第88話 選ばなかった代償
老人の治療は、夜通し続いた。命は取り留めた。だが、足はもう元には戻らない。
焚き火の火が、力なく揺れる。誰も、大きな声を出さなかった。
「……俺が」
若い冒険者が、かすれた声を絞り出す。
「迷わなければ」
「違う」
ミレナが、間を置かず遮った。
「迷ったのは、みんなです」
「でも、最後に止まったのは、俺だ」
沈黙が落ちる。誰も、それを完全には否定できなかった。管理があれば、自動抑制が間に合った可能性はある。だが、この土地では、その仕組みそのものが動かない。
「……踏めば」
誰かが、ぽつりと漏らした。
「踏めば、間に合ったかもしれない」
空気が、ずしりと重くなる。踏めない境界だった――そのはずだった。だが、本当に不可能だったのか。誰にも分からない。分からないまま、皆が踏まなかった。それが、消えない現実だ。
ミレナは、膝の前の地面をじっと見つめる。
「私は、踏まないって決めました」
彼女は、言葉を選ぶように続けた。
「読めなかったから。……怖かったから」
その正直さに、誰も口を挟めなかった。
「それでも」
若い冒険者が、火を見たまま言う。
「結果は、これだ」
焚き火が、ぱちりと爆ぜる。火の粉が短く舞って、消えた。
アレンは、しばらく何も言わなかった。やがて、静かに口を開く。
「選ばなかった代償だ」
否定もしない。慰めもしない。
「選んでいれば、別の代償が出たかもしれない。踏んでいれば、もっと失っていたかもしれない。管理があれば、防げたかもしれない」
彼は、一度言葉を切った。
「どれも仮定だ。だが、起きた現実は、一つしかない」
薪をくべ直す手が、火明かりに照らされる。
「正解はない。あるのは、選んだという事実だけだ」
ミレナが、顔を上げた。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
声が、わずかに震えていた。
「次は、同じ迷い方をするな」
アレンは、焚き火の向こう、闇に沈んだ担架のほうへ目をやる。
「今日の迷いを、覚えておけ。怖かったことも、足が止まったことも。それを、次の判断に使え」
若い冒険者が、膝の上で拳を握った。
「……逃げたいです」
偽らない言葉だった。
「逃げてもいい」
アレンは、即答する。
「だが、逃げると決めるのも、選択だ」
誰かに押しつけられた決断ではなく、自分の意志で選ぶのなら。それも、背負うということだった。
火が細くなり、夜が一段と深くなる。この空白地帯では、選ばなかったことの代償まで、隠しようもなく剥き出しになる。
ミレナが、低い声で言った。
「……次は、逃げません」
その声は、昨日よりも重く、沈んでいた。成長でも、覚悟でもない。ただ、代償を目の当たりにした者の声だった。
アレンは、老人の傷口の上で掌を止めた。光を通せば痛みは消える。消してしまえば、この場の誰も、次から自分の手で血を止めることを覚えない。掌を、そのまま下ろした。
担架の老人が、浅い眠りの中で小さく呻く。その呻きを聞きながら、若い冒険者は明日の夜明けまで、火の番を替わろうとしなかった。
代償を目の当たりにしてなお、朝は来て、境界はまた揺れる。それでも、選ぶのか。




