第87話 恐怖の再来
揺れは、予告もなく強まった。
観測結晶が甲高く軋み、空気が引き絞られるように震える。若手技師が結晶を覗き込んで、声を裏返らせた。
「規模、増大!」
境界は、今までと違った。輪郭が水面のように揺らぎ、脈打つたびに、地面の色がすっと抜けていく。踏み固められた土が、みるみる灰色に褪せた。
「避難、即時!」
ミレナの叫びで、住民たちが走り出す。昨日より速い。恐怖を一度味わった体は、覚えている。
だが――足の遅い老人が一人、根に躓いて転んだ。
「待て!」
若い冒険者が駆け寄る。その瞬間、境界の揺れが跳ね上がった。空間が音もなく裂け、歪みが老人の足元まで走る。
「引け!」
誰かが叫んだ。若い冒険者の足が、ほんの一瞬、止まる。助けるか、下がるか。迷いが指先で凍りついた、その刹那――歪みが爆ぜた。
衝撃と土煙。そして、悲鳴。
揺れは、数秒で収まった。あとに残ったのは、黒く焦げた地面と、深く裂けた老人の足だ。
「……生きてる」
リーファが、震える声で脈を確かめる。命はある。だが、この傷は元には戻らない。
若い冒険者は、その場に膝をついた。
「……俺が、迷ったから」
誰も、否定しなかった。否定できなかった。管理があれば、装置が反応していたかもしれない。自動抑制が間に合ったかもしれない。そう考える者が、この場に確かにいる。
ミレナが、奥歯を噛みしめる。
「判断、遅れました」
「違う」
アレンは、静かに言った。
「判断は、間に合っていた」
彼は焦げ跡へ目を落とす。
「だが、世界のほうが速かった」
境界は、以前より短い間隔で牙を剥くようになっている。強さだけではない。性質そのものが、変わりつつあった。管理が通じない、という一言では片づかない。
「……怖い」
若い技師が、隠さずに言う。
「管理があれば、って、どうしても考えてしまう」
「考えていい」
アレンは、それを否定しなかった。
「管理は、必要だ。ただ、ここでは通じない。それだけだ」
ミレナが、拳を握った。
「じゃあ、どうするんですか」
その問いに、怒りも責任転嫁もない。剥き出しの、本気の問いだった。アレンは少しだけ間を置いて、答える。
「怖いと、認める」
「……それだけですか」
「それだけだ」
恐怖を無理に否定すれば、判断が鈍る。恐怖を消してしまえば、考えることをやめる。管理という仕組みは、恐怖を薄めてくれる。だが、それの届かない空白地帯では、恐怖がそのまま戻ってくる。悪いことではない。ただ、重い。
負傷した老人が、担架に乗せられていく。若い冒険者は、震える手を握りしめたまま、立てずにいた。
「……俺、戻った方が、いいですか」
逃げたい、とは言わない。だが、意味は同じだった。
アレンは、答えなかった。代わりに、彼の隣へ腰を下ろす。
「一人で決めるな」
それだけを、低く置いた。
ミレナが、湯を注いだ椀を二つ持ってきて、片方を地面に置いた。手渡しはしない。置いた場所は、アレンの手が届く、ぎりぎり外側だった。
焦げた土の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。担架を運ぶ足音が遠ざかり、境界のあった場所には、褪せた灰色の輪だけが残った。次に揺れが来たとき、この輪の中で、また誰かが助けるか下がるかを選ぶことになる。アレンは、その輪の縁をしばらく見つめていた。
選ばなかったことにも、代償はある。次話、その重さを、焚き火の傍らで数えることになります。




