第2話 悪役生活の始まり
最初の「お願い」が届いたのは契約から半年ほど経った頃。
夜更けわたくしの部屋の窓に小さな紙飛行機が舞い込んだ。開くと殿下の字でこう書かれていた。
『明日の午前、庭園の花壇を踏み荒らして。理由はいらないよ。ただ踏んで』
わたくしは何度もその文字を見返した。意味が分からない。けれど手の甲の紋章がじわりと熱を持ち始める。契約が返事を急かしているように感じられた。
断ることはできない。
翌朝わたくしは庭師が丹精込めて育てた花壇の前に立った。真っ赤なチューリップが朝露を光らせて並んでいる。
「……ごめんなさい」
誰にも聞こえない声で謝ってからわたくしはその花を踏み荒らす。靴の下で茎が折れる感触が今でも忘れられない。
「きゃあっ、なんてことを!」
通りかかった令嬢たちが悲鳴を上げた。ちょうどその時まるで計ったかのように殿下が現れる。
「やめるんだ!」
殿下は駆け寄りわたくしの腕を掴んで花壇から引き離した。周囲がざわめく。
「ひどい……公爵令嬢ともあろう方が、なぜこんなことを」
令嬢たちの視線が突き刺さる。殿下はわたくしを庇うように前に立ちながら令嬢たちに向かって困ったように微笑んだ。
「ごめんね、彼女、少し気が立ってるみたいで」
その言葉に令嬢たちの表情が和らぐ。「殿下も大変ですわね」「お労しい」――そんな声が漏れ聞こえてきた。
わたくしは何も言えない。契約が口を塞ぐように喉の奥を締めつける。
その夜殿下がこっそりわたくしの部屋を訪ねてきた。
「お疲れさま、リーゼ」
まるで何事もなかったかのような軽い口調。
「殿下……本当に、これでよろしいのですか」
「うん、完璧だったよ。ありがとう」
殿下はにこにこと笑いながらわたくしの頭を撫でる。子供扱いするようなその手つきが妙に馴染んでいてわたくしは何も言い返せなかった。
「僕、将来ちゃんと王様になったら、全部説明するから。今だけ、我慢してね」
「……分かっておりますわ」
わたくしは俯いたまま頷く。信じるしかなかった。信じることでしかこの痛みに意味を持たせることはできなかったのである。
―――
それから命令は月に何度も届くようになる。
『使用人を理由もなく叱ってほしいんだよね』
『令嬢たちの前で、僕に向かって暴言を吐いて』
『パーティーで、誰かのドレスにワインをこぼして』
どれもわたくしの意志とは無関係なただの筋書きにすぎない。
わたくしは指示された通りに動きそのたびに周囲から白い目で見られる。そして必ず殿下が颯爽と現れて場を収めるのだった。
「やめてあげて」
「彼女にも事情があるんだ」
「僕が悪いんだよ、彼女をもっと気にかけてあげるべきだった」
殿下の優しい言葉が広まるたびわたくしの評判は地に落ち殿下の評判は輝きを増していく。まるでシーソーのように片方が沈めばもう片方が浮かび上がるのであった。
使用人のマリーだけはわたくしを庇おうとしてくれた。
「お嬢様、本当にそんなことを……? なんだか、信じられません」
「マリー、余計な詮索は無用ですわ」
わたくしはそう言ってマリーを遠ざける。巻き込みたくなかったのだ。この契約の重さを誰にも背負わせるわけにはいかない。
夜一人になるとわたくしはいつも同じことを考えるのが常であった。この魔法陣の紋章はいつか消える日が来るのだろうか?これだけ強力なのだ。何かのきっかけで消せるのかもしれない……と。
殿下は「将来説明する」と言っていた。その言葉だけを支えにわたくしは日々を耐え忍ぶ。
けれど心のどこかでは――幼い頃にそっと紡いだあの魔法のことをわたくしは決して忘れてはいなかった。誰にも打ち明けていない小さな習慣。毎晩眠りにつく前にその日の出来事をもう一度なぞるように、机の上にある小さな水晶を握る。
なぜそうしているのか自分でも理由は判然としない。ただいつか必要になる予感だけが胸の奥に小さく灯っているように思われた。
窓の外には変わらず美しい月が浮かんでいる。殿下の笑顔と同じくらい綺麗で――そしてどこか作り物めいて見えるのであった。




