第65話 教えなかった理由
境界は、見える。最初から、そうだった。
怖いと思ったこともあるし、不思議だとも思った。でも――「踏みたい」と思ったことは、一度もない。
「ユイ」
声をかけられて、振り返る。ミレナだった。
「ね」彼女は、少し困ったように笑う。「どうして、踏まないの?」
その質問は、これまで何度もされてきた。
「怖いから?」
「……違う」
「損するって、知ってるから?」
「……それも、違う」
言葉にしようとして、やめた。うまく、言えない。代わりに、ぼくは聞き返した。
「ミレナは、どうして踏むの?」
ミレナは、少し考えてから答えた。
「早いから。助かる人が、増えるから」
まっすぐな答え。嘘じゃない。
「……じゃあ」ぼくは、空を見上げた。「もし、誰も助からなくても、踏む?」
ミレナは、少し黙った。
「……たぶん、踏まない」
「どうして?」
「意味が、ないから」
その言葉を聞いて、ずっとばらばらだったものが、すとんとひとつに繋がった。
「……お兄ちゃんね」思わず、口に出る。「教えてくれなかった」
「何を?」
「踏まない理由」
ミレナが、首を傾げる。
「でも」ぼくは、続ける。「教えられてたら、ぼくはきっと考えなかった。踏むか、踏まないか――それを選ぶこと自体を」
空の高いところを、鳥が一羽、横切っていく。
「お兄ちゃんは」ぼくは、静かに言う。「“踏まない”を、正解にしなかった。だからぼくは、まだ考え続けられる」
ミレナは、しばらく黙っていた。
「……ずるいね」
「うん」ぼくは、小さく笑う。「ずるい。でも」
優しい。
境界を見るたび、思う。踏めば、楽だ。早い。でも――踏まないで考えている時間が、ぼくは好きだった。
夕方、丘の上でアレンを見つけた。
「お兄ちゃん」
「どうした」
「……ありがとう」
「何がだ」
「教えなかったこと」
アレンは、少し驚いた顔をして、すぐに目を逸らした。
「……それは、感謝されることじゃない」
「うん」ぼくは、頷く。「でも、ぼくは好き」
それだけ言って、駆け出す。背中の向こうで、風が鳴っていた。
走る途中で、村の人がぼくに手を振った。前は、変な子だって言われていた。お兄ちゃんが「見える子がいる」と言ってから、みんなの顔が変わった。
境界は、これからも出る。人は、踏む。でも――考える人が、残る。それでいい、とぼくは思った。走りながら、次に境界を見たら、今度は自分の口で理由を言葉にしてみようと、そう決めていた。
教えられなかった理由は、言葉にした瞬間こぼれ落ちます。次話、若い三人が同じ岐路に立ちます。
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