第4話 聖女登場
その少女が学園に転入してきたのは秋の初め。
「聖女様がいらっしゃったんですって」
廊下は朝からその話題で持ちきりだった。異世界から召喚されたという少女。銀色に近い淡い髪と大きな瞳が印象的で誰もが一目でその存在に惹きつけられていた。
「初めまして、フィーネと申します。よろしくお願いしますね」
教室で挨拶する彼女の口調はどこか幼く語尾がふわりと甘い。育ちの良さとはまた違う独特な柔らかさがあった。異世界の常識に不慣れなせいか時折言葉遣いがちぐはぐになるのも彼女らしさとして受け入れられていくようだった。
―――
転入から間もなくフィーネの噂は別の意味でも広まるようになった。
体育の授業中に転んで足を痛めた下級生がいた。駆けつけた保健医が手を焼く中フィーネがそっと膝をつき少女の足首に両手をかざす。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、ですぅ」
柔らかな光が指先から零れ落ちる。数秒後少女は驚いた顔で自分の足首を確かめていた。
「あ……痛くない……!」
「よかったです。無理しちゃ駄目ですよ」
フィーネは照れくさそうに笑ってその場を後にした。この手の光景は珍しくなかった。捻挫、擦り傷、時には熱を出した生徒の看病まで。彼女は請われれば断ることなくその力を振るった。
休みの日には城下町へ足を運ぶこともあった。
「孤児院の子どもたちに会いに行くんですぅ。お薬も、少し持っていきますね」
護衛の目を盗むようにして町へ出ては炊き出しを手伝ったり病人の家を訪ねたりしているという話をわたくしも人づてに聞いていた。城下の民の間では既に「聖女様」という呼び名が親しみを込めて定着しつつあった。
「あの聖女様のおかげで、うちの婆さんの咳がだいぶ楽になったのよ」
「本当に、天からの授かりものだねぇ」
市場で交わされるそんな会話を耳にするたびわたくしは複雑な思いを抱いた。彼女は間違いなく本物だった。悪意もなく打算もなく、ただ純粋に人を助けることに喜びを見出している。だからこそ殿下の嘘を疑うことなく信じてしまうのだろう。善良さそのものが弱点になっている。そう思うと、憎む気にはどうしてもなれなかった。
―――
わたくしは遠くからその様子を眺めていた。関わるつもりはなかった。これ以上誰かを巻き込みたくはない。
けれど殿下は違った。
「フィーネさん、大丈夫? 学園生活、慣れないことも多いでしょ」
殿下は驚くほど自然に彼女へ近づいていく。困った顔で微笑みながらさりげなく手を差し伸べる仕草はいつもと同じ、けれど今度の相手は違った。
「殿下……ありがとうございますぅ。わたし、右も左も分からなくて、心細かったんですけど」
「僕でよければ、いつでも頼ってよ」
二人の距離は日を追うごとに縮まっていった。中庭で並んで歩く姿を何度も見かけるようになる。
ある日図書館の陰で殿下がフィーネに何か話しているのが聞こえてきた。
「実はさ、婚約者のことで、ちょっと悩んでるんだよね」
「え、そうなんですか……?」
「あの子、昔から気性が激しくてさ。使用人にきつく当たったり、令嬢たちを泣かせたり……僕もいろいろ庇ってはいるんだけど、正直しんどい時もあるんだよね」
その声には嘘の欠片も感じさせない、いつもの人懐っこい響きがあった。
「そんな……殿下、ずっと我慢してたんですね。ひどいです」
フィーネの声に混じる同情の色。彼女は本気で殿下を案じているようだった。悪意など微塵もない、ただ純粋に信じているだけの声。
それから彼女のわたくしを見る目が変わっていった。
「あなたが噂の……」
廊下ですれ違う際フィーネがぽつりと呟いた言葉には明確な棘があった。
「殿下、いつも大変そうにしてますよ。もう少し、優しくしてあげてほしいですけど……」
「……」
わたくしは何も言えなかった。契約が喉を締めつける前に、そもそも反論する言葉すら見つからなかった。彼女は騙されている。そう伝えたところで信じてもらえるはずもない。むしろ余計に嫌われるだけだろう。
昼休み中庭のベンチでフィーネと殿下が親しげに話しているのを遠目に見た。楽しそうな笑い声が風に乗って届く。
「殿下って、本当に優しいですよね。あんな婚約者がいるのに、いつも笑ってて……わたし、尊敬します」
「そんなことないよ。ただ、逃げ出さないだけ」
殿下は少し寂しげな表情を作ってみせた。その演技の巧みさに今更ながら背筋が冷えるのを感じる。
わたくしはそっとその場を離れた。誰にも見られないよう、いつもの静かな足取りで。
夜自室の窓辺に座りわたくしはその日あったことを一つずつ思い返す。フィーネの声。殿下の演技。廊下ですれ違った時の冷たい視線。
傷つかないと言えば嘘になる。けれどそれ以上に胸を占めていたのは、ある種の確信めいた予感だった。この物語には終わりが来る。その時が来たら、すべてが明らかになる。
窓の外の月は今夜も静かに輝いている。誰にも知られないまま、わたくしはまた一日を胸の奥にしまい込んでいくのだった。




