第2話:門が落ちなかった理由
「カイン。お前はもう必要ない」
勇者レオンは、そう言った。
言い慣れた声ではなかった。
何度も考えて、何度も飲み込んで、それでも最後には言うしかなかった声だった。
だから、俺は少しだけ笑いそうになった。
優しさを混ぜれば、刃が鈍るとでも思ったのだろうか。
「そうか」
返せたのは、それだけだった。
火力なら魔導士がいる。
治癒なら聖女がいる。
斥候なら獣人の少女がいる。
勇者の剣は、今日も光っている。
支援術師。
そう呼ばれていた俺の仕事は、いつも戦いが終わったあとにしか数えられなかった。
誰の剣が魔物を斬ったのか。
誰の魔法が群れを焼いたのか。
誰の祈りが傷を塞いだのか。
そういう話の中に、結界の揺れを半歩だけ戻した人間の名前は残らない。
「最後に一つだけ」
俺は荷物を肩にかけた。
「北門の結界は、今夜も見るんだな」
レオンが眉をひそめる。
「まだそれを言うのか」
「あそこは三日前から歪んでいる」
「最後まで地味だな、お前は」
笑い声が起きた。
誰が笑ったのかは見なかった。
見れば、覚えてしまう。
覚えれば、腹が立つ。
腹が立てば、何か言いたくなる。
言っても、届かないことは知っていた。
俺は踵を返した。村を出るつもりだった。
出るつもりで、宿に戻った。
出るつもりで、荷物をまとめた。
出るつもりで、外套の紐を結んだ。
もう知らない。
そう思った。
思えた、はずだった。
窓の外、北門の方角で結界灯が一度だけ瞬いた。
足が止まった。
「……まだ見るのかよ」
自分に向けて、そう呟いた。
返事はなかった。ただ、足だけが北門へ向いていた。
感謝されたかった。そう思ったのは、本当だ。
必要だったと言われたかった。
自分が毎晩見ていたものに、意味があったのだと、誰かに言ってほしかった。
それでも。
北門の歪みは、放っておけなかった。
誰かが代わりに見るかもしれない。一瞬だけ、そう思った。
だが、すぐに分かった。この歪みは、見ようとする者にしか見えない。
そして今夜、見ようとしている者は俺だけだった。
代わりはいない。誰にも気づかれないまま、門は落ちる。
北門には、年若い門番が一人立っていた。
俺を見るなり、彼は気まずそうに目を逸らした。
「まだいたのか」
「北門だけ見たら出ていく」
「……出ていくのか」
「出されたからな」
門番は何も言わなかった。
俺もそれ以上は言わなかった。
石造りの門柱に手を当てる。
冷たい。
冷たいが、奥で熱が絡んでいた。普通の者には見えない。
結界の光は、今日も薄く門を包んでいる。
裂けているわけではない。
破れているわけでもない。
警鐘が鳴るほどの異常は、まだどこにもない。
ただ、光の膜が、一呼吸だけ遅れて揺れる。
たったそれだけ。
だが、俺には分かった。門は、今夜落ちる。
「警鐘を鳴らせ」
門番が目を見開いた。
「今か?」
「今じゃなければ遅い」
「でも、何も――」
言い終わる前に、森の方で鳥が飛んだ。
一羽ではなかった。黒い影が、枝を割るように空へ散る。
次に、地面が鳴った。
低い音だった。遠くで雷が転がるような。けれど、空は晴れていた。
魔物の群れが来る。門番の顔から血の気が引いた。
「鳴らせ!」
今度は、彼も動いた。
警鐘が鳴る。
一つ。
二つ。
三つ。
村の灯りが揺れた。
家々の扉が開く。
人の声が増える。
それより早く、北門の結界が軋んだ。
見えていた歪みが、形を持ち始める。
外側からぶつかる魔物の爪。
内側でずれる術式。
門柱に走る細い光の亀裂。
俺は結界柱の根元に膝をついた。
「西側の副術式を切れ!」
門番が叫ぶ。
「誰に言ってる!」
「お前だ!」
「俺は門番だぞ!」
「今から支援術師の真似をしろ!」
門番は一瞬だけ固まった。
それから、泣きそうな顔で副術式の紐を引いた。
光の流れが変わる。少しだけ、間に合った。
北門の向こうで、魔物の群れがぶつかった。
結界が沈む。
門が揺れる。
石の継ぎ目から砂が落ちる。
俺は魔力を流した。
派手な光ではない。
炎でもない。
剣でもない。
祈りでもない。
歪んだ術式の端を拾い、ずれた結び目に噛ませる。
裂けそうなところへ細い魔力を通す。
切れたら終わる。
太く流せば爆ぜる。
弱ければ抜ける。
細く。
薄く。
何度も折り返す。
いつもやっていたことだった。
誰にも見られないところで。
戦いの前に。
戦いの後に。
何も起きなかった夜に。
門の外で、勇者の声がした。
レオンたちが来たのだろう。
剣の光が走る。
魔導士の火が森を照らす。
