第75話 境界技師の決断
エルドは、眠れていなかった。机の上には、報告書の山。どれも、数字としては優秀だ。境界の発生件数、抑制の成功率、被害の軽減率。いずれも、導入前より明確に改善している。
「……事故は、減っている」
それは、まぎれもない事実だった。だからこそ、彼はつい、次の一手を考えてしまう。
「エルド技師」
呼びかけに、顔を上げる。
「自動派遣案。上層部が、前向きです」
「……そうですか」
境界発生の兆候を予測し、装置と技師を自動的に送り込む仕組み。人の判断を挟まない。迷いも、遅れも、感情もない。理想的だ。
会議室では、都市側の代表者たちが資料を睨んでいた。
「境界対応は、ますます安定する」
「属人的な判断を、完全に排除できる」
「責任の所在も明確だ。技師団が、一元で管理する」
エルドは、ゆっくり頷いた。「はい。すべて、想定の通りです」
その言葉に、誰も異を唱えない。反対する理由が、そもそも存在しない。
「……現場判断は」
一人が、形ばかりに聞いた。
「不要になります」エルドは答える。「例外処理も、システム側で吸収します」
誰かが、小さく感嘆の息を漏らした。「完璧だな」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが冷たく固まった。だが、エルドは止めなかった。止める理由が、どこにもなかったからだ。
数日後、自動派遣体制は試験運用に入った。境界は、人が気づく前に抑え込まれる。冒険者が現場へ向かう前に、もう終わっていることさえあった。
「……楽ですね」
若い技師が、正直に言った。「判断しなくていい。怒られもしない」
それも、事実だ。事故は起きない。失敗も起きない。だが、その代わりに――修正も、起きなくなった。
「……エルド技師」
報告書を受け取りながら、補佐が躊躇いがちに言う。「この区域、避難路が使えなくなっています」
「装置は」
「正常です。境界も、抑制されています」
「なら、問題ありません」
即答だった。補佐は、それ以上、何も言えなかった。
境界は消えた。被害もない。だが、塞がれた避難路は、塞がれたままだ。誰も気づかない。気づく必要が、もうないからだ。
夜、一人になったエルドは、窓の外を見つめていた。
「……引き返せないな」
誰に言うでもなく、呟く。この仕組みは、正しい。成果も出ている。だが、判断する余地は、消えた。人はもう考えない。考える必要が、なくなってしまった。
「……それでも、減った命は戻らない」
自分に言い聞かせるように、もう一度呟く。善意だった。今も、善意だ。だからこそ、この決断は止まらない。
その報告を、アレンは遠くの街で聞いただけだった。何も言わず、止めもせず、裁きもしない。ただ、一つだけ確信していた。エルドは今日、世界を壊す決断をしたのではない。世界を“固定する”決断をしたのだ。
報せを聞いた宿の窓辺で、アレンは掌を上に向けた。六つは、どれも静かだった。世界を固定しにいく力と、固定しないために使わずにおく力が、同じ形をしている。それが、いちばん質が悪い。
それは破滅ではない。だが、二度と元へは戻らない選択だった。翌朝、アレンは動いた。固定された中心へ抗うのではなく、まだ固定されていない街を一つでも多く、この足で回るために。
成功が積み上がるほど、次の一手はやめにくくなります。やめた街の話を、そのあとで。




