第4話:まだ救われている途中です
「リリア・ノース」
神殿長は、白い石の壇上から名を呼んだ。
「あなたの祈りは、聖女の奇跡に値しない」
礼拝堂は静かだった。
静かすぎるほどだった。
高い天井。
白い柱。
朝の光を受ける聖女像。
その足元に、リリアは立っていた。
両手は前で重ねている。
祈りの形ではない。
震えを隠すためだった。
聖女候補。
そう呼ばれていた時間は、もう終わりかけている。
リリアの祈りは、派手ではなかった。
病を一瞬で消す光ではない。
折れた骨をその場で繋ぐ奇跡でもない。
死にかけた者を立ち上がらせる力でもない。
ただ、痛みの角を少しだけ丸める。
眠れない夜に、少しだけ眠りを降ろす。
息をするたびに泣いていた人が、次の朝に窓を見る。
それだけだった。
「記録によれば」
神殿長が、侍祭に持たせた書板を見た。
「リリア・ノースの施術を受けた者のうち、完全治癒に至った者は一名もいない」
礼拝堂の空気が動いた。
誰かが、小さく息を呑む。
「傷は残り、病は残り、歩けぬ者は歩けぬまま。痛む者は痛むまま」
神殿長は淡々と言った。
「これは慰めであって、奇跡ではない」
その言葉は、正しかった。
少なくとも、神殿の定めた記録の上では。
完全治癒。
即時回復。
不可逆損傷の修復。
死病の消滅。
聖女の奇跡とは、そういうものだと書かれている。
ならば、リリアの祈りは足りない。
ずっと、そう言われてきた。
「偽聖女」
誰かが、後列で囁いた。
小さな声だった。
だが、リリアには聞こえた。
偽。
その一文字は、何度聞いても慣れなかった。
「弁明はありますか」
神殿長が問う。
リリアは顔を上げた。
「あります」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
神殿長の眉が動く。
「では、述べなさい」
「私の祈りで、完全に治った方はいません」
礼拝堂がざわめいた。
認めた。
そういう空気だった。
リリアは続けた。
「ですが、今日ここに来てくださった方々がいます」
扉の方へ視線が向く。
礼拝堂の後方で、侍祭たちが戸惑っていた。
その間を抜けて、一人の男が進み出る。
痩せた兵士だった。
片腕は布で吊られている。
歩くたびに顔が少し歪んだ。
「名前を」
神殿長が言った。
「トマス・レイルです」
「リリア・ノースの祈りを受けた者か」
「はい」
「腕は治りましたか」
兵士は吊られた腕を見た。
「治っておりません」
ざわめきが広がる。
神殿長は頷いた。
「ならば――」
「痛みは、消えておりません」
兵士は、神殿長の言葉を遮らなかった。
ただ、その前に置くように言った。
「けれど、あの夜、眠れました」
神殿長が口を閉じる。
「戦場から戻ってから、ずっと眠れませんでした。腕が痛んでいたからだけではありません。目を閉じると、まだ火の中にいるようで」
兵士の声は震えていた。
「リリア様は、腕を治せませんでした」
彼は、リリアを見た。
「でも、あの夜だけは眠れました。朝まで。一度も叫ばずに」
礼拝堂の空気が、少し変わった。
次に進み出たのは、若い女だった。
杖をついていた。
足元は不安定で、付き添いの少女が腕を支えている。
「私はまだ歩けません」
女は先に言った。
「見れば分かります」
神殿長は何も言わなかった。
「リリア様に祈っていただいても、足は動くようになりませんでした。階段も上れません。庭にも一人では出られません」
女は、杖を握る手に力を込めた。
「でも、明日も生きてみようと思えました」
誰かが泣いた。
「それまで私は、朝が来るのが嫌でした。起きても同じだから。痛くて、動けなくて、誰かに迷惑をかけるだけだから」
女は、リリアを見た。
「リリア様は、治してはくださいませんでした」
それから、少しだけ笑った。
「でも、窓を開けてもいいと思わせてくださいました」
次に、老婆が出た。
「薬の匂いしか分からなかった夜に、食事の匂いがしました」
次に、少年が出た。
「泣かずに薬を飲めました」
次に、咳をする老人が出た。
「娘の声を、うるさいではなく、聞こえると思えました」
誰も、完全には治っていなかった。
痛みは残っている。
病は残っている。
傷は残っている。
足は動かない。
夜はまだ怖い。
朝がつらい日もある。
証言は、奇跡の記録には載らないものばかりだった。
治癒。
回復。
完治。
そういう欄には入らない。
それでも、その人たちは立っていた。
治っていない身体で。
まだ痛むままで。
まだ救われきっていない顔で。
リリアは、一人ずつを見た。
自分が何をしたのか、よく分からなかった夜がある。
祈っても、傷は閉じなかった。
祈っても、熱は下がりきらなかった。
祈っても、失われた足は戻らなかった。
ごめんなさい。
何度もそう思った。
奇跡と呼べるほどの光を持たない自分が、聖女候補としてここにいていいのか分からなかった。
けれど。
目の前の人たちは、来てくれた。
治っていない身体で。
歩きにくい足で。
眠れない夜の後で。
「リリア・ノース」
神殿長の声は、先ほどより低かった。
「あなたは、自分の祈りを奇跡だと主張しますか」
リリアは首を横に振った。
「分かりません」
礼拝堂が静まる。
「私は、神殿が定める奇跡を起こせません」
自分で言うと、胸が痛んだ。
でも、言わなければならなかった。
「けれど」
リリアは顔を上げた。
「治せなかったから無意味だった、とは言わせません」
それは、初めて口にする怒りだった。
大きくはなかった。