聖女の祈りが負傷者へ降る。
村人も動いていた。
老人が子供を抱えて逃げる。
誰かが桶で火を消す。
誰かが補強材を運ぶ。
門番が震えながら警鐘を鳴らし続けている。
皆が動いていた。
それは本当だった。
けれど、結界柱の根元で門を支えているのは、俺だった。
光は派手ではなかった。
ただ、門が落ちなかった。
もう一度、魔物がぶつかった。
結界柱の一本が、内側から弾けた。
破片が頬をかすめる。
熱いものが流れた。
門番が息を呑んだ。
「今の、普通なら門ごと抜けてたぞ……!」
駆けつけた魔導士が、焼け焦げた術式の残滓を見て青ざめた。
「支えがなければ即時崩壊です。誰かが、内側から結界を噛ませていなければ……」
視線が、結界柱の根元へ向く。
俺はそこにいた。
片手を柱に当てたまま、膝をついていた。
息がうまく吸えない。
指先の感覚も薄い。
それでも、魔力の糸だけは離さなかった。
北門は落ちるはずだった。
だが、落ちなかった。
理由は、そこにいた。
夜明け前、魔物の群れは退いた。
北門は立っていた。
完全な姿ではない。
門柱の一部は砕け、結界灯の半分は消えている。
石畳には焦げ跡が残り、補強材は折れていた。
それでも、門は落ちなかった。
村も、残っていた。
レオンが近づいてきた。
剣は泥で汚れていた。
肩で息をしている。
勇者らしい光は、もうほとんど残っていなかった。
彼は結界柱を見た。
焼けた術式を見た。
門番を見た。
魔導士を見た。
最後に、俺を見た。
何か言おうとした。
けれど、言い訳になる言葉は見つからなかったのだと思う。
「カイン」
久しぶりに、名前を呼ばれた気がした。
「お前がいなければ、この村は守れなかった」
その声は、大きくなかった。
それでも、届いた。
ようやく。
ようやく、俺の名前が呼ばれた。
必要ないと言ったその口で、必要だったと、言われた。
村人たちがこちらを見ていた。
「ありがとう、カインさん」
「あんたが門を支えてくれたんだな」
「毎晩、見てくれていたのか」
俺は何も言えなかった。
言いたいことはいくらでもあった。
だから言えなかった。
ただ、焦げた指を握った。
痛かった。
その痛みまで、ようやく数えられた気がした。
そのときだった。
「あら」
澄んだ声が、夜明けの北門に落ちた。
「もう守られてしまいましたの?」
白い聖女が立っていた。
メアリー・ホワイト。
名は知っていた。
王都で、争いの場を収め、悲しみに意味を与える聖女だと。
彼女は、壊れかけた門を見た。
焼けた術式を見た。
眠れない顔の村人たちを見た。
泥を浴びた勇者を見た。
そして、俺を見た。
一秒。
それだけだった。
それなのに彼女は、この夜がもう守られていることを理解した顔をしていた。
「カイン様がいなければ、この村は守れませんでした」
まず、そう言った。
正しかった。誰も、否定しなかった。俺も、否定できなかった。
「けれど」
メアリーは夜明けの北門を見回した。
「この夜は、皆様が守られた形になっておりましたわね」
形。
俺は、その言葉を聞いた。
「警鐘を鳴らした方がいて」
「水を運んだ子供がいて」
「火を消した方がいて」
「補強材を運んだ方がいて」
「剣を取った勇者様がいて」
メアリーは微笑んだ。
「誰か一人の勝利ではなく」
メアリーは、壊れかけた北門を見上げた。
「村が村を守った夜、という形になりますわね」
間違ってはいない。
門番は鳴らした。
子供は水を運んだ。
村人は補強材を運んだ。
レオンは外の魔物を斬った。
魔導士は火を放った。
聖女は傷を塞いだ。
皆が守った。
それは本当だった。
だから、何も言えなかった。
「聖女様のおっしゃるとおりだ」
誰かが言った。
「村が……村を守ったんだ」
「みんなで守った夜だったんだな」
夜明けの空気が、少しずつ整っていく。
壊れた門。
焦げた術式。
泥のついた剣。
震えていた門番。
水桶を抱えた子供。
全部が、一枚の絵のようになっていく。
村が村を守った夜。
きっと、それは良い言葉だった。
たぶん、間違っていなかった。
メアリーは満足そうに目を細めた。
「皆様、ご無事で何よりでしたわ」
そして、朝の光の中へ歩いていく。
誰かが彼女に礼を言った。
俺ではない。
それでも、その声はよく通った。
村は守られた。
勇者も認めた。
村人も礼を言った。
俺の名も、確かに呼ばれた。
それなのに。
あの夜のことを思い返すと、
誰が門を支えていたのか、
少しだけ分からなくなる。
夜明けまで、
あの白い聖女の声ばかりが耳に残っていた。




