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馬車が止まる。アイリーンは、シェルトに手を引かれて馬車から降りると。
「ここは……」
目前には、屋敷とは程遠い建物が建っていた。
「これは、物置か何かでしょうか……」
お嬢様育ちのアイリーンには、どう見ても物置か何かにしか見えない。
「はは、これでも一応家だよ」
「お家、ですか……」
躊躇うアイリーンの手を取りシェルトは、家の中へと入っていく。家の中は、外観通りで狭く部屋も3つしかなかった。
「あの、シェルト様……この場所は」
「君と僕の、2人の家だよ」
「私と、シェルト様の……お家」
予想外の展開にアイリーンは、頭が追いつかない。この小さな家が自分とシェルトとの家?と言う事は、ここに2人で暮らすと言う意味なのか。
シェルト様と、2人で暮らす……。
一瞬にして頭の中を様々な妄想が駆け巡る。一緒にご飯を食べたり「はい、シェルト様。あ~んして下さい」とか。一緒にお茶をしながら読書したり「アイリーン、僕の膝の上においで」とか。い、一緒にベッドで……ね、寝ちゃったりして「アイリーン……」「だ、ダメです!そんな、シェルト様っ!」とか。
それは、かなり嬉しい。いや、恥ずかしい!思わず頬が緩んだが、直ぐに思い直す。いや、いや、色々おかしいし、問題があり過ぎる。アイリーンは、首を横に振り冷静に考えた。
「で、ですが、私とシェルト様は、その……婚約している訳でも、婚姻関係でもありませんので、い、一緒に暮らすなんて、そんな」
動揺してしどろもどろになり、声も上擦る。顔は見るまでもなく真っ赤だろう。
「アイリーンは、僕と一緒は嫌なの?」
でた。シェルト様の必殺技至近距離!鼻が触れる程顔を近づけてくる。熱い息が唇にかかり、身体が震えてしまう。
そんな、悲しそうな顔で、こんな距離で見つめないで下さい!私、心臓が破裂してしまいます!
別に直接触れられている訳ではないのに、身体中が熱くて、動けなくなる。こ、これが所謂惚れた弱み⁈いつかの本に書いてありました。
「い、嫌など、と……そんな事、は」
絞り出した声は、自分でも驚く程甘く響いた声色だった。恥ずかしい……。シェルトにも、無論それは伝わっているようで意地悪そうに笑った。
ここに来てから、ひと月。この小さな家には、アイリーンとシェルトしかいない。身の回りの世話をしてくれる侍女も執事もいない。家の周りには、数人の護衛の者達が常にはいるが、他の従者はいない。故に、全て自分の事は自分でしなくてはならいので、凄く大変だった。何もかもが。
生きるって、大変なのね。この歳で初めて実感した。
ここに来て、アイリーンは学んだ。
ご飯を食べるには、食材を調達しなくちゃいけない。調達したら、調理しなくてはいけない。ご飯に有り付けるはその後だ。その後の片付けもある。まあ、食料は毎日シェルトの従者が届けてくれている為、そこに不便はないのだが。
その他、掃除に洗濯、着替えだって全部自分1人でする。
産まれた時から、何不自由なく暮らし、寧ろ至れり尽くせりな環境だったアイリーンには、このひと月は酷く大変なものだった。大好きな読書などする時間など到底ない。
「アイリーン、美味しいよ。この卵料理」
「……お世辞なら結構です。こんなに、焦げ焦げのオムレツなど美味しい筈ありません」
始めの数日間。家事を教えてくれる先生なる人が来ていた。話によれば、シェルト専属の執事らしい。兎に角、何でも完璧にこなす人で、子供染みた表現だが魔法使いか何かなのかと目を疑った。
そして、意外な事にその間シェルトもアイリーン同様、一緒に家事を学んでいた。王子だと言うのに、本当に変わった人だ。
「絶対、シェルト様が作られた方が美味しいです……」
「そうかな?僕は、アイリーンの手料理好きだよ」
そう言いながらシェルトは、焦げ焦げのオムレツを美味しそうに頬張る。その様子にアイリーンは、ため息を吐いた。
想像と現実が、違い過ぎる。甘ったるい時間は一体どこに……。本当ならここで「シェルト様、あ~ん」の筈なのに!……でも、幸せに変わりはないのだが。
「この、ブラックオリーブ?良い感じにアクセントになってるし」
「……オリーブなんて、いれてません。それ、ただの焦げの塊ですよ」
「……」
「……」
言うまでもないが、シェルトも家事の経験など皆無だった。なのに、遥かにアイリーンより上達が早かった。今では、全て完璧にこなせると言っても過言ではない。
世の中、不公平だわ。多才な人ってズルい。
アイリーンは、少し拗ねたようにしてシェルトを見遣る。本当に、素敵な人だと思う。容姿端麗で頭も良くて、順応力も高く、手先も器用で何でも出来る。たまに意地悪だけど基本は優しい。何もかもが、完璧で……たまに、不安になる。
その内、この幸せな日々は終わり、シェルトに見捨てられてしまうのではないか。そんな不安が常について回り頭から離れない。
その理由は、2つある。
アイリーンとシェルトは、この家で暮らしている。厳密には、アイリーンがだ。シェルトは、毎日夜遅く必ず帰って行く。例外はない。
アイリーンがベッドに入るのを見届けると「また、明日。お休み、アイリーン」そう言って家を後にする。外からはシェルトが馬車に乗り込み去って行く音が聞こえてきて、毎日寂しさに胸を締め付けられそうになる。
もう1つは、曖昧な関係だと言う事。シェルトはアイリーンに一切触れない。距離こそ近いが、絶対に触れてこない。そして、アイリーンの事を好きだと1度も言ってくれた事がなかった……。婚約者にしてくれる訳でも、婚姻の話をする事もなく、彼にとって自分は何なのか不安が募っていく。
「ん~……朝」
窓から差し込む日差しの眩しさに、アイリーンは目を開けた。朝食の支度をしなければ……シェルトが来てしまう。
今日もまた、シェルトは朝早く家を訪ねて来た。