叫びでもなかった。
だが、リリア自身の中では確かに怒りだった。
「眠れた夜を、無意味だと言わないでください」
兵士が目を伏せた。
「窓を見られた朝を、記録外だと言わないでください」
杖の女が、唇を噛んだ。
「明日も生きてみようと思えた時間を、慰めにすぎないと言わないでください」
神殿長は、書板を見た。
完全治癒者、なし。
その記録は変わらない。
だが、礼拝堂に立つ者たちを前にして、その一行だけでは足りなかった。
神殿長は長く沈黙した。
やがて、書板を閉じる。
「神殿の記録を、改める」
礼拝堂がざわめいた。
「完全治癒には至らずとも、生活継続の意思を回復させた祈りを、救済記録として扱う」
リリアは息を止めた。
「リリア・ノース」
神殿長は、今度は正面から彼女を見た。
「あなたの祈りは、偽りではなかった」
誰かが泣いた。
誰かが手を合わせた。
杖の女が、付き添いの少女の手を強く握った。
リリアは、すぐには動けなかった。
偽りではなかった。
その一言が、胸の奥に落ちる。
聖女と呼ばれたわけではない。
偉大な奇跡だと認められたわけでもない。
治せなかった傷が治ったわけでもない。
それでも。
自分の祈りは、なかったことにはされなかった。
そのときだった。
「あら」
礼拝堂の入口で、澄んだ声がした。
「もう救われてしまいましたの?」
白い聖女が立っていた。
メアリー・ホワイト。
リリアは、その名を知っていた。
誰よりも美しい祈りを捧げる聖女。
争いの場を収め、悲しみに意味を与え、終わらない痛みに朝を連れてくる人。
メアリーは静かに礼拝堂へ入ってきた。
神殿長を見た。
閉じられた書板を見た。
杖の女を見た。
吊られた腕の兵士を見た。
そして、リリアを見た。
「リリア様は、皆様を救われたのですね」
その言葉は、正しかった。
少なくとも、この場の誰も、それを否定できなかった。
メアリーは、兵士の前で立ち止まった。
「痛みが消えなくても、眠れる夜があります」
次に、杖の女を見る。
「歩けなくても、窓を見る朝があります」
老婆を見る。
「病が残っていても、食事の匂いに気づく日があります」
メアリーは両手を胸の前で重ねた。
「救いとは、すべてを元通りにすることだけではありませんわ」
礼拝堂の空気が、彼女の声に沿って整っていく。
「失われたものを戻せなくても」
白い光が、聖女像の足元に落ちていた。
「もう一度、明日へ顔を向けられるなら」
メアリーは微笑んだ。
「それもまた、救いの形ですわ」
誰かが、深く息を吐いた。
兵士が泣いていた。
杖の女も、老婆も、少年も。
その涙は、苦しみだけのものではなかった。
リリアも、分かっていた。
メアリーの言葉は、間違っていない。
自分が言えなかったことを、彼女はあまりにも美しく言ってくれた。
「皆様は」
メアリーは、礼拝堂全体を見回した。
「もう救われていたのですわ」
その瞬間。
リリアは、少しだけ息が詰まった。
もう。
その一語が、胸に引っかかった。
礼拝堂にいた人々が、静かに頷いていく。
「そうか」
「救われていたんだ」
「私たちは、もう」
違う。
そう思った。
気づいたときには、声に出ていた。
「いいえ」
礼拝堂の視線が、リリアへ向く。
メアリーも、ゆっくりと振り返った。
怒ってはいなかった。
驚いてもいないように見えた。
ただ、不思議そうにリリアを見ていた。
「まだ、救われている途中の方もいます」
リリアの声は震えていた。
「眠れない夜は、また来ます」
兵士の肩がわずかに動いた。
「窓を見られない日もあります」
杖の女が、目を伏せた。
「食事の匂いが、また分からなくなる日もあります」
リリアは、自分の両手を握った。
「救われた日があったことと、もう救われたことは、同じではありません」
礼拝堂は静かだった。
メアリーは、少しだけ首を傾げた。
「けれど、救いは確かに届いておりましたわ」
「はい」
リリアは頷いた。
「届きました」
嘘ではない。
届いたから、ここにいる。
届いたから、証言してくれた。
届いたから、神殿の記録は改められた。
「でも、まだ続いています」
リリアは言った。
「見られない日もあります」
その言葉は、美しくなかった。
朝の祈りのようでもなかった。
聖女像の下に置くには、不揃いだった。
けれど、リリアにはそれしか言えなかった。
メアリーは、何も言わなかった。
しばらくして、そっと微笑んだ。
「そうですの」
その声は柔らかかった。
「では、その途中ごと、救いの記録に残すべきですわね」
リリアは答えられなかった。
途中ごと。
それは、自分の言葉ではなかった。
でも、完全に違うとも言えなかった。
礼拝堂の空気が、また少し整った。
神殿長が頷く。
「救済記録には、その旨も記すことにしよう」
侍祭が書板を開く。
兵士が涙を拭う。
杖の女が、小さく笑う。
老婆が手を合わせる。
すべてが、少しずつ収まっていく。
リリアは、収まっていく礼拝堂を見ていた。
自分の祈りは、偽りではなかった。
救いは届いていた。
まだ途中だと、言うこともできた。
それなのに。
途中であることまで、あの白い聖女の言葉の中に置かれてしまった気がした。
メアリーは、聖女像の前で祈りを捧げていた。
白い光が、彼女の髪を朝のように照らしている。
その姿は、あまりにも美しかった。
誰かが、静かに言った。
「聖女様……」
それが誰に向けられた言葉なのか、
一瞬だけ分からなかった。
あの白い聖女の祈りは、あまりにも朝に似ていた。




