第1話:誰かが締めなければなりませんもの
「ロゼリア・クロウ。君との婚約を、今日ここで破棄する」
王太子アベルの声が、大広間に落ちた。
音はよく通った。
よく通るように、彼は発声していた。
断罪の場にふさわしい声。
会場の端にいる貴族たちにも届く声。
そして、私が反論するより早く、私を悪役にするための声だった。
アベルの隣で、アリア・ルミナスが肩を震わせていた。
白い手袋に包まれた指が、細く胸元を握っている。大粒の涙が、ちょうどよい間隔で頬を伝っていた。
「わたくし、何度もロゼリア様には申し上げました。孤児院への支援金を、私的に流用するようなことはおやめください、と」
会場がざわめいた。
アリアは怯えたように私を見る。
「けれどロゼリア様は、わたくしが聖女候補として選ばれたことをお恨みになって……。嫌がらせの手紙も、儀式室の封印を乱した件も、すべて……」
そこまで言って、アリアは声を詰まらせた。
涙。
沈黙。
震える肩。
よくできている、と思った。
孤児院支援金の横領。
聖女候補への嫌がらせ。
聖女選定儀式への妨害。
三つの罪状は、ばらばらに見えて、ひとつの姿を作っている。
慈愛がない。
人格が悪い。
信仰心もない。
つまり私は、聖女候補に相応しくない悪役令嬢なのだと。
アリアは罪を並べているのではない。
物語を作っている。
ロゼリア・クロウという女は、こういう人間なのだと。
「ロゼリア」
アベルが私を見た。
その目には、すでに結論があった。
「何か申し開きはあるか」
申し開き。
その言葉が、少しだけおかしかった。
私は一歩前に出た。
「では、まず孤児院支援金の件から確認いたしましょう」
会場の空気が揺れた。
私は侍従に目配せする。
侍従は一瞬だけ戸惑い、それでも私の合図どおり、用意していた書類箱を前へ運んだ。
「これは孤児院側の受領帳の写しです。日付、金額、受領印。いずれも王宮会計局に提出された記録と一致します」
「帳簿など、後から整えられる」
アベルの後ろに立っていた伯爵が言った。
もっともな反論だった。
だから私は、うなずいた。
「ええ。ですから、帳簿だけでは足りません」
私は証言台の方を見た。
「院長を」
扉の脇から、老いた女性が進み出た。
孤児院の院長だった。
彼女は貴族たちの視線に晒され、青ざめていた。それでも、証言台の前まで歩いた。
「支援金は、確かに孤児院へ届いております」
かすれた声だった。
「ロゼリア様が横領した事実は、ございません」
会場に小さなざわめきが広がる。
アリアの涙が、一瞬だけ止まった。
「それどころか」
院長は両手を握りしめた。
「不足分を補ってくださったのは、ロゼリア様でございます。ご自分の持参金から」
ざわめきが、少し大きくなった。
私は何も言わなかった。
見せるためにしたことではない。
だが、見せなければ届かないのなら、今日は見せるしかなかった。
「次に、嫌がらせの手紙について」
私は別の書類を出した。
「筆跡は私のものではありません。封蝋もクロウ家のものではありません」
「そんなもの、いくらでも――」
「ええ。偽れます」
私は言葉を重ねた。
「ですから、偽らせた方に証言していただきます」
アリアの後ろに控えていた侍女が、震えながら一歩前に出た。
アリアが目を見開く。
「あなた……?」
侍女は顔を伏せたまま、細い声で言った。
「ロゼリア様のお名前で手紙を出すよう、命じられました」
会場が静まり返った。
「誰に」
アベルが問う。
侍女は、泣きそうな顔でアリアを見た。
「アリア様からです」
「違うわ」
アリアの声が、初めて揺れた。
「あなた、何を言っているの。わたくしは、そんなこと――」
「では、聖女選定儀式の件へ移りましょう」
私は最後の記録を開いた。
神殿の入退室記録。
封印室の鍵の管理簿。
儀式当日の祈祷室の記録。
「儀式室の封印が乱された時刻、私は王宮礼拝堂におりました。司祭長の記録にも残っています」
司祭長が無言でうなずいた。
「封印室の鍵を持ち出したのは、アリア様付きの侍女。戻したのは、その三十分後」
侍女が膝をついた。アリアの顔から、血の気が引いていく。
「そんな……そんなはず……」
声が細くなる。
涙は、もう流れていなかった。
泣く余裕がないのだと思った。
私を悪役令嬢にするための柱が、一本ずつ折れていく。
慈愛がない。
人格が悪い。
信仰心がない。
その全部が、紙と証言と記録の前で崩れた。
アベルは何か言おうとした。
けれど、言葉にならなかった。
断罪の言葉は持っていた。
糾弾の言葉も持っていた。
けれど、謝罪の言葉だけが見つからなかった。
沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、老侯爵がゆっくりと顔を上げた。
彼は、帳簿を見た。
証言台の院長を見た。
震える侍女を見た。
神殿の記録を見た。
最後に、私を見た。
パチ、と乾いた音がした。
老侯爵が、杖を床に立てたまま、片手だけで拍手していた。
一度だけではなかった。
二度目の拍手が起きた。
今度は、一人ではなかった。
小さく。
ばらばらで。
けれど、確かに。
それは、アリアを責める拍手ではなかった。
アベルを黙らせた拍手でもなかった。
真実そのものへ向けられた拍手でも、なかった。
ロゼリアへ向けられた拍手だった。
届いた。
ようやく。
ようやく、届いた。
言葉ではなく。
家名ではなく。
証拠の束だけでもなく。
私自身へ。
「……ならば」
誰かが、拍手の間から声を漏らした。
「なぜ、今まで黙っていたのです」
私はその人を見た。
責める声ではなかった。
初めて、私に向けられた問いだった。
「申し上げました」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「ですが、誰も聞いてくださいませんでした」
また沈黙が落ちた。
先ほどとは違う沈黙だった。
私を断じるための沈黙ではない。
私を見直すための沈黙だった。
私は息を吸った。
まだ言うべきことが残っている。
ここから先は、誰かに断じられるための言葉ではない。
自分で、自分の勝利を引き取るための言葉だった。
そのとき。
扉が開いた。
「あら」
白い少女が、会場の入口に立っていた。
「もう終わってしまいましたの?」
誰も声を出さなかった。
少女は、場違いなほど穏やかに歩いてきた。
白いドレス。
白い手袋。
柔らかく結われた淡い髪。
聖女、と誰かが小さく呟いた。
メアリー・ホワイト。
その名を、私は知っていた。
けれど、会ったことはなかった。
メアリーは会場を見回した。
一秒。
それだけだった。
それなのに彼女は、この場がもう終わっていることを理解した顔をしていた。
「涙が早すぎましたわ、アリア様」
メアリーは、崩れ落ちたアリアを見て言った。
「最初の罪状であそこまで泣いてはいけません。観客の同情は、まだ温まっておりませんもの」
アリアが、何を言われたのか分からない顔をした。
メアリーは次に、アベルを見た。
「殿下も、沈黙が少し遅うございました。断じるなら最後まで。悔いるなら、もう少し早く息を止めるべきでしたわ」
アベルは何も言わなかった。
最後に、メアリーは私を見た。
「けれど、ロゼリア様」
彼女は微笑んだ。
「証拠は、とてもよく整っておりましたわ」
褒められたのだと、分かるまでに少しかかった。
「あと一歩で、完璧な逆転劇でしたのに」
逆転劇。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
褒められたはずだった。なのに、少しだけ寒かった。
メアリーは会場へ向き直った。
「つまり」
その一言で、会場の空気が整った。
私が吸い込んだはずの息が、行き場を失った。
「皆様がようやく、見るべきものをご覧になっただけですわ」
間違ってはいない。
誰も、間違っているとは言えなかった。
確かに会場は見た。
帳簿を。
証言を。
記録を。
アリアの崩れる顔を。
アベルの沈黙を。
見るべきものを、ようやく見た。
けれど。
「ありがとうございます、聖女様」
誰かが言った。
私ではない方を見て。
メアリーは当然のように、その声を受け取った。
私は、少しだけ口を開いた。
何を言えばよいのか分からなかった。
なぜ、何なのか。
何を問いたかったのか。
何がおかしいのか。
言葉にならなかった。
ただ、一つだけ、目に見えていることがあった。
「どうして、あなたに礼を言うのですか」
メアリーは、少しだけ考えた。
「だって、終わっておりませんでしたもの」
私は言葉を失った。
「まだ、誰も締めておりませんでした」
「それは、あなたでなければいけませんの」
「別に、わたくしでなくても構いませんわ」
あまりにも軽い声だった。
「けれど」
メアリーは微笑んだ。
「誰もなさらないなら、わたくしがいたします」
「本気で仰っているのですか」
メアリーは、不思議そうに首を傾げた。
「だって、誰かが締めなければなりませんもの」
その声は、あまりにも自然だった。
空が青いと告げるように。
春になれば花が咲くと語るように。
私は勝った。
そう思っている。
そう思っている、はずなのに。
どうしてだろう。
あの白い女の顔ばかり思い出す。




