第64話 選択の軽さ
それは、事故と呼ぶほど大げさなものではなかった。
境界が発生し、若手の冒険者が踏み、対処は数分で終わった。被害は軽微。家屋一棟の一部が壊れただけで、負傷者はいない。
「……報告は」
「完了してます」受付の冒険者が答える。「判断も、手順も、問題なし」
書類を見ても、確かにそうだ。だが――一行だけ、目に留まった。
境界使用:即時実施
理由:慣例に従い
「……慣例?」
ロイドも、眉をひそめた。
「最近、増えてる。“踏むのが普通”に、なりつつある」
現地へ向かうと、境界はすでに消えていた。対応した冒険者たちは、雑談まじりに後片付けをしている。手を動かしながら笑う声が、やけに軽く聞こえた。
「……判断したのは、誰だ」
俺が聞くと、ミレナが手を挙げた。
「私です」
迷いは、ない。
「理由は」
「踏めば早いから。被害が広がる前に、終わる」
「他の選択肢は」
「……考えませんでした」
その一言が、重い。
「なぜ」
「だって」ミレナは、少し不思議そうに言う。「境界は、踏めるものですし」
間違ってはいない。だが――考えていない。
「……結果は」
「成功です」
確かに、成功だ。だが、成功は理由にならない。
リーファが、静かに口を開いた。
「もし、踏まなくても同じ結果だったとしたら?」
ミレナは少し考え――首を振った。
「分かりません」
それが、答えだ。
帰り道、リーファが唇を噛む。
「……軽いですね」
「ああ」
「覚悟が、ないわけじゃない。でも、選択が軽い」
境界を踏むことが、判断ではなく、反射になり始めている。指が勝手に動くように、考える前に、答えが出てしまう。
丘の上、風が冷たさを増していた。
「兆しだな」旅装の男が、低く言う。
「……小さいが」
「小さいから、厄介だ」男は続ける。「誰も止めない。被害が、ないからな」
俺は、目を閉じた。境界を踏むこと自体を、否定する気はない。だが――考えなくなることは、否定する。
「……どうする」男が聞く。
「俺は」ゆっくり答える。「線を、引き直さない。だが、問いは残す」
それが、今の俺の立場だ。
選択が“軽くなる瞬間”を、今日、はっきりと目撃した。悪意ではない。ただの、慣れだ。そして慣れは、悪意よりずっと静かに、世界を歪めていく。
話し終えて掌を見ると、爪の先が薄く光っていた。気を張ると、六つのうちどれかが勝手に表へ出てくる。慣れというなら、俺のこれも同じだ。
問いを、どこに残すか。次に会うとき、俺はミレナに、あの「他の選択肢は」を、もう一度だけ聞くだろう。
軽くなった選択の中で、“踏まない”を選び続ける子がいます。その理由を、次でユイが問われます。




