り出すのがやっとだった。


 放課後西棟の階段。フィーネが一人で降りてくるのが見えた瞬間わたくしの足は勝手に動き出す。契約に操られているのか自分の意志なのかもう分からなかった。


「フィーネ様」


 振り返った彼女の目に映る一瞬の無防備な笑み。その笑顔が視界に焼きついたまま、わたくしは彼女の肩に触れた。


「……ごめんなさい」


 小さく呟いた声は誰にも届かなかっただろう。


 指先に力を込めた瞬間、時間の流れが不自然なほど緩やかになったように感じられた。フィーネの体がゆっくりと傾いでいく。伸ばした手が空を掻き、彼女の唇から短い驚きの声が漏れた。


「――え」


 バランスを崩した体が階段の縁を踏み外す。踏み外した右足がもう一段下を探るように空を切り、そのまま重心が後方へと崩れていった。


 この階段は踊り場まで十二段。フィーネが踏み外したのは八段目のあたりだった。


 八段目。踵が石段の角を叩く鈍い音。


 七段目。手すりへ伸ばされた指先が届かず宙をかすめる。


 六段目からは受け身も取れないまま体が横向きに転がり始めた。制服のスカートが翻り長い髪が段差の上で乱れる。肩、背、そして肘が交互に石段に打ちつけられるたび乾いた音が廊下に響いた。残る五段を転がり落ちきったところでようやく踊り場へと辿り着く。


 踊り場に叩きつけられるようにして彼女の体はようやく止まる。静寂が数秒続いた後遅れて短い悲鳴が上がった。フィーネの体は横倒しのまま右の足首を押さえて丸くなっている。乱れた髪の隙間から覗く顔は蒼白で唇が微かに震えていた。


「フィーネ様っ」

「大丈夫ですか、誰か医務室を!」


 周囲にいた生徒たちが一斉に駆け寄る。廊下は瞬く間に人だかりになった。


「な、なんでこんなことするんですか……! 信じられません……!」


 フィーネの声には涙が滲んでいた。怒りよりも深い、裏切られたことへの悲しみだった。


 わたくしは何も言えないまま立ち尽くしていた。指先にはまだ彼女を押した時の感触が生々しく残っている。弁解の言葉すら、契約が許してはくれなかった。


「大丈夫かい、フィーネさん!」


 どこからともなく現れた殿下がフィーネを抱き起こす。心配そうな表情には一片の演技も感じさせない見事さがあった。


「もう、限界だ」


 殿下はわたくしを一瞥もせず低く呟いた。その声に初めて聞く硬さがあった。


「彼女との婚約は、近いうちに正式に終わらせる」


 周囲から安堵にも似たどよめきが起こる。誰もが殿下の判断を当然のことのように受け止めていた。


 わたくしはその場を後にした。誰の目にも留まらないよう、いつも通りの静かな足取りで。


 その夜自室の鏡に映る自分の顔はひどく虚ろだった。何かを失ったというよりもうずっと前から空っぽだったことに今更気づいたような、そんな表情。


 けれど不思議と涙は出なかった。代わりに胸の奥で小さな声が囁く。


 ――もうすぐ、終わる。


 何が終わるのか自分でも正確には分からない。ただこの長い演技にも遠からず幕が下りる、その予感だけが確かにあった。


 窓の外の月はいつもより低く冷たく見えた。



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