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第6話:謝罪は、成立してしまった

「エレナ・ラウレンティア」


 公爵家嫡男ユリウス・ヴェルナーは、そう呼んだ。

 かつて婚約者だった人の声だった。

 王宮の小広間は、広すぎなかった。


 玉座の間ではない。

 祝宴の間でもない。

 断罪の広間でもない。

 貴族院が調停に使う、王宮奥の小部屋だった。


 今日はそこに、貴族院の証人が立ち会い、書記官が記録を取り、両家の代表が沈黙している。

 謝罪のために整えられた部屋。

 そう説明された。


 エレナは、その言葉を聞いたとき、少しだけ妙だと思った。

 謝罪とは、部屋を整えれば始まるものなのだろうか。


 椅子。

 証人。

 記録係。

 白い布をかけた机。

 封蝋された謝罪文。


 全部、きちんと揃っている。

 だからこそ、まだ何かが足りなかった。


「本日は」

 ユリウスは、机の向こうで頭を下げた。


「私があなたに行った婚約破棄、および、その場での発言について、正式に謝罪するために参りました」

 参りました。

 その言い方が、少しだけ遠かった。


 けれど、エレナは黙って聞いた。

 三か月前。

 彼は大勢の前で言った。


 君との婚約を破棄する。

 君は冷たい。

 君はヴェルナー公爵家に相応しくない。

 私が愛しているのは、心優しいミリアだ。


 会場は凍った。

 誰かが息を呑んだ。

 誰かが視線を逸らした。

 誰かが、少しだけ笑った。


 エレナは、その日のことをよく覚えている。

 何を言われたかよりも、言い終えた後の静けさを覚えている。

 あの静けさの中で、自分の名前がどこにも置かれていなかった。


 冷たい令嬢。

 捨てられた婚約者。

 愛されなかった女。

 そういう形だけが、先に置かれていった。


 その後、調査が入った。

 ミリアの証言には矛盾があった。

 ユリウスの側近が、エレナの手紙を握り潰していた。

 婚姻準備教育の記録には、彼女が怠慢だった証拠などなかった。

 むしろ、ヴェルナー公爵夫人が直筆で評価を書き残していた。


 冷たいのではなく、礼儀を守っていた。

 無関心なのではなく、私的な感情を公的な場へ持ち込まなかった。

 愛されなかったのではなく、言い分を聞かれなかった。


 そういう報告書が、ようやく積み上がった。

 ヴェルナー公爵家は非を認めた。


 婚約破棄は不当。

 エレナ・ラウレンティアに瑕疵なし。

 ユリウス・ヴェルナーには、正式謝罪を命ずる。


 だから、今日がある。

 謝罪のために整えられた部屋で。

 彼が、頭を下げている。


「私は、あなたの言葉を聞きませんでした」

 ユリウスは言った。


「あなたが何度も説明しようとしていたことを、私は冷たさと受け取りました」

 書記官の羽ペンが動く。


「あなたが守っていた礼儀を、私は壁だと思いました」

 羽ペンが、紙の上を滑る。


「あなたが黙っていた時間を、私は罪の沈黙だと決めつけました」

 エレナは、机の上の謝罪文を見ていた。


 よく整った文章だった。

 公爵家付きの文官が見たのだろう。

 失言はない。

 責任の所在も曖昧ではない。

 謝罪すべき事実が、きちんと並んでいる。

 あまりにもきちんとしている。


「エレナ」

 ユリウスが、初めて少しだけ声を崩した。


「私は、あなたを傷つけました」

 エレナは顔を上げた。

 彼はまだ頭を下げている。


「傷つけた、という言葉では足りないことも分かっています」

 沈黙が落ちる。


「あなたの立場を壊し、家の名誉を傷つけ、人前であなたの人生を別の形にしてしまった」

 その声は、先ほどより低かった。


「許されることではありません」

 エレナは、指先を膝の上で重ねた。


 許されることではない。

 そう言われると、少しだけ困った。

 許すかどうかは、自分が決めることのはずだった。


 けれど、許されることではないと言われると、まるで彼が先に、自分の罪の形まで決めているように聞こえた。


「謝罪を、受けていただけるでしょうか」

 ユリウスが言った。


 部屋の全員が、エレナを見た。

 証人。

 書記官。

 両家の代表。

 調停室の侍従。


 誰も急かしてはいない。

 だが、部屋の形そのものが、答えを待っていた。


 謝罪をする者がいる。

 謝罪を受ける者がいる。

 記録する者がいる。

 見届ける者がいる。


 次に必要なのは、返答だった。

 エレナは、ゆっくり息を吸った。


「謝罪は、聞きました」

 ユリウスの肩が、わずかに動いた。

 顔は上げない。


「あなたが何を間違えたのか、言葉にしたことも分かりました」

 書記官の羽ペンが止まりかける。


「ヴェルナー公爵家が不当だったと認めたことも、記録されるのでしょう」

 エレナは、机の上の謝罪文に視線を落とした。


「それは必要なことです」

 必要。

 そう、必要だった。


 彼が謝ること。

 公爵家が認めること。

 記録が改められること。

 ラウレンティア家の名誉が戻ること。

 全部、必要だった。


 それでも。


「今すぐ、答えは出せません」

 部屋の空気が止まった。

 ユリウスが、初めて顔を上げる。


「エレナ」


「私は、今日ここで、あなたを許すとも許さないとも言えません」

 自分の声が、思ったより静かだった。


「謝罪を聞いたことと、私の答えが出ることは違います」

 誰かが小さく息を呑んだ。


 エレナは続けた。

「私はまだ、怒っています」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。


