第86話 同行者の立ち位置
空白地帯の朝は、妙に澄んでいた。昨夜の境界は現れない。だが、誰も気を抜いていない。管理装置は沈黙したまま、観測班は交代で見張りを続けている。
「……眠れましたか」リーファが、アレンに声をかける。
「少しな」
本当は、ほとんど眠っていない。だが、それを言う必要はなかった。
少し離れた場所で、ミレナが地図を広げている。境界の発生地点、揺れの方向、避難経路。昨日の判断を、一つずつ振り返っているのだ。
「……間違ってたら」ぽつりと呟く。
アレンは、隣に立ったが、地図を覗き込まなかった。
「何がだ」
「避難を優先したこと。踏まなかったこと。何もしなかったこと」ミレナは、地図の端を握る。「もし、あれが拡大してたら」
「拡大しなかった」
「結果論です」
アレンは、少し考えてから言った。
「結果論でいい」
「……え?」
「判断は、未来を見てできない。できるのは、今持ってる情報だけだ」
ミレナは、黙った。管理がある世界では、基準がある。統計がある。成功率がある。だがここでは、“その場の自分”しか、頼るものがない。
「俺はな」アレンは、空を見ながら言う。「正解を持っていない。でも、知ってることはある」
「何ですか」
「一人で背負うな」
ミレナが、目を上げる。
「昨日の判断は、お前だけのものじゃない。全員で選んだ」
「……でも、最後に言ったのは、私です」
「最後に言う役が、回ってきただけだ」
沈黙。風が、草を揺らす。
「じゃあ、アレンさんは」ミレナが、ゆっくり聞く。「何なんですか。判断もしない。命令もしない。正解も出さない。何のために、ここにいるんですか」
少し、間を置く。答えを探すというより、言葉を選ぶ時間だった。
「同行者だ」
「……同行者?」
「ああ。決めない。だが、逃げない。間違えた時に、一緒に受け止める役だ」
ミレナは、言葉を失った。管理の世界では、責任は制度に向く。空白地帯では、責任は個人に向く。だが、誰かが横に立っていれば、完全な孤立にはならない。
「それって」ミレナが、少し笑う。「ずるくないですか」
「ずるい」アレンも、わずかに笑った。「英雄じゃないからな」
遠くで、見張りの声が上がった。
「揺れ、微弱!」
全員の視線が、そちらへ向く。小さい。だが、確かにある。誰も、アレンを見なかった。
ミレナが、深く息を吸う。
「観測継続。避難は待機。拡大兆候が出たら、即移動」
短く、明確に。その声は、昨日よりも、迷いが少ない。
アレンは、何も言わない。ただ、隣に立つ。ここでは、管理も万能ではない。冒険者も万能ではない。だが、一人で決めなくていいという事実が、人を前に進ませる。
隣に立つあいだ、アレンは意識して息を浅くしていた。深く吸えば、六つのうち風がいちばん先に立つ。ここで立たれると、彼女の判断より速く境界が動いてしまう。
ミレナが観測位置へ駆け出す。その背中は、もう誰の指示も待っていなかった。アレンは一歩遅れて、同じ方向へ足を向けた。
薄れていたはずの恐怖が、装置の届かない場所で牙を戻します。恐怖はたいてい、代償を連れてきます。




