第1話 契約の日
あの日の庭園の匂いを、わたくしは今でもはっきりと覚えております。
薔薇が咲き乱れる王城の裏庭。侍女たちの目を盗んで、わたくしたち二人だけがおりました。まだ八歳になったばかりの、幼い二人きりでした。
「ねえリーゼ」
殿下はいつものように、人懐っこい笑みを浮かべてわたくしの名を呼ばれました。少し垂れた目尻と、悪戯っぽく上がる口角。その笑い方が、わたくしは昔から大好きでしたわ。
「はい、殿下」
わたくしは膝を折り、淑女らしくお返事いたしました。まだ子供ではありましたけれど、公爵家の娘として礼儀だけは厳しく叩き込まれておりました。
「君に、お願いがあるんだけどさ」
殿下は薔薇の茂みの陰へしゃがみ込み、わたくしを手招きなさいました。その表情は普段と何一つ変わらず、明るく屈託のないものでした。ですからわたくしは何の疑いも抱かずに近づいてしまったのです。
「僕、正しい王様になりたいんだよね」
殿下はぽつりとそう仰いました。
「はい。殿下ならきっと、立派な王様になられますわ」
「でもさ」
殿下は少しだけ声を落とし、わたくしの目を真っ直ぐ覗き込まれました。
「英雄には、悪役が必要じゃない? 物語ってさ、悪い人がいるから、良い人が輝くんだよね」
幼かったわたくしにはその言葉の意味がよく分かりませんでした。ただ、殿下が何かとても大切なお話をなさっているのだということだけは伝わってまいりました。
「殿下……仰っている意味が、よく……」
「君に悪役になってほしいんだ」
殿下ははっきりとそう仰いました。まるで今日のおやつは何がいいかと尋ねるような、あまりにも軽い口調でした。
「え……」
わたくしは言葉を失いました。悪役。その響きは、幼いわたくしの胸へひどく重く落ちてまいりました。
「安心して。全部演技だから」
殿下はわたくしの手を取り、にっこりと微笑まれました。
「二人だけの秘密ね。ちゃんと後で全部説明するから」
その笑顔をわたくしは信じてしまいました。愚かだったと今なら分かります。けれど当時のわたくしにとって、殿下の笑顔は世界で一番安心できるものでしたの。
「殿下が……そう仰るのでしたら」
わたくしは静かに頷きました。殿下は満足そうに頷き返し、懐から小さな魔法陣の描かれた紙を取り出されました。
「これに名前を書いてくれる? 僕らの約束をちゃんと形にしておきたいんだ」
契約魔法。
王家にのみ伝わる古い魔法でした。当時のわたくしは、その恐ろしさなど少しも知りませんでした。ただ、殿下との絆がもっと強くなるのだと、そう信じ込んでいたのです。
紙には、こう記されておりました。
一、王子の命令には絶対に従うこと。
一、この契約の内容を、決して他者に明かさぬこと。
一、契約を違えた場合、その命をもって償うこと。
幼いわたくしはその文言の重さを理解できませんでした。ただ殿下がお望みになるのでしたら、と震える指先で自分の名前を書きました。
紙が淡く光り、わたくしの手の甲へ小さな紋章が浮かび上がりました。焼けるような熱さが一瞬走り、そしてすぐに消えていきました。
「ありがとうリーゼ」
殿下は嬉しそうに笑われました。その笑顔を見て、わたくしも何も知らないまま微笑み返してしまいました。
けれど。
紋章が肌へ刻まれたあの瞬間、わたくしの中で何かがすっと冷たくなったのを覚えております。子供心にも、本能で感じ取ってしまったのかもしれません。この約束は決して優しいものではないのだと。
殿下が背を向けられた隙に、わたくしはそっともう一つの魔法を紡ぎました。お母様から教わった、古い古い魔法の欠片でした。誰にも見せたことのない、小さな小さな祈りのような魔法でしたわ。
「大切なものは、目に見える形で残しておきなさい」
いつだったでしょうか。お母様はそう仰りながら、その魔法を教えてくださいました。あの頃のわたくしには何のために使うものなのか分からず、ただおまじないのように覚えただけでした。
この日から始まる全てをいつか誰かに証明できるように――そんな予感だけが幼いわたくしの胸をかすめていきました。
なぜそんなことをしたのか、幼いわたくし自身にも分かりませんでした。ただ胸の奥で小さな声が囁いたのです。
「いつか、この笑顔の裏側を見る日が来るかもしれませんわ」
夕暮れの庭園で殿下はまだ無邪気に笑っておられました。
「これで僕たち、本当の意味で運命共同体だね」
わたくしはその言葉の本当の意味をまだ知りませんでした。
――知ることになるのは、それから十年以上先のことでしたわ。