「私はまだ、恥ずかしかった日のことを思い出します」

 誰も動かなかった。


「私はまだ、あの日から別の名前で呼ばれた時間を、どう扱えばいいのか分かりません」

 捨てられた令嬢。

 冷たい婚約者。

 愛されなかった女。


 それらは、謝罪文の上で消えるのだろう。

 けれど、聞いた耳の中からは、すぐには消えない。


「だから」

 エレナはユリウスを見た。


「謝罪は、聞きました」

 もう一度、言った。


「でも、今すぐ、答えは出せません」

 ユリウスは、何かを言いかけた。


 けれど、言わなかった。

 それは、彼が今日初めてした、正しい沈黙だった。


 長い沈黙の後、彼はもう一度頭を下げた。

「分かりました」

 声は掠れていた。


「待ちます」

 エレナは、ほんの少しだけ目を閉じた。


 謝罪は終わった。

 いや。

 終わったのかどうかは、まだ分からなかった。


 少なくとも、彼は言った。

 自分は聞いた。

 答えは、まだ出さなかった。

 それだけだった。

 それだけでよかった。


 そのときだった。


「あら」


 小広間の入口で、澄んだ声がした。


「もう謝られてしまいましたの?」


 白い聖女が立っていた。

 メアリー・ホワイト。


 彼女は、貴族院の証人を見た。

 書記官の紙を見た。

 封蝋された謝罪文を見た。

 頭を下げたままのユリウスを見た。

 そして、エレナを見た。


「なんて静かな謝罪でしょう」

 メアリーは、ゆっくりと室内へ入ってきた。


「叫びもなく」

「言い訳もなく」

「赦しを急かす言葉もなく」

 ユリウスは顔を上げなかった。


「遅すぎましたけれど」

 メアリーは、机の上の謝罪文へ目を落とす。


「ようやく後悔が言葉になりましたのね」

 正しかった。

 遅すぎた。


 けれど、言葉にはなった。

 ユリウスは謝った。

 貴族院は記録した。

 エレナは聞いた。

 そこまでは、確かに起きた。


「そして、エレナ様」

 メアリーは、エレナへ微笑んだ。


「あなたは、答えを急がれませんでしたのね」

 エレナは、すぐには返事をしなかった。


「許すことも」

「許さないことも」

「今はまだ、お選びにならなかった」

 メアリーの声は柔らかい。


「それもまた、謝罪を受け取る者に許された、大切な時間ですわ」

 それは、エレナが言いたかったことだった。

 たぶん、そうだった。


 自分は、許しを強制されたくなかった。

 許さないことを即座に宣言したかったわけでもなかった。

 ただ、答えをまだ出したくなかった。


 メアリーは、それを分かっている。

 分かっているはずだった。


「つまり」

 その一言で、小広間の空気が少し整った。

 エレナは、指先を握った。


「謝罪は成立いたしましたのね」

 成立。

 その言葉が、部屋の中へ置かれた。


「謝罪する者が、謝り」

「謝罪を受ける者が、聞き」

「答えを急がないことまで、きちんと場に残された」

 メアリーは、書記官を見る。


「とても静かで、正しい謝罪でしたわ」

 羽ペンが、止まっていた。

 書記官は迷うように、紙の上へ視線を落とす。


 貴族院の証人が、深く頷いた。

「その通りだ」


 誰かが言った。

「これで、謝罪は正式に果たされた」


 別の誰かが、安堵したように息を吐いた。

「ラウレンティア家への名誉回復も進められる」

「ユリウス様も、これで一つ責任を果たされた」


 言葉が、部屋の中を埋めていく。

 謝罪は成立した。

 責任は一つ果たされた。

 名誉は回復へ向かう。


 返答は急がない。

 どれも、間違っていなかった。

 間違っていないから、エレナはすぐに否定できなかった。


「いいえ」

 そう言うべきなのかも分からなかった。


 謝罪を聞いたのは本当だ。

 答えを急がないと自分で言ったのも本当だ。

 彼が今日、言い訳をしなかったのも本当だった。


 でも。


「私はまだ」

 声が出た。

 全員が、エレナを見る。

 メアリーも、静かに彼女を見る。


「私はまだ、許すとも許さないとも決めていません」

 メアリーは頷いた。


「ええ」

 優しい声だった。


「答えが出ていないままでも、謝罪の場面としては成立しておりますわ」

 成立。

 エレナは、その言葉を聞いた。


「許すことも、許さないことも、今ここで決めなくてよろしいのです」

 メアリーは微笑んだ。


「未決定のまま、正しく残せばよいのですわ」

 救われるような言葉だった。

 たぶん、本当に救われる言葉だった。


 それなのに、エレナは息が詰まった。

 答えが出ていないことまで、未決定という形で、場に残されてしまった。


 書記官が、羽ペンを動かす。

 かり、と乾いた音がした。


 謝罪、成立。

 返答、未決定。

 その二つの言葉が、記録の上に並んでいく。


 ユリウスは、もう一度頭を下げた。

「待ちます」

 今度は、少しだけ整った声だった。


 エレナは頷けなかった。

 頷かなくてもよいと、メアリーが言ってしまったから。


 小広間の空気は、静かに落ち着いていく。

 謝罪は終わった。

 答えはまだ。

 だから、今日はここまで。


 なんて正しい終わり方なのだろう。

 なんて息苦しい終わり方なのだろう。


 メアリーは、窓から入る光の中で、白く立っていた。

 誰かが、深く息を吐く。


「これで、前へ進めますね」

 誰のための前なのか、エレナには分からなかった。


 私はまだ、許すとも許さないとも決めていない。

 それなのに。


 その場面だけは、もう終わっていた。

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