第3話 孤立
季節がいくつか巡る頃には誰もわたくしに近寄らなくなっていた。
学園の廊下を歩けば潮が引くように人が離れていく。教室に入れば会話が止まる。それが日常になっていた。
「また、あの方が誰かを泣かせたらしいわ」
「関わらない方がいいですって」
背中に刺さる囁き声にはもう慣れたつもりでいた。けれど慣れることと平気であることは違う。夜になると胸の奥がひりひりと痛んだ。
婚約者であるはずの殿下とは人前でこそ言葉を交わすもののそれ以外の時間はほとんど交流がなくなっていた。命令書だけが夜な夜な届く。まるで取引先からの業務連絡のように。
『明日、令嬢会でカップを割って』
『侯爵家のご子息に、失礼な態度を取って』
わたくしはただ従うだけの人形になっていくようだった。
ある日屋敷に戻るとお父様――公爵が険しい顔で待っていた。
「リーゼ。学園長から報告書が届いた。お前はまた、令嬢を一人泣かせたそうだな」
「……申し開きはできませんわ」
わたくしは目を伏せたまま答える。契約の内容を明かすことはできない。どんなに苦しくてもそれだけは絶対に破れない約束だった。
「なぜだ。お前は昔から優しい子だった。それなのに、最近のお前はまるで別人のようだ」
お父様の声には怒りよりも困惑と悲しみが色濃く滲んでいた。それがかえって胸を締めつける。
「殿下との婚約に、何か問題でもあるのか。言ってごらん、父として力になる」
「……何もございません」
嘘をつくたびに心のどこかがすり減っていくのを感じていた。お父様は諦めたように息を吐きこれ以上は何も言わなかった。ただその背中は以前よりも小さく見えた。
―――
その頃届いた命令書は今までとは明らかに毛色が違っていた。
『今度は、僕を悪者にするような嘘をついてほしいんだ』
何度も読み返した。理由が添えられていたのはこれが初めてだった。
『心配しないで。ちゃんと僕が切り返すから。それに、これは君のためでもあるんだよ』
意味を測りかねたまま指示された通りの場所と時刻に向かう。教師や上級生が数多く集まる学級会の場。
「殿下は……4日前の夜わたくしに、婚約者としての立場を利用して、心にもないことを強いられましたわ」
声を震わせながらそう告げた。あらかじめ渡された台本の通りに。周囲がざわめく。
「なんだって? リーゼ嬢、それは穏やかではない話だ」
教師の一人が眉をひそめた。
するとちょうど計ったように殿下が現れる。困惑した表情を浮かべながらも決して声を荒らげはしなかった。
「リーゼ、それは違うよ。その日僕は、夜遅くまで陛下と謁見していたんだ。証人なら何人でもいる」
殿下がそう言うと近くにいた騎士や文官たちが次々と頷いた。
「確かに、殿下はあの日一日中陛下のお側に」
「では……リーゼ嬢の仰ったことは」
「誤解、というより……」
殿下は悲しげに目を伏せてみせた。
「彼女、最近少し思い詰めているようなんだ。僕のことを、悪く言わずにはいられないくらいに」
その場にいた誰もが憐れむような、あるいは呆れたような視線をわたくしへ向けた。
「なんてことを……根も葉もない話で殿下を貶めようとするなんて」
「やはり、あの噂は本当だったのね」
わたくしは何も言い返せなかった。契約に従っただけだとは誰にも明かせない。ただその場に立ち尽くし非難の視線を浴び続けるしかなかった。
この日を境に「リーゼは殿下を陥れるために平気で嘘をつく」という評判が学園中に広まっていった。以前からの悪評に、新たな色が加わったのである。
「殿下を貶めるためなら、どんな作り話も厭わないなんて」
「今度、もし何を言い出しても、真に受けない方がいいわ」
わたくしはその意味を後になって理解した。これは単なる嫌がらせではない。殿下にとっての保険だったのだ。もし将来わたくしが契約のことを口にしても、誰も信じはしない。むしろ「いつもの嘘」として片付けられるだけ。そう仕組まれていたのである。
その巧妙さに寒気を覚えた。同時にどこか納得もしていた。殿下という人は、いつも十手先まで見据えて動く人だったから。
―――
お母様は何も言わずただわたくしの手を握りしめる夜が増えた。何も聞かず何も咎めず。それがどれほど有り難くまたどれほど心苦しかったか。
「リーゼ、あなたが何を抱えていても、母はあなたの味方ですよ」
その一言に何度救われたか分からない。同時に真実を話せない自分をどれほど責めたか分からない。
使用人たちの中にも離れていく者が増えていった。かつて親しくしていた侍女が別の令嬢に仕えたいと申し出たと聞いた時は流石に堪えるものがあった。
唯一マリーだけが変わらず側にいてくれた。多くを語らず必要な時にだけそっと寄り添ってくれる存在。それだけがわたくしの支えだった。
「お嬢様、お茶をお淹れしました」
「……ありがとう、マリー」
カップを受け取る手が微かに震えていることにマリーは気づいていたはずだ。それでも彼女は何も聞かなかった。
夜寝室で一人になるとわたくしはいつものように今日あったことを静かに振り返る癖がついていた。花壇のこと。令嬢の涙のこと。お父様の悲しげな顔のこと。ひとつひとつを丁寧になぞるように。
なぜこんなことを続けているのか自分でも分からなくなる夜もあった。ただ胸の奥深くに小さな確信だけが残っていた。この痛みも孤独もいつか意味を持つ日が来るはずだと。
窓の外では星が静かに瞬いている。誰も知らない秘密を抱えたまま、わたくしはまたひとつ夜を越えていくのだった。




